呪術の世界に迷い込んだ、パラディ島の悪魔   作:ブァッファイ小五郎

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七話目

 初夏の風が青葉を揺らし、木漏れ日が心地よい昼下がりのことだった。

 東京都立呪術高等専門学校の敷地内、少し外れた場所にある休憩スペース。そこには、数台の自動販売機が並んで静かに稼働音を立てていた。

 伏黒恵、釘崎野薔薇、そしてエレン・イェーガーの三人は、二年の先輩である禪院真希の「ちょっと喉渇いたから、パシリに行ってこい」という理不尽極まりない命令により、この場所まで飲み物を買いに来させられていた。

 

「あーあ、なんで私たちが真希さんのパシリなんかしなきゃならないのよ……真希さん以外だったら断ってたわ……」

 

 釘崎が不満げに唇を尖らせながら、自販機のボタンを乱暴に押す。ガコンッ、というくぐもった音と共に、冷えた缶の緑茶が取り出し口に転がり落ちた。

 

「しかも、ここ自販機の数少なすぎでしょ。炭酸の新作とか全然入ってないし。学長に直訴して、もうちょい種類増やしてくれないかな」

 

 釘崎は缶を取り出しながら、ブツブツと文句を言い続ける。

 

「無理だろ」

 

 伏黒がポケットに両手を突っ込んだまま、呆れたように返した。

 

「ここは高専だぞ。場所が場所だけに、結界の中まで定期的に補充に来れる業者も限られてるんだ。今の台数とラインナップを維持できてるだけでも御の字だと思え」

 

「はーっ、夢がないわね! だから呪術師は世間からズレてんのよ!」

 

 二人がそんな他愛のない言い合いをしている隣で、エレン・イェーガーは、光るボタンが並んだ長方形の鉄の箱、自動販売機を、獲物を観察する猛禽類のような目で食い入るように眺めていた。

 

(なんだ、この機械は……)

 

 パラディ島はもちろんのこと、マーレの街並みでさえ、このような奇妙な代物は見たことがなかった。お金という硬貨を細い隙間に投入し、光るボタンを押すだけで、冷たい飲み物や温かい飲み物が一瞬にして吐き出される。中に人が入っているわけでもない。どうやって温度を管理し、どうやって中の筒(缶)を判別して落としているのか。

 エレンは自身の顔を自販機のアクリル板に近づけ、内部の構造を透視しようとするかのようにじっと見つめ続けた。

 

「……不思議な箱だな。まるで魔法だ。この世界の技術力はどうなっているんだ」

 

 エレンが真面目な顔でボソリと呟くと、釘崎が吹き出した。

 

「ちょっとエレン、アンタ本当にどこから来たのよ。自販機くらいでそんなに感動してたら、東京のど真ん中に行ったら目ぇ回して倒れるわよ」

 

「……俺のいた場所には、こういう便利なものはなかったからな」

 

 エレンは素直にそう答え、伏黒が買ったブラックコーヒーの缶を受け取った。その冷たさに、少しだけ新鮮な驚きを覚える。

 

 そんな、数日前に比べれば随分と穏やかになった日常の空気が、突如として割り込んできた異物によって、冷たく塗り替えられた。

 

「オイオイ、随分と長閑なご身分じゃねえか」

 

 低く、地を這うような野太い男の声。

 そして、それに続く、鈴を転がすような、しかしどこか底意地の悪い女の声。

 

「本当。パシリなんて可哀想に。一年生は大変ねえ」

 

 振り返ると、そこには見知らぬ二人の男女が立っていた。

 一人は、異常なほどに筋骨隆々とした巨体を持つ、顔に大きな傷跡がある男。制服のボタンは弾け飛びそうに張り詰め、その肉体からは隠しきれないほどの膨大な呪力と、暴力の匂いが立ち昇っている。

 もう一人は、ウェーブのかかった黒髪の短いボブカットに、どこか気怠げな表情を浮かべた女。その顔立ちは、彼らがよく知る先輩、禪院真希に、酷似していた。

 

「……なんで、東京にいるんですか」

 

 伏黒の目がスッと細められ、全身の筋肉が微かに緊張を帯びる。その警戒心露わな問いかけの対象は、黒髪の女だった。

 少し後ろに立っていた釘崎が、女の顔を見てハッとしたように伏黒の背中をつついた。

 

「ねえ伏黒、やっぱり? 雰囲気、真希さんにすっごい近いんだけど。姉妹とか?」

 

 釘崎の勘は鋭かった。

 女はフッと冷ややかな笑みを浮かべ、釘崎の方を流し見た。

 

「嫌だなあ、伏黒君。そんなに刺々しい声を出さないでよ。それにそっちの女の子、真希と一緒にしないで。それじゃあ、あの出来損ないの『禪院真希』と区別がつかないじゃない。……私のことは、『真依』って呼んで」

 

 禪院真依。その名前の響きに込められた、双子の姉に対する明確な侮蔑と優越感。

 その隣で、筋骨隆々の男、東堂葵が、まるでエレンのことなど視界に入っていないかのように、伏黒と釘崎だけを交互に指差して豪快に笑った。

 

「コイツらが、海外に行ってる乙骨と、停学中の三年生の代打ってわけか。ひ弱そうな一年坊主どもめ」

 

 東堂の放つ威圧感は、先日倒した三級呪霊などとは比べ物にならない。間違いなく一級クラスの強者。

 

 エレンは、冷えたコーヒーの缶を握りしめながら、静かに二人の闖入者(ちんにゅうしゃ)を観察していた。

 

(別なところの呪術師か? この巨体の男からは、相当な力を感じる。そして、あの女……『禪院真依』と言ったか。顔はあの眼鏡の先輩にそっくりだが、纏っている空気がまるで違う。姉妹でいがみ合っているのか)

 

 エレンにとって、家族や兄弟の確執というものは珍しいものではなかった。しかし、この真依という女から発せられる、ジメジメとした悪意には、どこか鼻につくものがあった。

 

「……で、用件は何ですか。わざわざ京都から東京校まで、嫌味を言いに来たわけじゃないでしょう」

 

 伏黒が冷たく切り返す。

 真依はクスクスと口元を手で覆いながら笑った。

 

「別に? 私はただ、学長についてきちゃっただけよ。東京見物も兼ねてね。……でも、せっかく会えたんだから、少しはお悔やみを言っておこうかと思って」

 

 真依の瞳の奥が、蛇のように細く、冷酷に光った。

 

「同級生が死んだんでしょ? しかも、自分たちの目の前で。……辛かった? それとも、そうでもなかった?」

 

 その言葉の刃に、伏黒と釘崎の顔色が一瞬にして変わった。

 つい先日、少年院の特級呪霊の前に散った虎杖悠仁。その死の傷は、彼らの心にまだ生々しく刻まれている。それを、見ず知らずの他人に土足で踏みにじられたのだ。

 

「……何が言いたいんですか」

 

 伏黒の声が、ドス黒い怒りを帯びて低く沈む。

 釘崎も拳を強く握りしめ、いつでも呪具を取り出せるように身構えた。

 しかし、真依はそんな二人の怒りなどどこ吹く風とばかりに、薄ら笑いを浮かべながらさらに言葉を紡いだ。

 

「いいんだよ、無理しなくても。同級生とはいえ、言いづらいことってあるよね。……だから、代わりに私が言ってあげるわ」

 

 真依は一歩前に出て、まるで世間話でもするように、楽しげに語り始めた。

 

「『宿儺の器』なんて、聞こえはいいけどさ……要するに、あいつは半分は呪いの化け物でしょ? 人間じゃないのよ」

 

 ピクリ、と。

 後ろで黙って話を聞いていたエレンの眉が、わずかに動いた。

 

「そんな、いつ暴走するかもわからない汚らわしい『人外』が、隣で不躾に『呪術師』なんて名乗って、一緒に授業を受けたり任務に行ったりして……本当は、虫酸が走っていたんでしょ?」

 

 真依は、伏黒の顔を覗き込みながら、ニヤニヤと笑みを深めた。

 

「だから、あの化け物が死んで、本当は心の底からせいせいしたんじゃない? 『あーあ、厄介払いができてよかった』ってさ」

 

 その言葉が空気に溶け込んだ瞬間。

 エレンの心の中で、何かが決定的に、冷たく、重く、音を立てて弾け飛んだ。

 

 半分は呪いの化け物。人外。

 その言葉は、まるでエレン・イェーガー自身の存在そのものを否定する鏡のように響いた。エレン自身も、巨人の力を宿し、人間でありながら化け物としての業を背負ってきた存在だ。しかし、エレンが激怒したのは、自分自身を侮辱されたからではない。

 その真依の嘲笑が、彼のかけがえのない親友、アルミン・アルレルトの姿と重なってしまったからだ。

 アルミンもまた、超大型巨人という世界を焼き尽くす悪魔の力を継承した。心優しく、誰よりも平和を望んでいた彼が、その身に化け物の力を宿し、「人外」として生きることを余儀なくされた。

 そのアルミンの苦しみと覚悟を、あの軍港で自らの手を血に染めて涙を流した親友の痛みを、安全な場所からニヤニヤと笑いながら見下すこの女の言葉が、エレンの魂の逆鱗に触れたのだ。

 

(……なんだ、この女は)

 

 エレンの瞳から、スッと感情の色が消え失せた。深緑色の瞳孔が、まるで底なしの深淵のように暗く、冷たく沈んでいく。

 

 一触即発の空気が流れる中。

 

「オイ真依。どうでもいい話を広げるな。俺はそんな下らねえおしゃべりをしに来たんじゃねえんだ」

 

 突如、東堂葵が横から真依の言葉を力ずくで遮った。

 東堂は、エレンという存在が完全に視界から抜け落ちているかのように、伏黒の真正面に立ち塞がり、見下ろすように凄んだ。

 

「俺が聞きたいのは、ただ一つだ。伏黒恵。……お前は、どんな女がタイプだ?」

 

 あまりにも唐突で、脈絡のない質問。

 伏黒は怪訝な顔をした。

 

「……は?」

 

「耳が遠いのか? どんな女がタイプかと聞いているんだ。返答次第では、お前を今ここで半殺しにして、最低でも三年は交流会に引っ張り出す。お前が男として、呪術師として、俺が関わるに値する人間かどうかを、俺はこの質問で判断するんだ」

 

 狂っている。だが、その狂気の中に宿る呪力の練度と肉体の圧力は、紛れもない本物だ。

 

「因みに俺はな……」

 

 東堂は自らの胸の筋肉を誇示するように張り、高らかに宣言した。

 

「身長と、尻がデカイ女がタイプです!!!」

 

 静まり返る自動販売機前。

 風の音だけが空しく通り過ぎていく。

 

「……なんで、初対面のアンタと、俺の女の趣味なんか話さないといけないんですか」

 

 伏黒が心底冷めた声で言い放つ。

 しかし、東堂はその伏黒の拒絶を全く意に介さず、親指で自身を指差した。

 

「俺は京都校三年、東堂葵。自己紹介はこれで終わりだ。もう友達だな。さあ、早く答えろ。お前の性癖()の形を、俺に見せてみろ!」

 

 伏黒は深い深いため息をついた。ここで無視をして乱闘になれば、高専の敷地内とはいえ面倒なことになる。相手は一級呪術師。無駄な体力は使いたくない。

 伏黒は少しだけ視線を彷徨わせ、考えをまとめるようにして口を開いた。

 

「……別に、好みとかはありません」

 

「なに?」

 

「その人に、揺るがない人間性があれば、それ以上は何も求めない。……それだけです」

 

 伏黒恵という人間の、実直で、誰かの善性を信じようとする生き様が表れた答えだった。

 しかし。

 その答えを聞いた瞬間、東堂葵の両目から、滝のような大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。

 

「そうか……」

 

 東堂は悲しそうに天を仰ぎ、そして、極限まで圧縮された殺意を伏黒へと向けた。

 

「退屈だよ、伏黒恵」

 

 ――ゾワッ!!

 

 伏黒の全身の毛穴が開き、生存本能が強烈な警鐘を鳴らした。

 

(まずいッ!!)

 

 伏黒は咄嗟に後方へ飛び退こうとし、防御のために両腕を胸の前でクロスさせた。

 だが、東堂の踏み込みは、伏黒の認識速度を遥かに凌駕していた。

 巨体がブレたかと思うと、次の瞬間には東堂の丸太のような右腕が、伏黒のクロスした両腕を粉砕せんばかりの勢いで叩き込まれていた。

 渾身の、ラリアット。

 

「がはっ……!!」

 

 ――ドゴォォォォンッ!!

 

 くぐもった破砕音と共に、伏黒の身体がまるで弾き飛ばされたボールのように宙を舞い、数メートル先の木々の茂みの中へと猛烈な勢いで吹っ飛んでいった。バキバキと木が折れる音が響き渡る。

 

「伏黒ッ!!」

 

 釘崎が悲鳴のような声を上げ、咄嗟に伏黒を追おうと走り出した。

 その瞬間。

 スッ、と釘崎の背後に影が滑り込んだ。

 

「どこ行くの?」

 

 甘く、粘り気のある声。

 禪院真依が、釘崎の背後から両腕を回し、彼女の動きを完全に封じるようにキツくハグをした。

 

「あいつ、東堂葵に目をつけられるなんて……伏黒君、可哀想にねえ」

 

 真依は釘崎の耳元で、嘲るように囁いた。

 

「似てるって思ったけど全然だ――」

 

「……手を、離せ」

 

 釘崎が真依に対し、嫌味を言おうとしたその瞬間、空気を凍らせるような、恐ろしく低い声が響いた。

 真依がハッとして視線を向けると、先ほどまで自販機の前に黙って立っていた男、エレン・イェーガーが、いつの間にか真依と釘崎の数歩手前まで歩み寄っていた。

 その足音は全く聞こえなかった。

 エレンの瞳には、怒りの炎すら宿っていなかった。ただ、氷のように冷たく、絶対的な「死」を体現したような静寂だけがあった。

 先程の真依の言葉。「人外」「化け物」「死んでせいせいした」。

 それは、エレン自身の業であり、同時に親友アルミンが背負った十字架でもある。それを面白半分に嘲笑うこの女を、エレンの魂は「敵」と認識した。

 

「……はあ?」

 

 真依は一瞬たじろいだが、すぐに持ち前の勝気な態度を取り繕った。

 

「そういえば、アンタ誰? 新入生? 悪いけど、今は――」

 

 煽るような言葉を続けようとした真依の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。

 

 エレンと、バッチリと目が合ってしまったからだ。

 

 ――ドクン。

 

 真依の心臓が、恐怖で鷲掴みにされたように跳ね上がった。

 背筋を、氷の刃で撫で上げられたかのような、根源的な悪寒。

 

(な、何……? この、目は……?)

 

 真依は、呪術師の家系に生まれ、これまでに幾つもの恐ろしい呪霊や、狂気に満ちた呪詛師を見てきた。しかし、目の前の男の瞳は、それらのどれとも違っていた。

 感情がない。

 いや、違う。感情の器が、桁違いの殺戮によって完全に摩耗し、擦り切れてしまっているのだ。

 幾千、幾万、何千万という人間を、女子供の区別なく踏み潰し、肉片に変え、その断末魔を耳にしながら歩き続けた男だけが持つ、果てしなく広がる地獄の底のような目。

 それは、「人間」が「人間」に向ける目ではない。

 ただの『暴力の概念』が、そこにあった。

 

「ヒッ……!!」

 

 真依の喉の奥から、情けない悲鳴が漏れた。

 エレンが、無言のまま、一歩、また一歩と真依に向かって歩を進めてくる。

 その足取りは重くない。だが、エレンが一歩踏み出すごとに、真依の周囲の空間が圧縮され、空気が重く鉛のようにのしかかってくるような錯覚に陥った。

 あまりの恐怖に、真依はパニックを起こした。拘束していた釘崎を乱暴に突き飛ばし、制服のポケットから素早くリボルバー式の拳銃を抜き出すと、震える両手でエレンの心臓に銃口を向けた。

 

「く、来るなッ!!」

 

 真依の声が上擦る。

 

「それ以上、少しでも動いたら……撃つわよ!!」

 

 呪力を込めた弾丸。まともに食らえば、呪術師といえど致命傷になりかねない。

 しかし。

 エレンの歩みは、一切止まらなかった。

 銃口を向けられているというのに、微塵の恐怖も、躊躇いも見せない。ただ、無言のまま、冷たい深緑の瞳で真依を射抜きながら、ジリ、ジリと距離を詰めてくる。

 その圧倒的なまでの異常性に、真依の精神が限界を迎えた。

 

「来ないでって言ってるでしょ!!」

 

 ガクガクと激しく震える真依の指が、恐怖のあまり、引き金に掛かった。

 

 ――誤射。

 

 ――パァァァァンッ!!!

 

 乾いた銃声が響き渡る。

 呪力で強化された鉛玉が、空気を切り裂き、真っ直ぐにエレンへと飛んでいく。

 避ける素振りすら見せなかったエレンの右肩に、弾丸が深々と突き刺さった。

 プシャッ、と赤い血飛沫が舞い、エレンの制服の肩口が赤く染まる。

 

「エレンッ!!」

 

 突き飛ばされて地面に倒れていた釘崎が、信じられない光景に叫んだ。

 

「なにしてんだアンタ!! 本気で撃つ馬鹿がどこにいんの――!!」

 

 釘崎が血相を変えて立ち上がろうとする。

 だが、エレンは左手をスッと横に伸ばし、無言のまま釘崎を制止した。

 

「……え?」

 

 釘崎の動きが止まる。

 エレンは、右肩に銃弾を受け、肉をえぐられているというのに、顔色一つ変えていなかった。痛みに顔を歪めることすらなく、ただ静かに、真依を見下ろしている。

 

 ――シュウゥゥゥゥゥ……。

 

 直後、エレンの右肩の傷口から、異常なまでの高温の蒸気が噴き出し始めた。

 

「な……?」

 

 銃を構えたまま固まっていた真依の目が、信じられないものを見るように限界まで見開かれた。

 蒸気の中で、エレンのえぐられた肉が蠢き、切断された筋繊維が自動的に編み込まれ、弾丸が体内から押し出されてポロリと地面に落ちた。そして、ものの数秒で皮膚が塞がり、傷跡一つ残さずに完全に回復してしまったのだ。

 反転術式による治癒とは全く違う、異質な再生能力。

 

「……ばけ、もの……」

 

 真依の足から完全に力が抜け、彼女はその場にへたり込みそうになりながら、カタカタと奥歯を鳴らした。

 自分が先ほど吐き捨てた「化け物」という言葉が、全く別の、真の絶望となって目の前に具現化したのだ。

 

 エレンは、完全に治癒した右肩を軽く回すと、真依の眼前にまで歩み寄った。

 そして、地獄の底から響くような、重く、冷たい声で一言だけ告げた。

 

「……殺す」

 

 その言葉が引き金となり、エレンの全身から、これまで抑え込んでいた巨大な『圧』が爆発的に解放された。

 巨人化せずとも、彼の魂に刻まれたあらゆる巨人のプレッシャーが、重力となって真依にのしかかる。

 

「ヒッ……あああっ……!!」

 

 真依は、蛇に睨まれた蛙のように、指先一つ動かすことができなくなった。呼吸すら忘れ、ただ眼前の死神を見上げることしかできない。

 エレンは、ゆっくりと右拳を握りしめた。

 呪力による強化などできない。しかし、巨人化の力を宿したその肉体の筋力は、常人を遥かに超越している。

 エレンは、一切の躊躇なく、真依の腹部、鳩尾のど真ん中を狙って、本気の拳を叩き込んだ。

 

 ――ドグォォォォォォォォォッ!!!!

 

「ガッ…………!!!」

 

 真依の口から、声にならない絶叫と胃液が吐き出された。

 内臓が破裂せんばかりのすさまじい衝撃。真依の身体は、まるでトラックにはねられたかのように「く」の字に折れ曲がり、両足が地面から完全に浮き上がった。

 そのまま、彼女の身体は砲弾のような速度で後方へと吹き飛ばされる。

 数メートル離れた場所にあったコンクリートの塀に、真依の背中が激突した。

 

 ――ドバァァンッ!!

 

 塀に巨大なヒビが走り、真依はそのまま力なく地面に崩れ落ちた。

 

「ひゅっ……ひゅーっ……」

 

 あまりの衝撃に横隔膜が痙攣し、真依は一時的に呼吸をすることすらできず、白目を剥きかけて地面でもがき苦しんでいる。

 しかし、エレンの瞳には一切の憐憫も、感情の起伏もなかった。

 彼にとって、敵を排除するという行為は、ただの作業に過ぎない。

 エレンは、虫の息となっている真依にトドメを刺すべく、感情を殺した無表情のまま、再びゆっくりと歩みを進めた。

 その冷酷無比な姿に、釘崎でさえ恐怖で声が出せなかった。

 

「……おい、エレン、もういい」

 

 その時。

 エレンの歩みを止めるように、吹き飛ばされた真依の後ろの角から、一本の長柄の薙刀がスッと差し出された。

 長いポニーテールを揺らし、鋭い眼光を放つ女性。

 禪院真希が、倒れ伏す妹を一瞥した後、真っ直ぐにエレンを見据えて立っていた。

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