呪術の世界に迷い込んだ、パラディ島の悪魔   作:ブァッファイ小五郎

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八話目

 ――ドバァァンッ!!

 

 エレン・イェーガーの放った無慈悲な拳によって吹き飛ばされた禪院真依は、分厚いコンクリートの塀に背中から激突し、無様な姿で地面に崩れ落ちた。

 ヒビ割れたコンクリートの粉塵が舞う中、彼女の後方から一本の長柄の薙刀がスッと差し出され、鋭い声が空気を切り裂いた。

 

「……情けないな」

 

 長いポニーテールを揺らし、丸眼鏡の奥から冷ややかな視線を下ろしている女性。

 東京校二年、禪院真希。

 実の妹である真依の凄惨な姿を前にしても、彼女の表情には一切の同情も、焦りも浮かんでいなかった。ただ、路傍の石ころを見るかのような淡々とした態度で立っている。

 真依は、肺から空気を絞り出されるような苦痛に顔を歪め、ゼイゼイと荒い息を吐きながらも、憎悪に満ちた目で姉を睨み上げた。

 

「ゲホッ……来てた、んだ……。落ちこぼれ、すぎて……気づかなかったわよ」

 

 腹部の激痛を堪え、壁に手をついてゆっくりと立ち上がりながら、真依は精一杯の強がりと皮肉を込めて吐き捨てた。

 しかし、真希は微塵も動じず、鼻で笑った。

 

「落ちこぼれはお互い様だろ」

 

 真希は薙刀を肩に担ぎ直し、忌々しそうに妹を指差す。

 

「お前は物に呪力を込めるばっかりで、術式もクソもねぇじゃねぇか。そんな豆鉄砲で偉そうに踏ん反り返って、随分と立派な御身分だな」

 

 真依の武器は、呪力を込めた弾丸を放つリボルバーだ。だが、彼女自身の呪力量は決して多くはなく、強力な術式を持っているわけでもない。禪院家という呪術界の御三家にあって、真希ほどではないにしろ、真依もまた「半端者」のレッテルを貼られている存在だった。

 図星を突かれた真依の顔が、怒りで赤く染まろうとするが、平然を装い、煽るような口調で言い返す。

 

「……呪力がないよりマシよ。私にはまだ、呪術師としての最低限の形がある。アンタみたいに、呪いすら見えない完全な出来損ないとは違う」

 

 真依は口元の血を手の甲で拭いながら、冷笑を浮かべた。

 

「上ばかり見てると首が痛くなるから、たまにはこうして下を見ないとね。アンタを見てると、自分がまだマシだって安心できるのよ」

 

 姉妹の間に流れる、ドロドロとした暗い感情の応酬。

 釘崎は、その異様な空気に息を呑んで立ち尽くしていた。

 

「……やめたやめた」

 

 数秒の睨み合いの後、真希が大きなため息をついて薙刀を下ろした。

 

「言い合っても埒が明かねえ。底辺同士で啀み合ってるなんて、みっともねえにも程がある」

 

 真希は踵を返し、呆然としている釘崎と、無表情のまま立ち尽くすエレンの方を向いた。

 

「おい、野薔薇。エレン。もう帰るぞ。こんなのに構ってるだけ時間の無駄だ」

 

 そう言って歩き出そうとする真希。

 しかし。

 

 ――ズッ……。

 

 エレン・イェーガーは、その場から一歩も引かず、むしろ真依の方へとゆっくりと足を前に進めた。

 

「……おい、エレン。帰るぞって言ってんだろ」

 

 真希が怪訝な顔で振り返るが、エレンの耳には届いていないようだった。

 彼の深緑色の瞳は、依然として冷え切った殺意を宿し、壁際に立つ真依を正確に捉えている。

 その、底なし沼のような圧倒的な「死」の気配。

 一度は強がってみせた真依だったが、エレンが再び自分に向かって歩を進めてくるのを見て、一瞬にして全身の毛穴から冷や汗が噴き出した。

 先程の、内臓が破裂するかと思った恐ろしい一撃。もし次の一撃を喰らえば、間違いなく死ぬ。

 

「な、なによ……」

 

 真依は恐怖で声が震えるのを止められず、それでも必死に虚勢を張った。

 

「こ、これ以上やったら……呪力もない出来損ないの『禪院真希』に、怒られちゃうよ……?」

 

 姉の権威を借り、そして侮蔑をしてまで、身を守ろうとする情けない姿。

 真希は舌打ちをし、エレンと真依の間に割って入ろうとした。

 

「エレン、もういい。伏黒がやられた借りは返しただろ。これ以上揉め事を起こしたら、学長に何言われるか分かったもんじゃねえ。やるなら、交流会でだ」

 

 真希がエレンの胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。

 しかし、エレンはその真希の手を無造作に払い除け、全く踏み留まることなく真依へと近づき続けた。

 彼の歩みは、まるで重力のように抗いがたい。

 

「……こいつは」

 

 エレンの口から、地の底から這い上がってくるような、重く、低く、冷酷な声が漏れた。

 

「こいつは、越えてはならない一線を、易々と超えてきた」

 

 エレンの脳裏に、真依が放った言葉が響く。

 

『半分は呪いの化け物』『汚らわしい人外』『死んでせいせいした』。

 

 それは、彼が守りたかった親友アルミンへの、そして、前の残酷な世界で必死に生きようと足掻き、そして理不尽に命を散らした全ての者たちへの、最も許しがたい冒涜だった。

 

「……生かしておくことは出来ない」

 

 エレンの右拳が、再び硬く握りしめられる。

 殺意が、物理的な質量を持って真依の首を絞め上げる。

 

「ひっ……!」

 

 真依は腰が抜け、その場にへたり込んだ。あまりの恐怖に涙腺が崩壊しそうになる。

 

「そ、そもそも……なんなのよ、アンタ……!! ただの新入生のくせに……バケモノ……!!」

 

 真依が絶望的な悲鳴を上げた、その時だった。

 

「オイオイオイ」

 

 突如として、エレンと真依の間に、巨大な肉の壁が立ちはだかった。

 先程、伏黒にラリアットをかまし、吹き飛ばした巨漢、東堂葵だ。

 東堂は、恐怖で顔を引き攣らせている真依を見下ろし、どこか面白そうに口角を上げた。

 

「中々に楽しんでるみたいだな、真依」

 

「じょ、冗談言わないでよ……!! あいつは化け物よ!! 本当に私を殺す気だった……!!」

 

 真依が東堂のズボンの裾を掴みながら、必死に訴えかける。

 しかし、東堂は真依の恐怖など意に介さず、腕を組んで天を仰いだ。

 

「そんなことより、俺は今から大事な用事があるんだ」

 

「……え?」

 

「『高田ちゃん』の個別握手会がな!!!」

 

 東堂は、まるで世界で最も重要な任務を帯びているかのような、真剣かつ熱烈な表情で叫んだ。

 高田ちゃん、それは、東堂がこよなく愛する高身長アイドルである。

 

「いいか真依! 俺は東京の複雑な電車網に不慣れだ! もし乗り換えをミスって会場に辿り着けなかったら、俺は自分が何をしでかすか分からんぞ! 俺の魂が暴走する前にな、案内しろ! 付いてこい!!」

 

 空気が、読めないにも程がある。

 極限まで張り詰めていた殺意の糸が、東堂のあまりに馬鹿馬鹿しい理由によって、プツリと切断された。

 真依は呆気に取られながらも、エレンの標的から外れたこと、そして確実な死から免れたことに、へたり込んでいた足から力が抜けるほどの安堵を覚えた。

 

「も、もうっ……! 勝手な人ね……!!」

 

 真依は震える足で立ち上がり、東堂の背中に隠れるようにして足早にその場を離れようとした。

 

 東堂は踵を返し、去り際に一度立ち止まると、肩越しにエレン・イェーガーを見つめた。

 先程まで伏黒にしか興味を示していなかった東堂の眼に、初めてエレンという存在が強烈に映り込んでいた。

 呪力は物凄く少ない。だが、真依を殺しかけたあの圧倒的な殺気と、拳の一撃。それは、東堂の闘争本能を微かにくすぐるものだった。

 

「……おい、そこのお前」

 

 東堂が低い声で問いかける。

 

「名前と……好きな女のタイプは、何だ?」

 

 またしても、突拍子もない質問。

 真希や釘崎が呆れ果てる中、エレンは表情一つ変えることなく、東堂の目を見据えて答えた。

 

「俺の名前は、エレン・イェーガー」

 

 その名乗りには、呪術師としての階級も、所属もなかった。

 

「……自由の奴隷だ」

 

 それは、過去から未来へ至るまでの、自らの業を縛る呪いのような言葉。

 東堂は、その得体の知れない言葉に微かに眉を動かしたが、エレンはそのまま質問の後半に答えた。

 

「……身長が高く、髪が短い人が好みだ」

 

 その条件を口にした瞬間、エレンの脳裏に、かつて共に戦い、そして最後には自らの首を刎ねた、あの黒髪の少女の姿がフラッシュバックした。

 ミカサ・アッカーマン。

 誰よりも強くて、誰よりも優しかった、かけがえのない存在。

 エレンの瞳の奥に、一瞬だけ、底なしの暗闇とは違う、微かな切なさと痛みがよぎった。

 

 その答えを聞いた東堂は、満足そうにフッと笑みを浮かべた。

 

「そうか。……悪くない趣味だ。退屈はしなさそうだな」

 

 東堂は、それだけ言い残すと、「乙骨や三年がいなくても、交流会は退屈するって訳じゃなさそうだな」と高らかに笑いながら、真依を引き連れて去っていった。

 嵐のように現れ、嵐のように去っていった京都校の二人。

 残された空間には、奇妙な静寂が降りていた。

 

「……なんなのよ、あいつら。マジで台風みたいだったわね」

 

 釘崎が大きなため息をつきながら、乱れた制服の襟を直す。

 釘崎は、ふと気になったように、先程まで冷静に妹をあしらっていた真希へと視線を向けた。

 

「ねえ、真希さん」

 

「あ?」

 

「さっき、あの女……真依って奴が言ってたこと、本当なんですか? 呪力がないって……」

 

 呪術師にとって、呪力は呼吸のようなものだ。それがないということは、呪術界においてどれほどのハンデを背負っているか、釘崎にも容易に想像がついた。

 真希は、隠す素振りも見せずに、あっけらかんと答えた。

 

「ああ、本当だよ」

 

 真希はかけている丸眼鏡のブリッジを、人差し指でクイッと押し上げた。

 

「この特別な眼鏡がないと、私は呪いすら見えない。ただの一般人と同じだ。私が扱うのは『呪具』。初めから呪いが込められている武器を使ってるだけで、お前らみたいに自分の呪力を流してどうこうしてるわけじゃないんだよ」

 

 その事実を、微塵の劣等感もなく語る真希。

 エレンは、その真希の横顔を見て、不意に口を開いた。

 

「……だったら、なんで呪術師なんてやってるんだ」

 

 呪いも見えず、呪力もない。命を懸ける理由がない。それなのに、なぜこの血みどろの世界に身を置いているのか。エレンには、それが純粋な疑問だった。

 真希は、エレンの問いに対して、空を見上げてニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

 

「嫌がらせだ」

 

「……嫌がらせ?」

 

「ああ。出来損ないだと私を蔑んできた、禪院家の連中に吠え面かかせるためだ。私が当主になって、あいつらの腐った顔を歪ませてやる。そのために、私はここで一級呪術師になってやるんだよ」

 

 反骨心。復讐心。そして、自らの運命を己の力だけで切り拓こうとする、強靭な意志。

 それは、エレンがかつて「壁の外の自由」を求めて戦っていた頃の、ギラギラとした熱に似ていた。

 その真希の覚悟を聞いた釘崎の瞳が、キラキラと輝いた。

 

「……真希さん」

 

「ん?」

 

「私、真希さんのこと、尊敬してますよ!! マジでかっこいいです!!」

 

 釘崎が身を乗り出して熱烈に伝える。

 真希は、後輩からの真っ直ぐな尊敬の言葉に一瞬だけ頬を緩ませ、少し照れくさそうに顔を背けた。

 

「……あっそ。そんなこと言っても、特訓は手加減しねえからな」

 

 そう言って歩き出す真希の背中は、どこまでも頼もしかった。

 

 

 少し時間を遡り、場面は変わる。

 東京の地下深く、あるいはどこか現実と切り離された異空間。

 南国のビーチを思わせる、澄み切った青い空と白い砂浜が広がるその場所は、自然呪霊・陀艮(だごん)が展開する生得領域であった。

 波の音が静かに響くその空間に、一人の男が足を踏み入れた。

 五条悟の親友であり、かつて最悪の呪詛師と呼ばれた男、額に不気味な縫い目を施した、「夏油傑」である。

 

「随分と穏やかな領域だね。心が洗われるようだ」

 

 夏油は、袈裟を揺らしながら砂浜を歩き、パラソルの下でくつろいでいる若者の姿をした特級相当の呪霊、真人に声をかけた。

 真人は、手元の本から顔を上げ、片目を細めて夏油を見た。

 

「遅かったね、夏油。……で、漏瑚はどうしたんだ?」

 

 その問いに、夏油は少しだけ困ったような、しかしどこか楽しんでいるような笑みを浮かべた。

 

「……瀕死だよ」

 

「は?」

 

「五条悟の力量を測りに行ったはいいが、想定外の『イレギュラー』が入ってね。漏瑚はすぐ逃げ出したみたいだけれど、半身を完全に消し飛ばされていた。一応、その後花御が助けに行ったみたいだから、命に別状はないと思うけれどね」

 

 夏油の言葉に、真人は呆れたように肩をすくめた。

 

「無責任だなあ。君が、漏瑚のプライドを焚き付けたんだろ? 『五条悟は殺せる』なんて言ってさ」

 

「とんでもない。私はちゃんと止めたんだよ? 『君では無理だ』ってね」

 

 夏油が白々しく両手を広げたその時。

 

 空間が歪み、木の根を張り巡らせたような自然呪霊・花御が姿を現した。

 そして、その花御の腕の中には、頭頂部の火山から弱々しい煙を上げ、右半身が根こそぎ失われている漏瑚の無惨な姿があった。

 そのあまりに悲惨な状態を見て、真人は無邪気に笑いながら駆け寄った。

 

「やあ漏瑚! 無事で何よりだよ!」

 

 その言葉が、漏瑚の逆鱗に触れた。

 

「どこを!! どう見て!! そう言っている!!」

 

 漏瑚は残された一つ目を血走らせ、残った左腕を振り回して激怒した。

 

「五条悟だけではない!! なんだあの得体の知れない化け物は!! 呪力もない癖に、儂の半身を一撃で粉砕しおった!! あれは人間の力ではない!!」

 

 漏瑚の怒号がビーチに響き渡る。

 夏油は、その「得体の知れない化け物」、エレン・イェーガーの規格外の力を思い出し、顎に手を当てて目を細めた。

 

「……ああ、あのイレギュラーも居たんだね。私も少しだけ彼を観察していたけれど、確かにあれは我々の知る呪術の理の外側にいる存在だ。……まあ、五条悟とあの化け物の両方を相手にして、それで済んだだけマシだと思おうじゃないか」

 

 夏油は漏瑚を宥めつつ、真人と花御へと視線を向けた。

 その瞳には、遥か先を見据えた冷酷な企みが渦巻いていた。

 

「漏瑚も、身をもって分かったと思うけれど……『五条悟』という規格外を正面から殺すことは不可能だ。あのイレギュラーの存在も含め、我々はより慎重に動かなければならない」

 

 夏油は、波打ち際に立ち、穏やかな海を見つめながら宣言した。

 

「五条悟を封印するためには、然るべき時、然るべき場所で、我々が完全にアドバンテージを確立した上で、確実に臨む必要がある」

 

 夏油は振り返り、呪霊たちに向かって不敵に微笑んだ。

 

「決行は、10月31日。渋谷にて」

 

 その言葉の響きは、何万人もの一般人を巻き込む、未曾有の大惨事の始まりを告げる死の宣告であった。

 

「詳細は、追って連絡するよ」

 

 夏油の提案に対し、真人は両手を後頭部で組み、無邪気で残酷な笑みを深くした。

 

「それで異論ないよ。……狡猾にいこう。呪いらしく、人間らしくね」

 

 波の音だけが響く美しい領域の中で、世界を地獄へと突き落とすための歯車が、静かに、そして確実に回り始めていた。

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