完全に『簡雍酔夢』の「外史」世界に生まれ育った人です。
『銀河英雄伝説』曰く、
「時は移り、所は変われど、人類の営みには何ら変わることは無い」
と、いうことです。
後漢帝国の地方制度は、州>郡>県>郷>里の順だったが、郡の太守が皇帝に直属していて州ごとに任命された刺史は元々は監察官だった。
管轄の州に置かれた郡の太守たちについて、皇帝に報告するのが本来の任務だったのだ。
ところが「三国」の英雄たちは、州牧という地位に就任している。
行政実務と治安維持で郡太守たちの上官。天下13州の1つに実効支配を公認しかねない。
中央政府が地方までの安全を保証出来なく成った結果であり「軍閥」に名分を与えるもの、と言うのが実情だった。
当然ながら、天下太平を回復してしまえば、州牧への「丸投げ」から刺史による監察制度に戻るのが原則でもあるが、新たな帝国を建設中の王朝初期の間はCase-by-Caseも、また在り得たりした。
例えば、長江下流周辺の揚州6郡の刺史は「呉王国相」と兼任だった。
皇帝から正式に封建された藩王国の名目と引き換えに、呉王の当人は「第1妃」「第2妃」に次ぐ「第3妃」として帝都皇宮に行ってしまった。
それも、呉王を継承する妹たち共々。
その留守を預(あず)かる形式で同時に揚州刺史の職を兼ねていた。
その職を預かるのは、孫呉の老臣筆頭にして江東の名士を代表する張昭(真名雷火)で異論は無用だった。
その雷火だが、刺史として揚州6郡の監察報告を作成していた。
次の仕事としては、使者の人選である。雷火は軍師の魯粛(真名包(ばお))と相談した。
何せ、周瑜(真名冥琳)呂蒙(真名亞莎)陸遜(真名穏)といった軍師たちも呉王姉妹ともども後宮入りしてしまったのだ。
こうなると「留守」を預かる雷火にとっては包が軍師として貴重だった。
結論から言うと、使者には諸葛瑾、字は子瑜が選ばれた………。
……。
…上京した諸葛子瑜は先ず「公私の公」の用件を済ませようとした。
そのため「南宮」へと参上して、刺史から預かった監察報告を済ませた。
それから「北宮」へと通る許可を待った。建前として後宮である。
妃たちの中に居る旧知に対して、ご機嫌を伺(うかが)う予定だったのだが、旧知と言うのは孫呉関係者の他に実妹に水鏡門下の兄妹弟子である。
ところが……
*
「正史」『三国志』曰く、
とある酒宴の席で、孫権は戯(たわむ)れに筆を取った。
そして「諸葛子瑜」と、ロバの顔に書いた。諸葛子瑜は、かなり面長の顔だった様である。
偶々(たまたま)陪席していた子瑜の息子が、その続きに「…のロバ」と書き加えた。
この頓智(とんち)で、父親の「面子」は守られ、事は酒宴の冗談で終わった。
6歳にして、流石は孔明の甥である。
*
「はわわわ~それは兄さんでは無くってロバでしゅ~」
何故、後宮にロバが居るのかは兎も角(ともかく)子瑜の妹の諸葛亮(真名朱里)も、孫権(真名蓮華)がロバに向かって「子瑜」などと呼ぶのを見て焦った。
「この酒が美味し過ぎるのよう…流石は『九蒕春酒法』ねえ」
等と、孫策(真名雪蓮)も呑気なことを言うが「第3妃」にして呉王が「第2妃」にして魏王に、自分の妹の罪を擦り付けるな。
子瑜も内心で思う。
(…お変わりに成られ無いな。
こと“酒”が絡(から)むと、何時もの雪蓮様と蓮華様が逆に御成りだ…)
無論、外に出して不敬罪に問われる程、考え無しでも無かった………。
……。
…やっと「公私の私」つまり兄妹だけの歓談に成っていた。
正し「ここ」は後宮で、妹も妃の1人だから、見張りの女官が目立たぬ様に控えていたが。
後漢時代であれば宦官だった。
「実は兄さん」
暫く雑談した後で妹が切り出した。
「朱花から手紙が来ているんでしゅ」
諸葛瑾、諸葛亮、諸葛均(真名朱花)は3人兄妹である。
「兄さん?お嫁さんはやっぱり江東で探すんですか」
「その積もりだった…いや、俺の子供の代まで「呉」に仕える覚悟で、孫家に仕えて来たんだが」
諸葛子瑜は、想いを馳せた………。
……。
…諸葛兄妹が生まれたのは、徐州琅邪郡である。
下の妹の朱花が生まれた後、両親が亡くなり叔母の諸葛玄に引き取られた。
諸葛玄が荊州の劉表に仕官したため、劉表が拠点としていた荊州襄陽城で育った。
その後、成長した朱里と朱花は、襄陽の名士である水鏡先生に入門する。
兄の子瑜は、と言うと「女学院」だから妹たちの様に住み込むまでは出来ず、叔母の屋敷から通って師母に学んだ。
やがて世は乱れて行く。
郡太守を勤めていた叔母の諸葛玄が戦死した為に子瑜も仕官先を探していたのだが、丁度その頃「天の御遣い」の予言を聞いた朱里たちが、女学院からの出奔未遂を起こして兄と師母に説得されたりした………。
……。
…間も無く、子瑜は孫呉に仕官する。
長江流域の「名士」同士の繋がりから孫呉陣営を支える江東の名士に師母の推薦を受けたのだった。
江東へ向かう時、1度は朱花を連れて行った子瑜だった。
朱里より幼い下の妹の面倒を自分で見る積もりだったが「黄巾の乱」以後、益々世は乱れていく。
更に「3顧の礼」の件を師母たちから伝えられて、朱花をもう1度「女学院」に預ける決断をした。
乱世、非常の世には、非常の愛情も在り得た。
兄妹の誰かが生き残るためには、あえてバラバラに生きる事も。
まして、中の妹が選択した人生は、兄としては危険極まる様に見えた………。
……。
…幸いにして、兄妹3人が欠ける事も無く、天下は太平と成った。
「その意味では「天の御遣い」様には感謝するしか無いが、兄妹の感情だけはどうしようも無いな」
結果としては、諸葛子瑜の苦悩や決断は家族の問題に関係する限りは空振りに終わった。
今更、孫呉に「根を下ろす」ために、江東の名士からの縁談を受ける必要も小さい。
妹たちと別れて暮らす意味も、帝都や江東以外の土地への赴任を避ける理由も、強くは無くなった。
未だ、朱花は水鏡女学院に学んでいるが、江東や帝都に引き取って危険も無い。
子瑜の官職が、公式にも未だ「旧」呉の地方官と言うのも、惰性といえば惰性だ。
雷火やその「相棒」と言って好い張紘の様な江東の「名士」とは、また立場も地縁も異なる。
”その”地縁欲しさに結婚するまでも無い。
それでも“地元”で「縁」が出来て家庭を持つなら其れも好いだろう、位の感じだった。
そうは言っても、今更、師母や末妹の紹介で恋愛するのも、また今更な感じもする。
「まあ、そのうち結婚はするさ。何のかんのと言っても、妹に先を越されたのは確かだからな」
かすかに顔を朱に染めた妹の身体が、何となく丸みを帯びて来た、
そんな気がしたのは気のせいだっただろうか。
*
荊州襄陽城内、水鏡女学院。
水鏡先生の様な”この”時代の「名士」たちの情報力は、なまじっかITとかの在る後世の人間には
却って想像以上だったりする。
それだけに、朱花にとって兄姉、とくに姉の活躍についての情報、精神的に複合体を発生する可能性が在った。
そんな朱花も、朱花の人生を歩もうとしていた。また師母も歩ませようとしていた。
例え平凡でも、太平の治世に相応しい。そして朱花らしい人生を。
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