田豫(でんよ)
劉備が故郷の幽州琢(たく)郡で義勇軍を立ち上げた時、関羽・張飛・簡雍らと共に劉備に従った。
その後、劉備が徐州の陶謙に推挙された頃、老病の母の為に帰郷した。
その際、劉備は、
「そなたと共に大事を成せないのは惜しい」
と、涙を流した。
その後、公孫瓚の部下から、曲折を経て曹魏に仕える。
魏の数代に仕えて、それなりの功績を挙げたことからも凡人では無かったが『三国志演義』では黙殺されている。
早くに主人公陣営である劉備軍を離れた為であろう。
繰り返すが、劉備は古くからの同志の離脱を惜しんだ。
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俺こと簡雍が劉備義勇軍の「スポンサー」に成った時、志願して来た同志の中に田豫(真名瑪瑙(めのう))が居た。
文官としても、武将としても「ゲーム」的な言い方をすれば「使い勝手の好い」人材であるが、桃香の様な主将を仰ぐ軍では、彼女の様に筋を通す処は通す人物は貴重だった。
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『三国志演義』に曰く
「自分は非才といえども、武には関羽、張飛、趙雲あり。
文には麋竺、孫乾、簡雍あり。
何を以って不足と言うのですか」
それでも水鏡は流浪の傭兵隊である劉備軍の現状を指摘し、世に伏竜鳳雛が隠れている、と推薦した。
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その麋竺や孫乾と入れ替わりの様に劉備陣営を離れた田豫については『演義』は詳しくない。
俺の「前世」や「天の御遣い」の知識でもマイナーなキャラクターだったが『三国志』のコアなファンだった北郷一刀が知っていたのは流石だった。
その瑪瑙は”この”外史でも故郷に老母を残しての出陣だったが、その母が病気になる前に”この”外史の劉備である桃香は「蜀」の国作りを達成していた。
そこは流石に「天の御遣い」が「蜀ルート」に落ちて来ていた結果だろう。
さて、蜀の都である成都に落ち着いた俺たち同志たちは、それぞれの故郷に残してきた家族を蜀の国に引き取る覚悟を決めた。
そして、劉備軍発足の地である幽州へと、家族たちを迎えに行く役目が俺こと簡雍に託された。
この時、今だ劉備軍から離脱していなかった瑪瑙の老母も蜀の国に引き取られることに成り、俺は瑪瑙からの手紙を預かって成都を出立した。
瑪瑙の母は、成都の娘の保護下で天命を全うすることに成る………。
……。
…蜀の国作りを達成した劉備軍だったが、それで戦いは終わりに成らなかった。
蜀1国の平和だけが、桃香こと劉備の理想だった訳では無い。
天下万民の幸福を求めての転戦が続いた。
その転戦の間、蜀の留守を守り続けた文官・武将の中に瑪瑙こと田豫も居た………。
……。
…天下は「天の御遣い」の下に統一された。
その天下で、瑪瑙こと田豫にも新たな任務が与えられることに成る。
「正史」でも、曹魏に仕えてではあるが、北方等で活躍した田豫である。
北の国境である長城の安定の為に「天の御遣い」の統一帝国の下で活躍し続けた。