滝(たき)は、祖父の背中を見て育った。
山道を登るときも、沢筋を下るときも、雪の朝、罠を見に行くときも、祖父はいつも少し前を歩いていた。
振り返ることはほとんどなかったが、足の置き方ひとつ、間の取り方ひとつで、そこに何があるのかが自然と伝わった。
「そこ、踏んだらあかん。崩れとる」
「沢の石、光っとるとこ、あれはよう滑る」
「獣はの、人より先に風を読みよる」
そんな言葉を、子どもの頃から何度も聞いて育ってきた。
それは紙に書かれた知識ではなく、山で生きてきた人間が持つ、暮らしの中に染み込んだ言葉だった。
祖父は猟師だった。
もっとも、それは"仕事"というより、山里にかろうじて残っていた暮らしの一部に近かった。
畑を耕し、山菜を採り、罠を見回り、時に鹿や猪を獲った。
かつては一家を支える生業だったのかもしれないが、今ではそれだけで暮らしていけないことを、滝はどこかで理解していた。
猟師になりたかった。
現実的ではないことは、滝にも分かっていた。
それを口にして、笑われるのも嫌だった。
進路希望の紙を前にすると、いつも少しだけ胸が痛んだ。
書きたい言葉はいくつもあるのに、どれも書けなかった。
だから、その憧れを仮想世界に持ち込んだ。
せめて夢の中だけでも、祖父の背中を追いかけたかった。
それが、滝が《エルダーテイル・オンライン》を始めた理由。
そして、キャラクターのサブ職業に《狩人》を選んだ理由だった。
《エルダーテイル》は、世界最大級のMMORPGだった。
剣と魔法、モンスターとダンジョン、生産から対人戦まで、遊び方は無限にあった。
日本サーバーの中心はアキバで、多くのプレイヤーが集まっていた。
けれど、滝の遊び方は少し変わっていた。
アキバに長居することは少なく、ギルドにも所属していなかった。
彼女が好んだのは、人気のない山岳フィールドや森林マップだった。
人の多い場所は、嫌いというほどではなかった。
ただ、どうしても落ち着かなかった。
少し黙っているだけで、ひとりだけ会話に乗り遅れているような気がした。
その点、山の中は楽だった。
誰も喋らなかったし、喋らなくても困らなかった。
《タキ》
キャラクター名は、本名をそのままカタカナにしただけだった。
種族は《ドワーフ》。
男のドワーフなら、短躯で骨太、髭を蓄えた頑丈な職人風の姿になるのだが、女性ドワーフは少し違う。
背が低く小柄で、年齢より幼く見えやすい。
タキもまた、ゲームの中では実際よりもさらに幼く見えた。
最初は、正直、失敗したと思った。
画面の中の自分は、実際の自分より、少し幼く見えたからだ。
誰かに会うたび、少しだけ居心地が悪かった。
けれど結果として、その頑健さと持久力は、長時間の探索にぴたりと噛み合った。
メイン職業は、敵の隙をついて戦う《アサシン》。
レベルは27。
サブ職業は、山野での狩猟や生存技術に長けた《狩人》。
最大95レベルまで拡張された時代では、中堅にすら届かなかった。
だが、山岳フィールドや森林マップでは話が違った。
沢沿いの細いルート、高低差のある尾根道、視界の悪い森のマップ、人気の少ない狩場。
そういった野外のフィールドでは、レベル以上の力が出せた。
マップの陰になる場所。
モンスターの巡回経路。
逃げ道になる沢筋。
高所から射線の通る崖地。
そういう地形を見つけるのが、ほかのプレイヤーより少し上手かった。
祖父と一緒に山野を歩いた記憶が、活きていたのかもしれない。
そして、もうひとつ、このゲームを続けていた理由があった。
愛用の武器。
ゲーム初期に流通した、旧式銃を模したライフル型クロスボウ。
性能は店売りのクロスボウ程度。
おまけに、白煙と重い発砲音まで再現されたネタ武器で、まともなプレイヤーならまず使わなかった。
アキバの露店で見つけたとき、売り手はそれを半ば投げ売りのように並べていた。
『うるさい!弱い!懐かしのネタ武器!!』
そんな説明が添えられていた。
だが、タキは足を止めて見入った。
長い銃身。
木の銃床。
古びた金具。
それが、どこか祖父の村田銃を思わせたからだ。
値段を見て少し迷った。
迷ったけれど、立ち去ることができなかった。
結局、なけなしの資金を全部注ぎ込んで買った。
無駄遣いだと分かっていたし、買ったあとで少しだけ後悔もした。
それでも、インベントリに入ったその武器を見ると、妙に嬉しかった。
そして《ライフルクロスボウ》という味気のない名前を、《村田銃》と書き換えた。
夜。
滝は父の書斎で、いつものように古いデスクトップPCの電源を入れた。
胸が高鳴った。
その感覚を、自分でも少し子どもっぽいと思った。
いつものロード画面。
いつもの音楽。
そのはずだった。
突然、視界の端にノイズにも似た光がちらついた。
激しい耳鳴りが、頭の奥を貫いた。
次の瞬間、足元が消えたような気がした。
そこは、深い山の中だった。
「…え?」
気がつくと、タキは地面に膝をついていた。
手のひらに枯れ葉の感触があった。
鳥の声。
木々を揺らす風の音。
青い空が、枝の隙間から見えていた。
最後にログアウトしたのは、イースタル北部、ルソーラ地方の山中だったはずだ。
夢?
最初は夢かと思った。
だが、何かが違っていた。
空気が冷たかった。
服に染みる土の湿り気。
眩しい木漏れ日。
そして、匂い。
濡れた土の匂い。
苔の匂い。
早春の山野の匂い。
「うそやろ?」
声が少し裏返った。
立ち上がろうとして、足がもつれた。
一度、地面に手をついて、息を整えた。
そのときはじめて、肩の重みに気付いた。
ゲームで見慣れた、いつもの装備があった。
肩に掛かる銃の重さ。
厚手の布服。
毛皮の肩掛け。
革手袋。
毛皮のブーツ。
大きなザック。
腰の剣鉈。
「なんや、これ?」
鼓動がやけにうるさかった。
喉の奥がひりついた。
帰らなあかん、と思った。
けれど、本当に帰れるのかも分からなかった。
目の奥が熱くなった。
だが、泣いたところで仕方がないことも分かっていた。
滝は大きく息を吐いて、森の匂いを吸い込んだ。
知っている匂い。
少しだけ気持ちが治まった。
「…遭難、やな」
ぽつりと呟き、村田銃を担ぎなおした。
声にしてみると、それはひどく間の抜けた言葉だった。
けれど、今はそのくらい単純に考えたかった。
「とりあえず沢沿いに下ろか」
滝はひとり、山を下り始めた。
鼓動はまだ治まらなかった。
それでも足は、いつものように動いた。
用語
メイン職業:戦闘能力とスキルの中核を決める戦闘クラス。
サブ職業:生産・生活・補助能力を担う副職で、戦闘外や特殊状況を支える。
アサシン:メイン職業。素早さを活かし、敵の隙を突いて大ダメージを与える軽装戦士です。
狩人:サブ職業。山野での狩猟・追跡・生存技術を持ち、短弓などの狩猟用具の扱いに長けています。
イースタル:現実世界の関東地方です。
ルソーラ地方:栃木から日光自然公園周辺にあたる地方です。
村田銃:明治期の単発式軍用ライフルで、払い下げ後に多くが散弾銃へ改造された。タキの祖父の銃は原形のままの希少な個体。