講義が終わった頃。
窓の外には薄紫の夕空が広がっていた。
ミナは鞄を直すと、古びた学部棟の階段を降りる友人を振り返った。
「で、今日行くんでしょ、温泉」
後ろを歩くレンは、抱えた本を持ち直しながら、ずり落ちた眼鏡を指先で押し上げた。
「…何度も言っているだろう。温泉旅行じゃなくて、素材の採集が目的だって」
「でも、そこ、温泉はあるんでしょ?」
「…あるには、あるけど」
「じゃあ、温泉旅行じゃん」
レンは小さく溜息をついた。
二人の横を、大柄なゴウが悠然と追い抜いた。
「俺は、腹減った」
「さっき唐揚げ定食を食べてたじゃない」
「でも、腹減ったよ」
「燃費悪いよ」
ミナの笑い声が、夕暮れのキャンパスに溶けていく。
同じ大学に通い、同じ二年を過ごしてきた三人。
最初に〈エルダー・テイル〉を始めたのはミナだった。
彼女に誘われ、レンは「暇つぶし」で、ゴウは「二人が行くから」という理由で、その世界に入った。
気が付くと、彼らは常に一緒だった。
ギルドに入るほど本気ではないが、週に何度か、時間を合わせてログインする。
その習慣は、もう夕食を摂ることと同じくらい当たり前になっていた。
大学前のコンビニには、白い光が灯っていた。
ミナが手にした肉まんから、湯気が立ち上っている。
「で、今回の行き先はどこだっけ」
レンは鞄の中から、一枚の紙を取り出した。
研究室のプリンターで刷った地図だ。
アキバの北方、ルソーラ地方北部の稜線が描かれ、ソノハラ水門市までの道筋が、赤いペンでなぞられていた。
「ここだ。ソノハラ」
「遠いじゃん」
「蛍石、水晶、黄鉄鉱…杖の強化素材が、サキタカ付近で豊富に採れる。アキバで買うより、こっちの方がずっと安いらしい」
「温泉は?」
「…ある」
「じゃあ、やっぱり旅行だね」
ゴウは差し出された肉まんを半分に割り、湯気を吸い込んでから口に運んだ。
「温泉があるなら、どっちでもいいよ」
駅前のガラス窓に、夕焼けの残光が映り込んでいた。
三人はここで別れ、それぞれの帰路についた。
*
夜。それぞれの部屋で、三人は夕食を摂る。
冷めたパスタを温めるミナ。
母が作った夕食を食べながら、時計を気にするレン。
空になった炊飯器を前に、十キロの米がなくなった事実をゆっくり受け入れるゴウ。
やがて時間が来て、それぞれ部屋の灯りを落とす。
パソコンの電源を入れる。
立ち上がるまでの間に、好みの飲み物を用意する。
その一連の行動は、いつの間にか習慣になっていた。
*
ログイン画面の音楽が、静かな部屋を満たしていった。
読込が終わると、三人は再び、アキバの街に立っていた。
「よし、温泉!」
ミナが伸びをすれば、すぐさまレンのパーティチャットが走る。
『素材採集だと言っているだろう』
『構わない。早く行こう』
ゴウはすでに、街の外へと歩き始めていた。
アキバの街は、今夜も賑わっていた。
露店の灯火、行き交う人々の声、武具の金属が光を弾く音。
けれど三人が向かうのは、その喧騒の先にある北の地―ルソーラ。
山と森に抱かれ、古い水門が静かに立つ場所。
ミナは胸が高鳴るのを感じた。
*
アキバの街をから約半日。
険しい山道を抜けた先に、ソノハラ水門市はひっそりと横たわっていた。
まず目に飛び込んだのは、谷を塞ぐようにして立つ、巨大な水門の遺構だ。
かつては奔流を堰き止めていたであろうその石壁は、今や役目を終え、ただそこに聳えていた。
アーチ状に穿たれた巨大な空洞。
その下を、清冽な川の水が白く泡立ち、涼やかな音を立てて流れていく。
「うわ、思ったよりすごいじゃん」
ミナが足を止め、感嘆の息をもらしながら水門を見上げた。
山腹には、岩肌にしがみつくようにして街が広がっていた。
丹念に積み上げられた石畳の道、木と石の質感が調和した家々、そして斜面に沿って細く伸びる坂道。
アキバのような喧騒はない。だが、確かな生の息吹が満ちていた。
薪を割る乾いた音や、包丁がまな板を叩く音。
軒先に揺れる洗濯物が、夕暮れ近い陽光を透かしている。
レンは地図を広げ、わずかに眉をひそめた。
「…何か、妙だ」
「何が?」
「NPCたちが」
市場の露店。
蛍石を購入した露天の店主は、値を問われると疎ましげに顔を歪めた。
鍛冶屋の主は、仕入れた鉱石の質に関して、細かな不平を漏らしていた。
荷車を引く少年とすれ違った際、彼は無愛想に舌打ちをしてみせた。
普通、彼ら―NPCは、定型通りの言葉を返すだけのはずだ。
「妙に…人間くさいんだ」
ミナは肩をすくめた。
「最近のアップデートじゃない? 活気があっていいじゃん」
「いや、それにしても限度があるだろう」
ゴウは、手にした干し肉を無造作に齧りながら笑った。
「腹が減っているだけではないか?」
それで、話は終わった。
*
必要な品々を買い揃えた頃には、太陽は西の稜線に傾いていた。
今夜の宿は、さらに上流にある湯治場―オッカム・バース。
街の商人が「温泉ならあそこがいい」と薦めてくれた場所だ。
街を離れ、川沿いの登り道を行く。
道には人の手が入っていたが、雨が降れば泥にまみれそうな土の道だ。
「…あれ?」
不意にレンが足を止めた。
「移動速度が落ちている」
「はあ?」
「体感だが、普段より明らかに足取りが重い。地形デバフなんてあったか…?」
先を行くミナは、振り返りもせずにひらひらと手を振った。
「まあ、いいじゃん。これから温泉なんだし」
「良くない。移動の効率は重要だろ?」
「でも、夜までに着くんでしょ?」
「…それは、そうだけど」
「じゃあ、いいじゃん」
レンは溜息をついた。
その横で、重装鎧に身を包んだゴウがのんびり呟く。
「俺は、いつもこんなもんだけど」
大盾を背負った彼にとって、わずかな速度低下は誤差の範囲だ。
「お前は基準にならない」
「ひどいな」
そんなやり取りを交わしながら山道を辿る。
空気は少しずつ湿り気を帯び、微かな硫黄の香りが森の匂いに混じり始めた。
*
薄暮が訪れる頃、渓(たに)の奥に湯煙がたなびくのが見えた。
「…あそこじゃない?」
ミナが指差した先―オッカム・バース。
深い渓に寄り添うようにして、その宿は佇んでいた。
下層は堅牢な石造り、上層は風雪に耐えた木造建築。
軒先に吊るされた古びたランタンが、心許ない火を灯している。
華美な装飾も、客を招く看板もなかった。
立ち上る湯気と、濡れた木の匂い、絶え間ない川のせせらぎだけがあった。
三人はしばし言葉を失い、その光景を眺めていた。
「…え、ここ?」
ミナが呆然と呟く。彼女が想像していたのは、朱い橋が架かり、艶やかな灯火が並ぶ温泉街だった。
だが、眼の前にあったのは、猟師が泥を落とし、木こりが身体を休める、鄙びた湯治場。
レンは周囲を見回し、困惑したように言った。
「〈エルダー・テイル〉に、こんなアセット存在したっけ…?」
「今まで見たことない気がする…」
ただ一人、ゴウだけが深く息を吸い込み、穏やかに微笑んだ。
「だが、何だか落ち着くな」
その言葉に、二人は静かに口を閉ざした。
豪華でも、便利でもなく。
ただ、人が泊まり、湯を浴び、食事を摂り、眠るための場所。
それが、なぜか胸に響いた。