三人は、タキの案内で山に入った。
はじめは細い杣道だった。
村の者が薪を運び、炭を焼き、罠を見に行くための道である。
だが、それもいくらも行かないうちに、獣道へ変わった。
梅雨の晴れ間とはいえ、地面はまだ湿っていた。
黒い土は水を含み、落ち葉は靴底にまとわりつく。
「ちょっと、これ道?」
「道や」
「いや、道っていうか、獣が通った跡じゃない」
「せやさけ、道や」
話が噛み合わなかった。
レンはぬかるみに足を取られ、顔をしかめていた。
「移動速度低下。いや、これは…地形ペナルティか」
「さっき言うたやろ。足元見い」
「見てるよ」
「見てへん。前見とる」
ゴウは重装のせいで、もともと歩みが遅い。
そのせいか、三人の中では一番落ち着いているように見えた。
少しでも乾いた地面を探して、何度か休みを取った。
倒木の上。
岩の平らな面。
杉の根元。
三人が休んでいる間にも、タキは足跡を見たり、木の皮に残った跡を確かめたりしていた。
半日ほど歩いた頃、沢筋に出た。
沢とはいっても、水の流れは見られない。
枯れ沢である。
大雨が降れば、ここを濁流が下るのだろう。
山肌を裂くような渓には岩が転がり、ところどころに泥の跡がこびりついていた。
そこで、タキが足を止めた。
「ここで待っとって」
「休憩?」
ミナが聞いた。
「うん。けど、動いたらあかん」
タキは枯れた沢の奥を見た。
「こないだ、この先に大物がおった」
レンの顔つきが変わった。
「種類は?」
「悪鹿」
「あくろ?」
ミナが首を傾げた。
「もとは緑色の鹿や。グリーン・エルクいうやつ」
「え、グリーン・エルクって、大人しいやつじゃん」
「そやけど」
タキは沢の奥を見たまま続けた。
「長う生きたやつが、獣の肉食うて、おかしなっとる。鹿の形しとるけど、もう鹿やない。肉食いよる。けど、頭は鹿のままや」
「どういう意味?」
「獣や人を襲いよる。けど、賢うない。目の前しか見いひんし、驚かしたら走りよる」
レンは眉を寄せた。
「つまり、〈グリーン・エルク〉の変異種か。AIは単純だが、攻撃力と移動速度が高いタイプ…」
「よう知らんけど、アホや」
タキは短く言った。
それで説明は終わりらしかった。
レンは何か言いたげだったが、飲み込んだ。
「レベルは?」
「知らへん」
「知らないのか?」
「けど、強い」
タキは足元の泥に残った大きな蹄の跡を指した。
普通の鹿よりも、ずっと大きい。
それに、足跡の周りの土が荒れていた。
「力強いし、角も大きい。前から行ったら、持ってかれる」
「フィールドボスかもしれないな」
レンが低く言った。
「この辺の深山にランダムで出るタイプか。もしそうなら、レベル五十台くらいかもな」
「五十台?」
ミナが顔をしかめた。
「うちら四十前後だよ? 普通に強いじゃない」
「この地形での正面戦闘は避けたいな」
レンが言う。
ゴウは盾を下ろし、枯れ沢の下流を見た。
「俺たちはどうする?」
「この下の大きい岩。あそこに隠れとって」
タキは下流の岩を指した。
「うちが上から追う。あんたらは倒さんでええ。足止めて」
「足止めだけ?」
「近づいてきたら、これ地面に叩きつけてくれたらええ」
タキは腰の袋から、小さな素焼きの玉を取り出した。
「煙玉。割れたら煙が出る。そしたら横に逃げて。前出たらあかん」
ミナが剣の柄に手を置いた。
「私も?」
「…特にはええ」
「なんであたしだけ仕事ないのよ!?」
「飛び出しそうやさけ」
ミナは口を尖らせたが、反論はしなかった。
タキは別の玉を取り出した。
こちらは少し大きく、素焼きの肌に荒縄が巻いてあった。
「こっちは火薬玉。地面にぶつけたら爆ぜる。近くで使うたら、あんたらも危ないし、持たんでええ」
「そんな物を持ち歩いてるのか」
レンが驚く。
「大きい獣は、音に弱いさけ」
「いや、そういう問題じゃない」
「そういう問題や」
タキは腰袋を縛り直した。
「レンは、音か光。悪鹿の後ろに撃って驚かせて。ゴウは岩の横。盾で受け止めよう思たらあかん」
「受け止めるな、か」
ゴウは頷いた。
「分かった」
「ミナは、横。剣抜いてもええけど、斬りに行かんこと」
「はいはい」
「返事、一回」
「…分かったよ」
タキはもう一度三人を見た。
その目は、いつものぼんやりしたものではなかった。
「約束やで」
三人は、そこで初めて口を閉じた。
タキは頷くと、枯れ沢の奥へ消えた。
*
残された三人は、タキに言われた通り、大岩の陰に隠れた。
沢は大岩の向こうで途切れ、すぐ下は滝になっていた。
滝といっても、とうに干上がっている。
黒ずんだ岩肌には、水の跡だけが残っていた。
滝壺の底は岩と瓦礫で埋まっていた。
ゴウは大岩に半身を隠し、盾だけを前に出した。
ミナはその少し右で、剣の柄に手を置いたまま、上流を見ていた。
レンは岩の影で杖を構えていた。
「…これ、ほんとに大丈夫なの?」
ミナが小声で言った。
「分からない」
レンが答える。
「分からないって」
「情報が少なすぎる。〈悪鹿〉という名前は聞いたことがない。少なくとも、僕の知っている通常フィールドの敵じゃない」
「じゃあ、レア?」
「あるいは、この辺り固有の変異種だ。グリーン・エルク系なら、角や腱は杖素材になる。肉も通常個体の倍は出るかもしれない」
「そういう話、今する?」
「しておかないと、目的を見失う」
「見失う前に死にそうじゃない」
ゴウは盾の陰で、ゆっくり息を吐いた。
「タキが止めるだけでいいと言った。なら、止めるだけだ」
「ゴウ、こういう時だけ落ち着いてるよね」
「腹が減ると慌てる」
「今は?」
「減ってる」
「だめじゃん」
そんなやり取りをしているうちに、時間だけが経っていった。
ミナが退屈そうに足元の石を蹴ろうとして、レンに止められた。
「音を立てるな」
「分かってるって」
「今、蹴ろうとしてなかった?」
「してない」
「した」
その時だった。
枯れ沢の奥で、白い煙が上がるのが見えた。
続いて、獣の悲鳴のような声。
喉の奥を裂かれたような、濁った鳴き声だった。
次の瞬間、雷が落ちたような轟音が山に響いた。
空気が震え、鳥が一斉に飛び立った。
三人は同時に顔を上げた。
「今の…」
ミナの声がかすれる。
「火薬の音?」
ゴウが言った。
「分かるのか」
「祭りで見たことがある。鉄砲まつりで。でも、あれよりも腹に来る」
「たぶん火薬玉だ」
レンが低く言った。
「来るぞ」
沢の奥から、石を蹴る音が近づいてくる。
灌木が裂ける音。
濁った獣の哭き声。
やがて、煙の向こうからそれが現れた。
鹿だった。
だが、その体長は三メートル近かった。
緑がかった毛並みは苔のようにも見え、胸元の白い毛は汚れて垂れている。
頭には異様に大きな角。
枝分かれした角は枯れ木のように長く、先端が鈍く光っていた。
目は赤く濁り、口元には血の跡がこびりついていた。
「…なに、あれ?」
ミナが呟いた。
レンの視界に、表示が揺れた。
〈悪鹿〉
レベル五十五。
「まずい。この地形でまともに戦う相手じゃない」
「言われなくても分かってる!」
悪鹿は、三人の姿を見て、蹄を滑らせるようにして止まった。
赤い目が見開かれた。
逃げ道の先に、何かがいる。
そう見たのだろう。
巨体が沈んだ。
次の瞬間、悪鹿は前脚を持ち上げ、上体を高く起こした。
威嚇だった。
大きな角を、空を裂くように振りかざした。
まともに受ければ、人も盾も弾き飛ばされる。
「今!」
レンが叫んだ。
ゴウが盾を手に前へ出る。
ミナは飛び出したい気持ちを堪え、横に滑るように位置を取った。
レンが短い詠唱で、悪鹿の背後に光を落とした。
爆ぜるような閃光。
悪鹿はさらに混乱する。
それでも、突進の姿勢に入った。
本能的に、ただ目の前のものを突き破ろうとしていた。
「来るよ!」
ミナが煙玉を握り、地面に叩きつけた。
ぱん、と鈍い音がして、素焼きの玉が割れた。
白い煙が一気に広がる。
ゴウも横へ退く。
盾を残すようにして、身体だけ岩の陰に隠れた。
悪鹿は煙幕へ突っ込んだ。
角が空を切る。
蹄が濡れた石を叩く。
白煙の中で、巨体は進路を失った。
その背後、上流側から何かが飛んできた。
タキだった。
手拭を投石紐の代わりにして、悪鹿の後ろに火薬玉を投げつけた。
荒縄を巻いた玉が石に当たって割れる。
轟音。
背後で爆ぜた音に、巨体が跳ねるように反応した。
悪鹿は音に驚き、ただ前へと走った。
煙幕を突き抜け、三人の横をかすめていった。
ミナは歯を食いしばって踏みとどまった。
ゴウは盾を抱え、岩に背を押しつけた。
レンは杖を構えたまま、撃てなかった。
撃てば、進路が変わる。
タキは、そんなふうに言っていた。
悪鹿は走った。
だが、次の瞬間、蹄が宙を踏んだ。
沢は、すぐ先で切れていた。
煙幕の中では、それが見えなかった。
悪鹿の悲鳴と岩にぶつかる音が、渓筋に響いた。
それきり、鳴き声は途絶えた。
白い煙は、ゆっくりと晴れていった。
三人はしばらく動けなかった。
レンが、かすれた声で言った。
「…今の、何だったんだ」
ミナは剣を握ったまま、滝の方を見ていた。
「戦ってないじゃん、私たち」
「足止め」
ゴウが言った。
だが、その声も少し硬かった。
「止めただけだ」
レンは、まだ納得していない顔だった。
「攻撃で倒していない。落下死だ。いや、地形判定? でも誘導は…」
そこで言葉が止まった。
タキが、上流側から戻ってきたからだ。
「落ちた?」
タキが聞いた。
「落ちたよ!」
ミナが思わず大きな声を出す。
「ほんとに落ちた!」
「そら、落ちるやろ」
「そういう言い方する!?」
「これ、狩りなのか?」
レンが訊ねた。
タキは少し考えた。
「狩りやろ」
「普通は戦って倒すんじゃないか?」
「危ないやん」
「それはそうだけど」
「鹿は、前見て走ったら止まらんさけ」
「いや、あれ鹿じゃないだろ」
「鹿やけど、鹿やないて言うたやん」
堂々巡りに、レンは頭を抱えた。
ゴウが、ゆっくり盾を下ろした。
「でも、助かった。正面から来られたら、止めきれなかった」
「うん。止めたらあかん。横に逃げて言うたやろ」
「言われた通りにしてよかった」
ゴウは素直にそう言った。
ミナも、剣を鞘へ戻した。
滝壺に落ちた悪鹿は、ゆっくり光になっていった。
そのあとには、角と毛皮と、硬い腱の束が残った。
さらに、明らかに通常の〈グリーン・エルク〉よりも多い鹿肉が、ひとまとまりになって残っていた。
レンがそれを見て、ようやく口を開いた。
「素材は出たな。角、腱、毛皮。中級の強化素材に使える。鹿肉も…通常の二倍くらいあるね」
「そやな」
タキも頷いた。
ゴウが鹿肉を見て、少しだけ明るい顔をした。
「肉、多いな」
「そこ?」
ミナが力なく笑った。
タキは、滝壺へ小さく手を合わせた。
「かんにんな」
三人は、その様子を黙って見ていた。
タキにとって、それは討伐ではなかった。
悪さをする獣を、山の理に従って仕留め、山に還しただけだった。
だから、最後まで獣として扱った。
それは狩りであり、同時に、供養に近いものだった。
用語
・悪鹿(あくろ):風土記や社寺の伝承に登場する、巨大な鹿の怪物。