沢沿いを下り始めてから、どれくらい歩いただろうか。
身体が軽い。
息が上がらない。
斜面を下り、石を避け、枝をくぐっても、妙に身体が動く。
むしろ、普段の自分よりも軽いくらいだった。
滝は沢の脇に立ち止まり、浅く息を吐いた。
おかしい。
普段山道を歩く時は、ここまで楽ではなかったはずだ。
もしや、と思う。
胸の奥に、小さな確信めいたものがあった。
滝は、半ば祈るような気持ちで呟いた。
「ステータス、オープン」
その瞬間、目の前の空間に淡い光が走り、見慣れた半透明のウィンドウが開いた。
「やっぱり…」
思わず声が漏れた。
そこにあったのは、《エルダーテイル・オンライン》で見慣れた、ステータス画面そのものだった。
《タキ》
種族:《ドワーフ》
メイン職:《アサシン》Lv27
サブ職:《狩人》
間違いない。
ゲームの時のままだ。
タキは震える指先で装備欄を開いた。
《村田銃》
《剣鉈》
《熊の毛皮の肩掛け》
《…》
《…》
次いで、所持品を開く。
保存食 ×12
応急薬 ×5
遠眼鏡 ×1
火打石 ×1
寝袋 ×1
弾丸 ×18
……
……
……
「…全部、揃っとる」
ログイン前に持っていたものが、そのまま残っていた。
視線を画面下の《ログアウト》に向けた。
灰色で示された《ログアウト》の文字。
押しても何の反応もなかった。
「…あかん」
やはり、ゲームの世界に入ってしまったのか。
理由は判らないが、そうとしか思えなかった。
胸の奥が、少しだけ冷えた。
しばらく立ち尽くし、呆然と周囲を見渡した。
すると、足元を見ると柔らかな土の上に、不自然な跡があるのに気づいた。
それは、《狩人》の能力の影響か、わずかに強調されて見えた。
足跡だ。
なぜか見覚えがあるような気がした。
浅いが、数が多い。
よく見ると、小さく、靴も履いていない足跡は、明らかに人のものではなかった。
ゴブリンの足跡だ。
山岳マップにもよく出る、低レベル帯の亜人。
足跡を目で追っていると、沢向こうで枝が鳴った。
木立の間から、小柄な緑色の影が三つ現れる。
タキは咄嗟に身を伏せた。
粗末な棍棒。
ぼろ布の腰巻き。
濁った黄色い目。
間違いない。
緑小鬼―ゴブリンだ。
現実となった世界が、それを妙に恐ろしく見せていた。
だが、今のレベルなら大した脅威でもない相手。
不思議と体が動いた。
村田銃を肩に構える。
撃ったら、音と煙でばれる。
だが、距離は十分にあった。
沢を挟んで、およそ30メートル。
ゲームではただの表示だった距離が、生々しく感じられる。
…殺らんと、殺られる。
照準を、先頭の頭に。
慌てるな。
息を乱すな。
撃ったら動け。
タキは静かに引金を絞った。
―ドォォォン……
山が鳴ったような、口籠もった轟音。
銃口から立ち上る白煙が、視界を塞ぐ。
煙の向こうで、一体のゴブリンの頭部に、爆ぜるようなエフェクトが走る。
光が一瞬弾け、その身体が大きくのけぞった。
残る二体が硬直する。
その間に、タキはすでに身を引いていた。
煙を残したまま、近くの岩陰に滑り込む。
やがて、残ったゴブリンは、慌てふためくように逃げていった。
「当たった」
タキは息を吐いた。
自分でも、少し信じられなかった。
沢の向こうを見つめていると、不意に、背後で枝を踏む音がした。
タキが振り返ると、薪束を背負った男が驚いたようにタキを見ていた。
「嬢ちゃん、今のはお前さんがやったのか?」
タキは小さく頷いた。
男はしばらく目を丸くしていたが、やがて言った。
「この辺りは危ねえ。村までついて来い」
沢沿いの道を抜けると、木々の向こうに白い煙が見えた。
それが夕暮れの空に立ちのぼっていくのを見て、ふと足が止まった。
村の傍を流れる澄んだ流れに、里の風景が重なった。
タキは、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
用語
緑小鬼:ゴブリン。醜い緑の肌の小型の亜人類で、好戦的で残忍。
旺盛な繁殖力で部族社会を形成し、粗末な武器を手に集団で略奪を繰り返す。邪悪な性質と軍事的行動は、大地人(NPC)に恐れられている。