地味な話が続きます。
沢辺に腰を下ろしたタキは、インベントリから釣り竿を取り出した。
四メートル半ほどのシンプルな竹竿である。
《狩人》の能力には、獣を追うだけでなく、川で魚を獲るための技術も含まれていた。
鮎。
岩魚。
山女魚。
山の暮らしを支えるための、ごく実用的な能力だ。
タキは絹糸を竿先へ結び、その反対側へ釣り針を結んだ。
浮きもリールもない、ただ糸と針だけの簡素な脈釣りの仕掛けである。
考えるより先に手が動き、針も糸も、ごく自然に整っていく。
最後に、近くを這っていた芋虫を指先でつまみ、そっと釣り針に通した。
瞬間、タキの手が止まった。
芋虫が消えなかったのだ。
本来ならシステム処理され、光とともに消えるはずの芋虫が、針に通ったままになっている。
タキは小さく息を呑んだ。
餌を通すという釣りの手順そのものが、この世界のルールを、少しだけ現実へ引き寄せたのかもしれなかった。
魚から身を隠すように姿勢を落とし、片膝を立てる。
水の流れを見つめながら、タキは竿を静かに立てた。
肘の動きだけで、振り子のようにゆっくりと仕掛けを振り込む。
狙うのは、上流からの流れが段になった落ち込みの下だった。
水が岩へ当たって砕け、白く泡立つ、その下。
岩魚は、ああいう場所へ着く。
狙いどおり振り込まれた仕掛けは、わずかに流れた後、ふとそこで止まる。
岩魚のアタリだ。
タキは慌てない。
まだ、岩魚がエサを咥えただけ。
一呼吸だけ間を置き、掌を返すように軽く合わせる。
くん、と確かな手ごたえが伝わった。
底へ逃げようとする岩魚を、竹竿の粘りでいなす。
竿を高く上げたまま、水に手を差し入れる。
握った手の中でもがくのは、白い星を散らした茶褐色の魚体。
二十センチほどの岩魚だった。
暴れる岩魚の口から、慣れた手つきで釣り針を外し、あらかじめ濡らしておいた麻袋に放り込む。
袋の中で、魚体がうねうねともがいていた。
岩魚は強い魚だ。
魚籠やバケツから這い出してしまうことも珍しくない。
袋の口をきゅっと結び、タキは再び淵へ目を向けた。
同じ手順で、さらに二匹。
落ち込みの下。
淵の底。
川底の岩の脇。
流れに乗せ、岩魚の付きそうな場所を場所を狙い、わずかな変化を拾って合わせる。
わずかの間に、麻袋の中には、十数匹の岩魚が収まっていた。
これだけあれば十分だろう。
タキは川岸の平らな石を見つけ、そこへ膝をついた。
掃除をするには、ここがちょうどいい。
麻袋から一匹を取り出す。
強靭な岩魚は、掴んだ手から逃れようと、なおもしきりに身をよじらせた。
沢の冷たい水をまとった魚体が、掌の中でぬめるように滑る。
タキは静かに手を合わせてから、剣鉈を抜き、その峰で岩魚の頭を打った。
魚体がびくりと震え、やがて静かになる。
肛門から喉元へ向けて腹を浅く裂く。
内臓とエラを、指先で千切って取り除く。
背骨に沿った血合いを指でこそぎ、沢の水で軽く洗い流す。
指先に残るのは、生き物の確かな感触だった。
そして―
タキの手が止まった。
しばらく待っても、何も起こらない。
淡いポリゴンの光も。
アイテム化の処理も。
魚は、光になって消えなかった。
ただ、掃除した岩魚が、石の上にあるだけだった。
「……やっぱりや」
料理も。
解体も。
この世界では、システムに任せれば味も手順も失われる。
けれど現実の手順を差し込めば、世界はそれを“現実”として受け入れる。
タキは、じっと石の上の岩魚を見つめた。
用語
竹竿:店売りの一番安い釣り竿。竿の穂先に釣り糸を結んで使う。
芋虫:ごく普通の芋虫。よくその辺を這っている。
岩魚:幻の魚などと言われるが、気配さえ消せば結構簡単に釣れたりする。山奥まで行くのが大変=幻。