タキは麻袋をぶら下げて村に戻った。
そして、木こりの家の前、剥き出しの土の上に座り込む。
「ここ、借りるさけ」
誰にともなく断りを入れ、小枝を集める。
乾いた枝を折り、皮を削り、細いものから順に、空気の通り道を作るように組んでいく。
火口(ほくち)の火を移し、そっと息を吹きかける。
生まれたばかりの小さな炎が、パチりと爆ぜた。
麻袋から取り出した岩魚に、手際よく竹串を打つ。
火に直接当てるのではない。少し離して、揺れる熱気で包むように遠火で炙る。
しばらくして、匂いが立った。
焼けた皮と脂の香ばい香り。
焼き魚の匂い。
この村に、いや、この世界に今まで存在しなかった「美味」の匂いだ。
「…何だ、この匂いは?」
村の男が、薪を割る手を止めた。
「こんなの、知らない」
女が鼻を動かし、ふらふらと引き寄せられた。
一人、また一人と、言葉を忘れたように人が集まる。
浮き出た岩魚の脂が、じりじりと音を立てていた。
「まだや。まだ触ったらあかん」
タキが短く制する。
十分に火が通り、身がふっくらと膨らむのを待って、ようやく一本を差し出した。
男が、それを受け取る。
熱さをこらえて、かぶりつく。
噛む。
動きが、止まる。
「…何だ、これ」
男は、初めて味わう「味」という概念に目を丸くした。
もう一口。
さらに動きが止まる。
「…うまい。何なんだ、これは」
語彙が追いつかない。
ただ、胃の奥が熱くなり、さらにもう一口を求めて体が動く。
周りの者が、唾を飲み込んでそれを見つめていた。
「わしにもくれ」
「俺にもだ」
食べる。
そして止まる。
「…何だ、これ?」
「違う。いつもの食い物と、何もかもが違う」
誰も説明できなかった。
だが、全員の食う手が止まらなかった。
その日は、それで終わらなかった。
焼いて、渡して、また焼く。
用意した岩魚は、またたく間に尽きた。
翌朝、タキは夜明けとともに沢へ向かった。
「しゃあない。獲りに行こか」
暮れるまで、ほとんどの時間を川で過ごした。
落ち込みの下、淵の底、岩の影。
糸を流れに乗せ、手元に伝わるわずかな違和感を拾って合わせる。
肩の袋が、昨日より重くなる。
村へ戻り、また焼く。
広場に集まる人の数は、さらに増えていた。
一週間、そして一か月。
タキはただ焼くだけでなく、魚の獲り方を教え始めた。
「そこやない。流れに乗せて、ここで止めるんや」
「いまは早い。そこで合わせる」
獲った獣を捌く際にも、手本を見せて教えた。
「深く切ったらあかん。中身が出る」
「血、残したらあかん。臭みになるさけ」
火の使い方。
食材の焼き方。
長く持たせるための、干し方。
煙を当てて香りを移す、燻し方。
漂う匂い。
料理の手順。
手仕事の感覚。
村には、確かな変化が生まれていた。
そんなある日、行商人が村を訪れた。
荷を背負い、急な坂を上りきった入口で、彼は足を止めた。
「…何だ、この匂いは」
商人は、鼻を突き抜ける香ばしい匂いに、激しい空腹を感じた。
しばらく呆然と立ち尽くした後、吸い寄せられたように歩き出した。
村の隅には、今日も岩魚を炙るタキの姿があった。
商人は、火の傍に座るタキに尋ねた。
「お前がやったのか」
「やり方、知っとるだけや」
「それ、一本貰えんか?」
商人はその一本を手に取り、まじまじと眺めてから口に運んだ。
そして噛み締めると、大きく目を見開いた。
深い沈黙のあと、彼は絞り出すように言った。
「…これは」
もう一口。
商人は深く、深く頷いた。
「いい。恐ろしくいい…ぜひこれを売ってくれ!」
商人は荷を解き、逸る気持ちを抑えられない様子で言った。
「今ある分、すべて売ってくれ。言い値で構わない」
タキは、パチパチと爆ぜる火をじっと見つめたまま、静かに首を振った。
「全部はあかん。村の分は残すさけ」
商人は、はっとしたように息を吐く。
「…ああ、すまない。つい欲が出た。なら、残った分だけでいい。それで手を打とう」
「そんなら、ええ」
タキが小さく頷くと、商人の目が鋭く、獲物を狙う者のそれに変わった。
「これは…大きな商いになるぞ」
タキは何も言わず、焚火を見つめていた。