ルソーラ地方サキタカ。
ルソーラ地方北部の秘境山林地帯であり、現実では日光国立公園から群馬北部山岳圏に当たる地域である。
深い山野には凶暴な魔物が生息する一方、獣肉、川魚、山菜、薬草、鉱物資源などに恵まれた、豊かな土地でもあった。
その中心となるのは、深い谷と急斜面に囲まれた「ソノハラ水門市」
古い石組みの水門遺構を抱え込むようにして、斜面に沿って段状に街が築かれている。
下方には荷揚げ場と作業場。
中腹には市場と工房。
そして、最も高い場所に領主館があった。
領主館の一室で、領主、ソノハラ卿は静かに手を止めた。
机の上には、包みがひとつ。
行商人が持ち込んだ品である。
「これが、言っていたものか?」
側に控える家人に問う。
「はい。山中の小村で作られているとのことです」
ゆっくり包みを開く。
中から現れたのは、燻された川魚と、干し固められた鹿肉だった。
ソノハラ卿はそれを手に取り、しばらく眺めた後、口に運ぶ。
一口噛む。
そして、止まった。
もう一度、噛む。
そのまま、しばらく動かない。
「……これは」
言葉が続かない。
口の中に残る感触を確かめるように、ゆっくりと飲み込んだ。
明らかに、これまで口にしてきたものとは違う。
無意識に、もう一度手が伸びる。
それを見て、側の者は密かに息を呑んだ。
この領主は、食に関して多くを語る人物ではない。
まして、同じものに続けて手を伸ばすことなど、滅多にない。
ソノハラ卿はしばらく黙って食べ続け、やがて指先を拭うと静かに言った。
「作った者に、会ってみたい」
それだけだった。
書簡が用意された。
飾り気のない、短い文。
『当地を訪れる機会があれば、ぜひ一度会いたい』
それは命令ではなく、ただの願いだった。
行商人はそれを受け取り、小さく頷いた。
「必ず届けましょう」
その目は、すでに次の取引を見ていた。
数日後。
行商人は再び山里へ向かった。
そして、以前と同じく匂いを辿って村外れに出る。
「来たぞ」
軽く手を挙げる。
タキは串を返しながら顔を上げた。
「また来たんか」
行商人は笑う。
「今回は商売だけじゃない。これを渡しに来たんだ」
懐から取り出したのは、封じられた書簡だった。
「ソノハラ卿からだ。この一帯を治める領主様だよ」
タキは手を止める。
「領主?」
「そうだ。お前の作ったものを口にされてな。会いたいと仰った」
受け取った書簡には、飾り気のない筆致でそう記されていた。
タキは短い文面を、しばらく黙って見つめていた。
「なんで?」
小さく呟く。
分からなかった。
自分はただ、やり方を持ち込んだだけだ。
火の前に戻る。
串を返す。
その間も、頭の中では言葉が回り続けていた。
「行った方がええんか?」
火の粉が爆ぜる音が、タキに答えるように響いた。
それから数日後。
山村に、赤褐色の一団がやってきた。
くすんだ赤い革鎧。
胸元に光る金の紋。
ルソーラ猟兵団。
この地方の腕利きが集まった山岳傭兵団である。
彼らは土地を熟知し、山道の警備や魔物の駆除、隊商の護衛を担っていた。
「ここが最奥の村か」
先頭の男が立ち止まり、物珍し気に集まった村人を見回した。
「村の者、聞いてくれ」
村人たちがざわめく。
「我々が受けた依頼に関してだ」
「この先、さらに奥。山中に“化け猪”が出たらしい」
ざわり、と空気が揺れる。
「ただの獣ではない。山の怪異だ」
「山道を見張ってはいるが、放置すれば、このあたりまで下りてくるかもしれん」
タキもまた、黙って聞いていた。
「討伐に入る前に、この辺りに詳しい者を雇いたい」
男がタキを見た。
―子ども?
いや、耳が尖っているからドワーフか?
妙に山に馴染んだ格好をしているな…
「あんたか。山に詳しいのは」
「…うち、うちのことか?」
突然話を振られたタキは、少し焦った。
「そうだ、あんただ。山になれてそうだと思ってな」
タキは少しだけ考えて答えた。
「…分かるとこやったら、案内できる」
男は頷いた。
「組頭のメドヴェだ。宜しく頼む」
タキは、ほっと息を吐いた。
一瞬よぎったのは、祖父の姿だった。
用語
ソノハラ水門市:ルソーラ地方サキタカにある地方都市。現実世界では群馬県沼田市、薗原ダム周辺。
ルソーラ猟兵団:地元の猟師や木こりで構成された山岳傭兵団で、治安維持や魔物駆除の中核を担っている。一般の傭兵団と異なり、地域との関係は良好。
怪異:モンスターの意味。