イースタルの片隅で   作:ありさかいずも

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連投ここまでです。たぶん。


化け猪

 五月。山の奥が遅い春を迎える季節。

 

 芽吹いた若葉はまだ薄く、光を透かしてやわらかく揺れていた。

 だが、標高千メートル近いこのあたりには、麓の陽気はまだ届かない。

 斜面の陰には残雪がまだらに残り、雪解けの水が黒土を湿らせていた。

 

 冷たい風が、尾根から谷へと流れていった。

 その中に、獣の気配が混じっていた。

 

 山道を黙々と歩む、ルソーラ猟兵団。

 彼らの動きは驚くほど静かだった。

 革鎧が擦れる音すら、風に紛れるほどに抑えられていた。

 

 その先頭を、タキが歩いていた。

 気配を探り、目だけが忙しく動く。

 

 踏み跡。

 折れた枝。

 泥の深さ。

 風の流れ。

 

 やがて、ふと足を止めた。

 

「…ここ、通っとる」

 

 指した先は、九十九折りの内側だった。

 

 雪解け水が集まり、土が黒く沈んでいる。

 

 踏み込めば、足を取られる場所だ。

 

「ここ、踏ん張りきかへん。足、持ってかれるけ」

 

 組頭のメドヴェが地面を見下ろし、わずかに顎を引く。

 

「追い込めるか」

 

 タキは顔を上げ、風の流れを確かめた。

 

 尾根から吹き下ろす風が、谷へ落ちている。

 

「上から風が来とる。こっち回ったら、匂いが先、行きよる」

 

 尾根の回り込みを指し示す。

 

「風上から、下に落とした方がええ」

 

 組頭は短く頷いた。

 

「斥候と弓持ちは上へ。残りは誘導に回る」

 

 短い指示。だがそれで十分だった。

 

 

 最初の矢は当てるためではなく、威嚇。

 

 乾いた枝をかすめる矢音。

 

 林の奥からの低い唸り声が聞こえたかと思うと、次の瞬間、それは、灌木を押し分けて現れた。

 

「出たぞ、奴だ!」

 

 誰かが叫ぶ。

 

 年経た剛毛猪。

 小山のような体躯、針のように逆立った剛毛。

 

 山の怪異と恐れられる、化け猪であった。

 

 鼻先から漏れる白い息。

 前足が土を掻き、地面を抉り、巨体が突進する。

 

 ただ速いだけではない、地面そのものが押し出すような圧力。

 

 それを、猟兵たちは正面から受けず、直前で躱す。

 

 半歩、さらに半歩と位置をずらし、進路を曲げる。

 獣道に沿って、少しずつ。

 

 九十九折りの内側に。

 ぬかるみに。

 怒りに任せた軌道が、わずかずつ歪んでいく。

 

「射てぇ!」

 

 組頭の指示で、矢が降った。

 

 風上から放たれた矢が、その背に、剛毛の隙間に突き刺さる。

 巨体に刺さり、その命を削る。

 

 たまらず、化け猪は体に似合わぬ速さで、斜面を駆け上がった。

 その足に蔦が絡み、一瞬、動きが鈍った。

 

 あらかじめ仕掛けておいた、蔦を結んだ単純な罠。

 

「足だ!」

 

 湿った土が跳ね、四人が足元に滑り込む。

 十人が一つとなって、巨体を囲む。

 斬っては離れ、離れては斬る。

 

 だが、化け猪の瞳は、まだ濁ってはいない。

 沈みかけた巨体は、まだ倒れなかった。

 

「距離を取れ!」

 

 毒矢が飛ぶ。

 石が打ち込まれる。

 

 それでも、止まらない。

 

 前足が、また地面を蹴った。

 

「まだ来るぞ!」

 

 土を蹴り上げ、一直線に迫る。

 

 一人が弾き飛ばされる。

 革鎧が地面に叩きつけられる鈍い音。

 

 これでは詰めきれない。

 

 

「それやと、倒しきれへん…」

 

 タキが言った。

 

 全員がタキを見た。

 

「血ぃかなり出とるさけ、水、欲しがるはずや」

 

 谷の下を指す。

 

「下の沢。道開けたら、そっち行きよる」

 

 組頭は一瞬だけ考え、すぐに決めた。

 

「退路を開けろ。下に逃す」

 

 押さえず、あえて逃がす。

 

 化け猪が向きを変えた。

 巨体が石を撥ね、泥を蹴り上げながら、滑り落ちるように坂を駆けた。

 

 沢の音が近づく。

 普段は浅い瀬が、雪解けで水嵩を増やしている。

 

「そこや。踏ん張りきかへん場所や」

 

 水を求めて、猪が流れに入った。

 

 早瀬に足を取られ、踏み込みが浅くなる。

 

 その瞬間、タキが動いた。

 

 村田銃の長い銃身が、猪を睨む。

 狙いは、前足の付け根のすぐ後ろ。

 

【挿絵表示】

 

 息を止め、僅かな距離から引き金を絞る。

 と同時に、肩を打つ、突き飛ばされるような反動。

 

―ドォォン

 

 腹の底に響くような、重く長い音が渓谷に響いた。

 銃口から噴いた煙が、沢風に煽られて広がる。

 

 白い煙の向こうで、化け猪の巨体が大きく揺れた。

 

 僅かな距離から放たれた村田弾が、頑丈な肋骨を砕き、心臓を押しつぶした。

 

 踏み出しかけた前足が、そこで止まる。

 もう一歩を支えるはずの力は、最早なかった。

 それでも化け猪は、なおも前へ出ようとして、その膝を折った。

 

 巨体が傾く。

 そして、水しぶきを上げ、崩れ落ちた。

 巨体が流れの中で二、三度震え、それきり動かなくなった。

 

 タキは銃を下ろし、無言で手を合わせた。

 

 

「仕留めたぞ」

 

 組頭が全員に告げる。

 

 血の匂いが、冷たい空気に混じっていた。

 

 誰もすぐには口を開かなかった。

 あの一瞬の出来事が、まだ頭の中に残っていた。

 

 やがて、弓持ちの一人が低く言った。

 

「さっきの、何だ?」

 

「矢じゃないな」

 

 別の者が首を振る。

 

「魔法…でもないな」

 

「ああ。あんな魔法は見たことがない」

 

 組頭は何も言わず、猪の倒れた場所まで歩いた。

 

 膝をついて、前足の付け根に触れる。

 指先が、わずかに沈む。

 

「…中からやられてる」

 

 短く言った。

 

「表は大きく裂けていないのに…」

 

 猟兵の一人が眉をひそめた。

 

「心臓が潰れてる」

 

「どうやって、こんな…」

 

 言葉は途中で止まった。

 

 化け猪が、光とともに消えていったのだ。

 いくつかの置き土産を遺して。

 

 組頭が立ち上がり、手についた血を払った。

 

「あんた」

 

 タキに声を掛ける。

 

「さっきは、何を狙った?」

 

「…動き、見てただけやけ」

 

 タキは少しだけ考えて答え、沢に目をやった。

 

「瀬の流れ。あそこやったら、力が抜ける思た」

 

 組頭は黙って聞いていた。

 

「…なるほど」

 

 それ以上は何も聞かず、部下の方に振り返る。

 

「撤収、日が落ちる前に降りるぞ!」

 

 声が元の調子に戻る。

 

 傭兵たちは動き出した。

 その合間に、ぽつりと声が漏れた。

 

「…あの子、ただの村人ではないな」

 

「そうだな」

 

 それだけ言うと、皆黙って支度を始めた。

 討伐が終わったということだけは、確かだった。

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