例えばそれは、夢に似ているのかもしれない。
恐ろしかったことだけは覚えていて、もう同じ体験をしたくないなとも思うけれど、具体的になぜそう思ったのかも、何があったのかも、果たして定かではない。
ふと、桐藤ナギサはそう思った。
紅茶が冷めていた。
これはまずいと思って、給仕を呼ぼうとした。
けれどおかしい。誰もいない。おかしいのは、その状況をおかしいと思わなかったことだけれど、ナギサは構わず席を立った。
そこは白磁のバルコニーで、渡り廊下へ続く階段を降りれば大きな柱の連なる、無機質で無感動な道に出る。
「お姉様?」
声がした。ナギサはまだその声の方向へ首を向けてもいないのに、目を見開いた。適切な対応はできなさそうだ。唇が震え、翼が戦慄く。
その胸に渦巻く感情に反して、ゆったりと、すでに何かを受け入れていたかのように、ナギサは声のした方を見た。
「……エルナ」
ナギサは名前を呼んだ。この世で自分を姉と呼ぶのはただ一人と知っていたからである。
「珍客も珍客じゃない。なんなの?最近は人の来訪が多すぎるわ」
ナギサは何か反応を示す前に、涙を流していた。本人も気づいていない。けれど、ぽろぽろと落ちる大粒は、心が自覚するよりも前に、本人の思いの丈を正確に表していた。
「……?。気味の悪い。何を泣いてらっしゃるの?」
ナギサはもはや前が見えていない。よたよたと歩き、手を伸ばす。足に力が入らないけれど、言葉もろくに出せないけれど、それでも逢いたい。だから、ナギサは賭けに出たのだ。
先生がエルナを訪ねてきた。
ワケを聞いた。
平静を取り繕えていたかは分からない。
掴みかかる勢いで仔細を聞き出したことだけは確かだ。
アビドスの生徒が、桐藤エルナなる人物に遭遇した。
いわく、過去と未来の混在する空間で。
3年前のエルナと奇妙な体験をしたという。
「……お姉様?」
ツカツカとエルナが歩み寄ってきた。背筋は伸びているが、淑女的ではない、どちらかと言えば意志の強さが前に出た大股の歩き方。決して逸らさない視線、興味のあるものには爛々と目を剥き、それ以外はつねに半目で、視界に入れる努力すらしない。
在りし日の、妹。
「ちょっ、むぐぇ……何なのよ、離して頂戴」
エルナは引き剥がそうとした。ナギサは離れたくなかった。想いの強さが結果に出る。
「折るわよ?」
エルナは目を細めていた。エルナは脅迫というものをしたことがない。折ると言えば折るのだ。そこに害意や悪意は介入しない。思ったこととする事が完全に一致しているだけである。
「ごめんなさい」
ナギサは謝った。エルナは眉をひそめた。姉妹の勘が、ナギサが今のこの状況を指して謝っているわけではないと察したのだ。ゆえに分からなかった。何故謝るのだろう、何をしでかしたのだろうと。
「なんの話?」
「エルナ」
ナギサは抱きしめたエルナの両肩を掴み、少し離れて顔をしっかり見合わせた。
「貴方は何も悪くない」
時が止まった。そう錯覚するほど、一時、完全にエルナの挙動が停止した。きっと産毛の先に至るまで停止していた。そういう反応だった。
「な、にを」
「貴方は」
エルナがそれでも努めて冷静に振る舞おうとすると、ナギサは語気を強めて遮った。エルナは推し黙る。言いたい事はあるが、今言っても意味はないと判断したのだろう。
「何も、悪くないんです」
不意に骨を鳴らす音がした。ゴキン、と重く響いたそれは、エルナの手指から出ていた。誰かへ暴行を働く際の、無意識の癖である。
「しねくそ」
エルナは尋常あらざる速度で、ナギサの顔へ向けて張り手をした。ヘイローの加護を貫通して命を危ぶめる威力がある。空間が撓む音がした。
モロに受けたナギサは、しかし手を離さなかった。驚愕したのはエルナである。自分の力を正確に知っている。姉の身体性能とて、人よりは知っている。だから、耐えられるはずがないのだ。
「……貴方は」
「……やめなさい」
エルナは身じろぎをした。途端に姉が得体の知れない気味の悪い存在に思えたのだ。しかし離れない。気づけばさっきまでよりも更に強く掴まれている。それはエルナが緊迫感を覚えるほどに。
「何も悪くないの」
「やめて」
エルナの声のトーンが低まった。
ただの少女のようだった。
エルナは歯を剥き出して睨んだ。
ナギサは微笑んだ。愛ゆえに。
「やめてって言ってるでしょうっ!」
何も言われてなくとも、我慢できずにエルナは吠えた。
「お姉様……何を訳知り顔で偉そうに!」
汗をだらだらと流しながら、エルナは威嚇するような笑顔を作った。
「私の何一つ理解できなかった貴方が!」
「できなかったので」
エルナは先を言えなかった。姉の柔い心を傷つけ、無理矢理にでも話を終わらせようとした。けれど、できなかった。この姉は、強い。少なくともエルナの知るそれよりも遥かに。
「できるように頑張りました」
「……何を」
エルナは今度こそ本気で戸惑った。
「貴方が正気だった最後の年から三年。全てを知るために、全てを調べました」
「……っ!つくづく度し難い場所よ、ここは」
エルナはその言葉で全てを察した。
「眠れぬ夜があったでしょう。涙だって枯れたのでしょう」
「……っの、言わせておけば」
「私は姉として、貴方に頼られる存在にはなれなかったと知りました」
エルナは口をつぐんだ。バツの悪そうな顔で姉を見上げる。
「エルナ、三年かかってしまったけれど、待っていてください」
ナギサはまっすぐエルナを見た。
「貴方の姉は、もう貴方が寄りかかれる存在になったんです」
エルナは何も言わなかった。
無言でナギサの涙を掬い、そのまま髪を梳いた。
慈しむ顔は確かに、ナギサに目鼻立ちが似ている。
「私も、自分の精一杯をやってきたのだけれどね」
エルナは手を離した。ナギサも手を離した。
エルナは顎をしゃくってナギサの後方の道を示した。幾つにも分岐し、奥へ奥へと続く道。
「お行きなさって」
ナギサは何も言わなかった。硬質の靴の音が、リノリウムの床に反響して遠く遠くへ逃げていく。
それはまるで、この先の道の果てなきを示しているようだった。
エルナは微動だにしなかった。姉の大きさが粒になり、点になり、消え去るまで。
そうした後、ふと肩の力を抜いて、息を漏らしながら天を仰いだ。
連なる柱の向こうには雲海が広がり、そのまま上へ上へと視線を上げていくにつれ青から黒のグラデーションとなり、真上には夜のような空が広がっている。
「あなたが頼りなかったことなんて、なかったわ」
エルナはそう独りごちた。
そこにエルナ以外の人間はいない。
なので、彼女がどんな顔をしていたのかも、誰も知らない。
***
「……会って、いきますか?」
ナギサは躊躇いがちに、来訪した先生にそう聞いた。
先生は内心おや?と思わないでもなかった。チャットの文面、通話の際の鬼気迫る焦燥。
少なくともあまり良い状態ではなかったはずだが、大きな門扉の傍に立っていたナギサは不思議とリラックスしているようだ。
先生はそこへ行くまでの緊張感を少し弛緩させて、首肯した。
狂気をきたした妹。
先生は巨大な屋敷の外観をチラッと見て、なんとなくエルナの部屋がどこかを察した。
鉄格子がついていたから。カーテンが締め切られていたから。などなど理由はあるが、一番の理由は違う。
窓辺に立って、少女がこっちを見ていた。
「昼間に起きていることはあまりないのですが、勘でしょうか」
ナギサは平然と言った。先生は少しビビった。
微動だにしないあの少女から目を離せない。魅力的だとか肯定的な意味ではなく、目を離したら、次の瞬間にはどこかに消えていそうで。目の前にいたりしそうで。視界から外すことが怖い。何が面白くて、彼女はあんなニンマリこっちを見ているのか。
「あの……」
ナギサは先生の胸中を察したのか、少しトーンを落として声をかける。
「無理はなさらないでください。彼女に会ったところで、百害あって一理なしですから」
先生はその物言いに面食らった。少々苛烈である。
「妹なんです。遠慮はしませんよ。面倒を見させておいて気を遣えだなんてあの子は言いませんし」
先生は遠い目をしてそっかあと言った。その後少し正気に戻って、ナギサの意外な一面を興味深く捉える。
屋敷の内部へ入り、あっちこっちと進むと、そのアンティーク的なデザインにそぐわない物々しい鉄柵や金具、果ては武装した私兵なんかが増えてきた。エルナの部屋は、最も入り組んだ区画のもっとも奥にあった。何かあっても外に逃がさないためらしい。
「エルナ、入りますよ」
ナギサは私兵から何やら耳打ち……察するに容体とかだろうか、をされた後、少し息を吐いてノックをした。
バタバタバタ、と何かが走る音がして、多分、扉の真ん前に来た。
私兵が冷や汗をかきながら錠を外すと、少しだけ開けられた扉の淵に、ひどく細く、また白い指が内側から張り付く。
ぬるり、ともう一つの手がナギサの首に伸び、指が頬を撫でた。
「ウフ、ウフウフ。お姉様、ご機嫌麗しゅう」
「ええ。エルナ、貴方に会いたいという方が来ています」
エルナは項垂れながら扉に力をかけ、ゆるりと身を乗り出した。
癖のある伸び放題の長髪のせいで表情は窺えない。
ぐるぅりと、そんなオノマトペを出しながら、エルナは先生の方に向いた。先生は普通にちょっと悲鳴を漏らした。
「貴女、誕生日は六月であらせられるのネ」
「”えっ。なんでわかるの……?”」
「尖った時間の世界で生えている小腸の形をしているわ」
「”???”」
エルナは顔と体勢を先生の方へ向けたまま、みしりと音を立ててナギサの首根っこを掴み、室内へ引き摺りこんだ。
「いらしゃってくださいまし。オホホ、久しぶりね、先生様」
エルナは這うような姿勢になり、先生の足首を掴み、引きずり倒して部屋に入れた。そして思い出したように人差し指を立てて私兵に声をかける。
「ハーブティを淹れてくださる?あまり甘くないものが気分ネ」
「承知しました。ドーナツは?」
「談笑がしたいからキャラメルとキャンデーに変えて頂戴」
「じゃあドーナツはみんなで食べていいですか」
「変えるのを知ってるのが貴女だけなら、黙って出したことにして独り占めしちゃいなさいな」
「みんなで食べたほうが美味しいですよ」
「好きにおし」
エルナが部屋に引っ込むと、先生とナギサはすでに机と椅子を隅っこから持ってきて、エルナのベッドの脇にセットしていた。
余談。エルナが茶菓子に注文をつけている間、先生は首をおもくそ締められたナギサを心配していたが、ナギサは慣れっこらしくケロッとしていた。引きずり倒された際におでこを強打して赤くしている先生の方がよほど重症である。
エルナは緩慢な動きでベッドサイドに腰掛け、笑いながら手をひろげる。
「旧知の再会を祝しましょうか」
先生はおずおずと挙手した。別に挙手制を採用された空間ではなかったが、何も言わずに何か言うといきなりぶん殴られるかもという先生の予想がそのような行動をさせたわけである。惜しい予想である。先生の顔に拳が飛んだ。
正解は何もしていなくても殴られる、である。
ナギサが先生を突き飛ばし、自分の二の腕でガードした。俗にいう肩パンのようなことになり大変シュールだが、事態はあまり面白くない。
「先生は脆弱です。死んでしまうでしょう」
「アハアハ、先生様、如何なさいましたカ」
先生は事態に追いついていない。自分の命が危ぶまれたことももう少しして気づいて震撼する。
なので少なくとも今は、恐ろしく冷静に会話を返した。
「”えっと、久しぶりって言ってたよね”」
「ええ」
エルナは変なことを言った。
「四年前にお会いしたでしょう」
いかにセリフの長さを削って印象的な内容にできるかという試行錯誤は剪定に似てると思う