書物を手にした月詠が、静かに部屋の扉を開く。その先には彼女を待つ琴音の姿があった
十代後半へと成長したその姿は、かつての面影を残しながらも、大きく変わっている
神にとっての十数年は一瞬に等しい。だが、人にとっては心身を育てるには十分すぎる時間だ。幼さの名残は僅かに残っているが、内に宿した強さがその幼さを塗り替える
月詠の視線は自然と琴音の装いへと移る
上衣は春の名残を思わせる柔らかな桜色。その色は琴音の心の内に残る優しさを静かに映し出している
下に合わせられた紺色の袴は深く落ち着き、全体の印象を引き締めていた
華やかさにだけ偏らない、地に足のついた選択だ
肩に羽織られた一枚の羽織は装飾もない簡素な造り
だが、纏い方には無駄がない
動きが妨げぬように計算されているそれは、既に実戦を見据えたものだ
(この十数年の間に成長しましたね…)
与えられ、守られるだけの存在だった赤子はもういない
自らの意思で選び、考え、決断する。その変化は外見だけではなく内面にも確かに現れている
ならば──
月詠は教壇へと歩み、手にした書物を静かに置いた。そして真っ直ぐに琴音の方を見る
「さて、琴音。今日は座学から始めましょうか」
琴音と向かい合った月詠は静かに口を開いた
「本日は二つの講義を行います。まずは貴方の力の源である龍力についての講義です」
「はい。よろしくお願いします先生」
先生と呼ばれ口角が上がるのを必死に抑えて授業を始める
「龍力とは貴女が扱う力の根幹です。理解せずに使えば──世界を壊してしまう可能性があります」
自分が普段から使っている力がそんなに恐ろしい物だという実感がない。だが、冷静な口調で放たれた言葉に琴音の体は強張る
実感が持てない琴音のために月詠は神力を使うと淡い光が集まり、燃え盛る火山の像を作りだす
「世界は自然のエネルギーで満ちています。火山であれば“火”のエネルギー、海であれば“水”のエネルギーが存在し、龍は自分が司る属性のエネルギーを自然から直接取り込む事で龍力へと変換します
極端に言えば──龍は食べる必要も眠る必要すらありません」
「つまり…自然エネルギーがある限り、力は尽きない?」
「理論上は可能です──ですが」
月詠の声が僅かに低くなった次の瞬間、火山の像が急速に色を失い赤く燃えていたマグマは灰色へと変わった
「いくら世界を満たしている自然エネルギーだとしてもエネルギーは有限です。過剰に取り込めば自然は死にます」
「…っ!」
「火山の場合、二度と噴火する事の無い死火山へと変わる。これがどういう意味か分かる?」
「エネルギーを使えば使う程……」
「世界の寿命を奪っていく」
その答えに背筋が凍る。龍が及ぼす影響は自然に深い爪痕を残す。自分の持つ力が自然を傷つける力でもある事に恐怖を覚えた
「ですが龍の中にも例外となる存在がいます。それが暗黒龍と輝煌龍です。彼らは自然ではなく闇と光という概念を司る存在です」
「概念?」
概念と言われても大雑把な説明で具体的にどう言う物なのかは分からない
「闇であれば夜の暗闇や昼間の光に照らして現れる影、そして、人の負の感情を取り込みます
光はその逆です。昼間の明かりに夜の中で煌めく星々と月の光に人間の正の感情を糧とします」
その話を聞いて、琴音の中に1つの疑問が生まれる
「先生、聞きたい事があるんですが…」
月詠は琴音が何を言いたいのかを分かっているのか声に出すよりも先に首を横に振る
「その質問の答えは次の話で答えが分かります。今回の授業で最後に話すのは琴音、貴方の中にある存在についてです」
琴音は自分の手を胸に当てる。自分の中には龍王の魂が宿っている
龍王は混沌と終焉を司る龍
今までの話からすれば龍王は暗黒竜や輝煌龍と同じ概念を司る龍
だが──龍王をその枠に当てはめるのは違う気がした
「龍王の前では善と悪の区別はありません。善であっても行き過ぎた正義は悪となり、誰かのために怒る事は善になる
感情を善悪で分けるのではなく──目の前にある全てを取り込む。それが龍王と言う存在です」
月詠が言い切ると部屋の中に沈黙が生まれる。知識を得た事で琴音は自分の中にある存在がどれだけ危険な存在である事を実感した
「琴音、貴方の中にいる龍王は確かに危険な力です。ですが…同時に答えに最も近づける可能性も秘めています」
「答え?」
「何をもって善とするか、何をもって悪と判断するか」
そして──
「最終的に決断を下すのは貴方自身の心です」
月詠がそっと琴音の胸の中心に触れる
琴音はしばらく黙っていたが、ゆっくりと顔をあげる
「今の私には難しいですね」
困ったような顔で笑う。しかし、その瞳には決断を下さなければならない時が来たら自分の心に従って決断を下せる強い光を帯びていた
「人間は完璧ではありません。ですから悩みながらも前を向いて進むしかないんです。それが“選ぶ”と言う事です」
月詠は静かに言葉を紡いだが、その重さは確かに琴音の胸に深く響いた