運命の残量   作:三橋那由多

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■ 第1話「偶然の偏り」

 

 夕方の空は、ゆっくりと色を落としていた。帝丹小学校の帰り道、いつもの雑踏の中で、灰原哀の足が不意に止まる。

 視線が、人混みの向こうへ引き寄せられた。横断歩道の手前に、一人の少年が立っている。黒に近い髪に、少し長めの前髪。メガネ越しの視線は無機質で、どこにでもいそうな子供のはずだった。

それなのに、胸の奥がざわつく。

 

「……なんで」

 

 思わず漏れた声と同時に、体が勝手に動いた。

 

「ちょ、灰原!?」

 

 背後で江戸川コナンの声がするが、振り返らない。視線を外せないまま、ただ前へ進む。逃がしてはいけないと、本能が告げていた。

信号が点滅する。少年は迷いなく歩き出した。その瞬間、右から来た自転車が大きくバランスを崩す。

 

「うわっ!」

 

 明らかに衝突する軌道。しかし、ほんのわずかにタイヤが滑り、進路が逸れた。少年には触れることなく、そのまま通り過ぎる。

灰原の足が止まる。

 

「……は?」

 

 

今のは偶然なのか。そう思った次の瞬間、視線を戻した先に少年の姿はなかった。

 

「……見失った」

 

 息が乱れる。胸のざわつきが消えないまま、コナンが追いついてくる。

 

「さっきのやつか?」

 

 灰原はすぐに答えず、数秒だけ黙ったあと、小さく首を振った。

 

「……分からない。でも、普通じゃないわ」

「何が?」

「全部よ。動きもタイミングも……さっきのも」

 

 言いながら、自分でも説明できていないと分かっている。それでも、言葉が止まらない。

 

「……懐かしいのよ」

 

 その一言に、コナンの表情がわずかに変わる。

 

「懐かしい?」

 

 灰原はそれ以上何も言わず、「気のせいね」とだけ呟いた。その声に確信はなかった。

 

 阿笠博士の家に戻ると、部屋には静かな時間が流れていた。コーヒーの湯気が揺れる中、しばらく誰も口を開かない。

 やがてコナンが口を開く。

 

「さっきのやつ、何なんだ?」

 

 灰原はカップを見つめたまま答えない。沈黙が続く。

 

「……知らないわ」

 

 それだけ言って終わるはずだった。しかし、わずかな間のあと、自分から言葉を続ける。

 

「でも」

 

 小さく息を吐く。

 

「私ね、昔、幼馴染がいたの」

 

 博士の手が止まり、コナンも黙って耳を傾ける。

 

「ずっと一緒にいたわ。あの組織に関わるようになる前まで」

 

 その声は淡々としているが、どこか抑えているようにも聞こえる。

 

「その人は、もう……死んだと聞かされた」

 

 コナンが静かに問い返す。

 

「……組織に、か?」

 

 灰原は小さく頷く。

 

「ええ。直接見たわけじゃない。そう聞かされただけ」

 

 視線を落とす。

 

「生きてる証拠なんて、どこにもない」

 

 それでも、と続ける。

 

「……信じるしかなかったのよ。あの頃の私は、それしかできなかった」

 

 小さく笑うが、その表情は脆い。

 

「じゃないと、前に進めないもの」

 

 部屋に静けさが戻る。やがて灰原は顔を少しだけ上げた。

 

「さっきの子、似てるとかじゃないの。“知ってる目”だった」

 

 それ以上は言わなかった。

 

 同じ頃、人気のない路地裏で柊悠は壁にもたれて立っていた。

 

「……やりすぎたな」

 

 小さく呟く。自転車の軌道を逸らしたあの瞬間、確実に“何か”を使った感覚が残っている。

 目を閉じると、浮かぶのはあの顔だった。変わっているようで、変わっていない。それでも間違えるはずがない。

 

「……志保」

 

 名前が自然に零れる。

 その直後、周囲で小さなズレが起きる。遠くでブレーキ音が鳴り、どこかで物が落ちる音が響く。頭上からカン、と乾いた音がして、小さな金属片が地面に転がった。

 

「……分かりやすいな」

 

 苦く笑う。

 一歩踏み出そうとした瞬間、足元がわずかに崩れた。バランスを取り、壁に手をつく。

 

「……ほんとに動きにくい」

 

 それでも視線は、あの方向へ向いている。

 

「それでもいい」

 

 迷いはなかった。

 

「守れるなら」

 

 小さく息を吐き、いつもの癖のように言葉が漏れる。

 

「……運がいいだけだよ、昔からな」

 

 夜。阿笠博士の家の窓から、暗くなった外を灰原は見ていた。

 

「ねえ、工藤くん」

「なんだ?」

「死んだと思ってた人が、生きてたらどうする?」

 

 コナンは少しだけ考えたあと、はっきりと答える。

 

「会いに行くな」

 

 その迷いのなさに、灰原は小さく目を伏せる。

 

「……そう。でも私は、怖いわ」

 

 期待してしまうから。信じてしまうから。

 それでも顔を上げる。

 

「だから、確かめる」

 

 その瞳には、はっきりとした意志があった。

 

「次に会ったら、絶対に逃がさない」

 

 遠く離れた路地裏で、柊はまだ動けずにいた。それでも視線だけは同じ方向を向いている。

 

「……次は」

 

 小さく呟く。

 

「ちゃんと会う」

 

 夕焼けは完全に消えていた。それでも、何かは確実に動き始めていた。

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