夕方の空は、ゆっくりと色を落としていた。帝丹小学校の帰り道、いつもの雑踏の中で、灰原哀の足が不意に止まる。
視線が、人混みの向こうへ引き寄せられた。横断歩道の手前に、一人の少年が立っている。黒に近い髪に、少し長めの前髪。メガネ越しの視線は無機質で、どこにでもいそうな子供のはずだった。
それなのに、胸の奥がざわつく。
「……なんで」
思わず漏れた声と同時に、体が勝手に動いた。
「ちょ、灰原!?」
背後で江戸川コナンの声がするが、振り返らない。視線を外せないまま、ただ前へ進む。逃がしてはいけないと、本能が告げていた。
信号が点滅する。少年は迷いなく歩き出した。その瞬間、右から来た自転車が大きくバランスを崩す。
「うわっ!」
明らかに衝突する軌道。しかし、ほんのわずかにタイヤが滑り、進路が逸れた。少年には触れることなく、そのまま通り過ぎる。
灰原の足が止まる。
「……は?」
今のは偶然なのか。そう思った次の瞬間、視線を戻した先に少年の姿はなかった。
「……見失った」
息が乱れる。胸のざわつきが消えないまま、コナンが追いついてくる。
「さっきのやつか?」
灰原はすぐに答えず、数秒だけ黙ったあと、小さく首を振った。
「……分からない。でも、普通じゃないわ」
「何が?」
「全部よ。動きもタイミングも……さっきのも」
言いながら、自分でも説明できていないと分かっている。それでも、言葉が止まらない。
「……懐かしいのよ」
その一言に、コナンの表情がわずかに変わる。
「懐かしい?」
灰原はそれ以上何も言わず、「気のせいね」とだけ呟いた。その声に確信はなかった。
阿笠博士の家に戻ると、部屋には静かな時間が流れていた。コーヒーの湯気が揺れる中、しばらく誰も口を開かない。
やがてコナンが口を開く。
「さっきのやつ、何なんだ?」
灰原はカップを見つめたまま答えない。沈黙が続く。
「……知らないわ」
それだけ言って終わるはずだった。しかし、わずかな間のあと、自分から言葉を続ける。
「でも」
小さく息を吐く。
「私ね、昔、幼馴染がいたの」
博士の手が止まり、コナンも黙って耳を傾ける。
「ずっと一緒にいたわ。あの組織に関わるようになる前まで」
その声は淡々としているが、どこか抑えているようにも聞こえる。
「その人は、もう……死んだと聞かされた」
コナンが静かに問い返す。
「……組織に、か?」
灰原は小さく頷く。
「ええ。直接見たわけじゃない。そう聞かされただけ」
視線を落とす。
「生きてる証拠なんて、どこにもない」
それでも、と続ける。
「……信じるしかなかったのよ。あの頃の私は、それしかできなかった」
小さく笑うが、その表情は脆い。
「じゃないと、前に進めないもの」
部屋に静けさが戻る。やがて灰原は顔を少しだけ上げた。
「さっきの子、似てるとかじゃないの。“知ってる目”だった」
それ以上は言わなかった。
同じ頃、人気のない路地裏で柊悠は壁にもたれて立っていた。
「……やりすぎたな」
小さく呟く。自転車の軌道を逸らしたあの瞬間、確実に“何か”を使った感覚が残っている。
目を閉じると、浮かぶのはあの顔だった。変わっているようで、変わっていない。それでも間違えるはずがない。
「……志保」
名前が自然に零れる。
その直後、周囲で小さなズレが起きる。遠くでブレーキ音が鳴り、どこかで物が落ちる音が響く。頭上からカン、と乾いた音がして、小さな金属片が地面に転がった。
「……分かりやすいな」
苦く笑う。
一歩踏み出そうとした瞬間、足元がわずかに崩れた。バランスを取り、壁に手をつく。
「……ほんとに動きにくい」
それでも視線は、あの方向へ向いている。
「それでもいい」
迷いはなかった。
「守れるなら」
小さく息を吐き、いつもの癖のように言葉が漏れる。
「……運がいいだけだよ、昔からな」
夜。阿笠博士の家の窓から、暗くなった外を灰原は見ていた。
「ねえ、工藤くん」
「なんだ?」
「死んだと思ってた人が、生きてたらどうする?」
コナンは少しだけ考えたあと、はっきりと答える。
「会いに行くな」
その迷いのなさに、灰原は小さく目を伏せる。
「……そう。でも私は、怖いわ」
期待してしまうから。信じてしまうから。
それでも顔を上げる。
「だから、確かめる」
その瞳には、はっきりとした意志があった。
「次に会ったら、絶対に逃がさない」
遠く離れた路地裏で、柊はまだ動けずにいた。それでも視線だけは同じ方向を向いている。
「……次は」
小さく呟く。
「ちゃんと会う」
夕焼けは完全に消えていた。それでも、何かは確実に動き始めていた。