その時、錆びれたドアが、物理法則を無視した静寂と共に開いた。
いや、開いたのではない。彼女の存在そのものが、空間を「羽川翼がいる状態」へと再定義したのだ。
「あら。みんな、阿良々木くんを囲んで何をしているのかな? もしかして、私の許可なく『阿良々木暦・ファン感謝祭』を開催しているのかな?」
羽川翼。
彼女が入ってきた瞬間、塾内の気温が三度下がり、湿度が五%上がった。
それは彼女が纏う「正妻の覇気」による大気の変質だった。
あるいは、僕の毛穴が恐怖で一斉に開いたことによる物理現象かもしれない。
「羽川先輩!」
神原が、ブルマのまま直立不動になる。
「これはその、阿良々木先輩の愛の重さを物理的に計量しようとしただけで……」
神原は、僕の膝にしがみついたまま、汗を一筋流した。そのブルマ姿の誠実さが、彼女の「変態的誠意」を物語っている。
「神原さん。あなたの筋肉量から計算して、阿良々木くんにかかる圧力は既に骨折一歩手前だよ。……少し、お仕置きが必要かな?」
羽川がスッと眼鏡を外す。
その瞬間、彼女の影から『ブラック羽川』の耳がピョコンと飛び出した。
「にゃはは! 暦、随分とモテモテにゃんねぇ! でも残念! 暦の細胞一つ一つには、既にご主人様のIDが刻印されてるにゃ。お前らみたいな有象無象が触っていい代物じゃないにゃん!」
「怪異を……! 怪異を自分の意思で部分的に呼び出しただと!?」
僕は驚愕した。
彼女はもはやストレスを溜めるのではなく、ストレスを「兵器」として自在に制御していた。
彼女にとって怪異とは、もはや克服すべき障害ではなく、自分の愛を効率的にデリバリーするためのシステムの一部に過ぎないのだ。
「さあ、みんな。阿良々木くんを返してもらおうかな」
羽川(+ブラック羽川の耳)が、僕の腕を優しく、しかし万力のような力強さで引き寄せる。
彼女の手の温かさは、僕にとっての「逃れられない日常」そのものだ。
「アンリミテッド・ルールブック」
斧乃木ちゃんが、僕のもう片方の腕を掴む。
「翼お姉ちゃん。鬼のお兄ちゃんを独占するのは、物語の多様性を損なう行為だよ。僕はキメ顔でメタった……少しは僕にも、ツッコミを入れる余地を残してよ」
余接ちゃんは、無表情のまま僕を離さない。
死体人形の彼女にとって、物語のバランスは僕の生存よりも優先されるらしい。
「斧乃木ちゃん。物語の主導権は、知性を持つ者が握るものだよ」
羽川の瞳が怪しく光る。
その瞳には、すでに僕たちの未来の行動履歴が、数式となって流れている。
「阿良々木くん。……君は、誰のものかな? 私の脳内にある『阿良々木暦・パーフェクトデータ』と、目の前の君、どっちを優先して愛してほしい?」
「究極すぎる選択肢を出すなよ! 僕は僕だ! データの僕と競わせるな!」
「あら、残念。じゃあ、データの方を実体化させて、二人の阿良々木くんに私を愛してもらうっていうのも、一興かな?」
「何でもできると思うなよ! 倫理観がログアウトしてるぞ!」
僕は叫んだ。
僕という存在が、彼女の知性によって無限に複製され、彼女の愛という名の海に沈められていく。
結局、神原は羽川の「説法(物理)」によって賢者モードになり、斧乃木ちゃんは「最高級のアイス一年分」で買収され、扇ちゃんは「君の正体、もう全部解けちゃった」という羽川の一言で、煙のように退散した。
跡地には、僕と、少しだけ息を荒くした羽川翼だけが残された。
「……羽川。おまえ、最近ちょっと怖くないか?」
「え? そんなことないよ。私はただ、阿良々木くんの周りの不純物を取り除いて、純度一〇〇%の『暦くん』を精製したいだけだよ」
彼女は僕の胸に顔を寄せ、深く息を吸い込む。
「何でもは知らないけれど。……阿良々木くんが、最後には私のところに戻ってくることだけは、銀河系の寿命が終わるまで保証されているからね」
「……。……そうかよ。もう好きにしろよ」
僕は諦めた。
この知性と怪異と愛が煮凝りになったような少女に勝てる人間なんて、この世には存在しない。
「さあ、帰ろう、阿良々木くん。今日の夜ご飯は、阿良々木君が昨日夢の中で『食べたいな』って呟いた、架空の料理を再現してみたから」
「夢の内容までコピーするなよ! 味が想像できないよ!」
「大丈夫。私が美味しいと言えば、それが世界の真実になるんだよ」
夕闇の中、僕たちは手を繋いで歩き出す。
背後では、崩れかけた学習塾が、彼女の放つ圧倒的な「愛」の残響で、少しだけ白く輝いているように見えた。
ー後日談というか今回のオチー
「ところで羽川」
僕たちは塾の跡地を離れ、家路を歩き始めた。
沈む夕日が、僕たちの影を長く引き伸ばす。羽川の手は、いつになく熱い。
「何かな?」
「さっき扇ちゃんが……その、羽川のことを『スフィンクス』に似ているって言ってたんだ。無機質で、毛一本生えていないかのように完璧で、滑らかな存在だって」
僕は、なるべく平静を装って聞いた。
脳裏には、扇が最後に言い残したあの爆弾発言――「彼女、実は剛毛ですよ」という言葉が、不穏なリズムを刻んでループしている。
羽川は、フッと眼鏡を指で直した。
その動作一つにさえ、知性と、そして底知れない「野生」が同居しているように見える。
「ああ、あれ。扇ちゃんは、私のことをよく見ているね。でも、彼女の観察眼もまだ甘いかな。……阿良々木くん。スフィンクスという猫はね、一見して無毛に見えるけれど、実は産毛に覆われているんだよ。そして、その『完璧な滑らかさ』の裏側には、誰にも見せない、誰にも触れさせない、猛々しいまでの生命力が隠されているの」
「生、生命力……」
「そう。神原さんが言っていた『変態的ポテンシャルの爆発』も、結局は同じこと。……阿良々木くん。君が私という『完璧なる愛』に溺れることで、君の内部に溜まっていた不誠実な煩悩は、行き場を失って、一点に集束していくんだよ」
「……。煩悩が、一点に集束するとどうなるんだ」
「簡単だよ。行き場を失った煩悩は、君の内部で超圧縮され、核融合を起こす。……ちょうど今、君の頭の中を占拠している『剛毛』という名の不条理な幻想が、起爆剤になってね。それが臨界点を超えた時、君の精神的な『終末(アルマゲドン)』が訪れる」
「爆発すんのかよ!? 僕の精神、今『羽川翼・剛毛説』という名の巨大隕石が衝突するアルマゲドン前夜なのか!?」
僕は絶叫した。
扇ちゃんに植え付けられたその「毛深い疑惑」は、今や僕の理性を焼き尽くす猛火と化している。
「大丈夫。その爆発のエネルギーを、全て君への愛に変換してあげるから。……ほら。スフィンクスの謎を解いた代償は、その謎(わたし)に飲み込まれることだよ。そろそろ、君の内部で爆発が起きる時間だね」
羽川は、悪戯っぽく微笑んで、僕に顔を近づけた。
眼鏡の奥の瞳が、獲物を狙う獣のように光る。
その瞬間、僕の脳内で、何かが限界を超えた。
「……。……羽川。僕はもうおまえなしじゃ、一秒も生きていけない。君がスフィンクスでも、剛毛でも、どんな怪異でも構わない。……君という終末を、僕に受け入れさせてくれ」
「ふふ、正解。……何でもは知らないけれど。君が私に飲み込まれていく、その心地よい爆発音だけは、誰よりも綺麗に聞こえるからね」
僕たちの物語は、ここで終わるのではない。
「阿良々木暦」という名の小惑星が、「羽川翼(剛毛疑惑)」という名の巨大な引力に引き寄せられ、大気圏で燃え尽き、激突し、そして融合していく。
それは、世界で一番甘くて、世界で一番毛深い――じゃなくて、世界で一番恐ろしい、愛のアルマゲドンだった