(完結)ホラズム王国の恋模様   作:埴輪庭

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第3章「駆け落ちした第二王子の場合」(下)

 

 ◆

 

 一体どれほどの時間が経っただろうか。

 

 リオンは寝台に横たわるクラウディアを眺めていた。

 

 頬に触れ、手櫛で髪をとかし、額と両頬、そして唇に極々軽いキスをした。

 

「魂は、時を遡ることもあるという」

 

 突然リオンがそんなことを言った。

 

 リオンが口にしたのは、おとぎ話に出てくる、いわゆる「設定」だ。

 

 前世の恋人に会う恋物語だとか、その類の話。

 

 しかし今の彼にはその「設定」がとても魅力的なものに思える。

 

 思えてしまう。

 

 ──もし僕が時を遡ることができたならば、あの木の下で本を読んでいる君を迎えに行こう。

 

「少し待っててくれ、クラウ」

 

 リオンは台所へナイフを取りに行った。

 

 そして再び寝室へ戻ってきたリオンは、クラウディアのそばに横たわり、両手でナイフの柄を握って自分の胸を──

 

 突き刺すことを躊躇った。

 

 なぜならば、音がしたからだ。

 

 リオンが音のした方を見ると、そこにはシーラが佇んでいた。

 

 瞳がやけに黄色い。

 

 まるで満月のようだとリオンは思った。

 

 ・

 ・

 ・

 

「シーラ」

 

 リオンは静かにシーラの名を呼ぶ。

 

 シーラは答えない。

 

 あの日以前は、名前を呼べば喉を鳴らしながらやってきたというのに。

 

 まるで犬のようにしっぽを振りながらやってくるものだから、リオンなどは「お前は本当は犬で、猫のふりをしているんじゃないのかい?」などと大真面目に問いかけたりもしていた。

 

 そんなリオンとシーラを、クラウディアは眩いものを見るような目で眺めていたものだった。

 

 しかしあの日を境に、シーラはリオンやクラウディアの呼びかけに答えることはなくなっていた。

 

 寝室の入り口に佇み、リオンを見ている。

 

 あるいはクラウディアを。

 

 シーラの体から腐った肉の臭いが寝室へ広がるが、今この時ばかりはリオンはその臭いが全然不快ではなかった。

 

「シーラ、お前はシーラなのか。本当に?」

 

 今度のリオンの声にはどこか懇願のようなものが滲んでいた。

 

 もし本当にシーラがシーラならば。

 

 ()()をしても、シーラのままならば。

 

 ──クラウ、君もクラウのままでいられるっていうことじゃないか。

 

 ()()をすることを心に思い浮かべたその瞬間、シーラがあの日以来初めてリオンの呼びかけに鳴いて答えた。

 

 まるで「私はシーラだ」と答えているようなタイミングで。

 

 しかし、リオンはシーラの鳴き声を聞かなかったことにした。

 

「シーラか?」と尋ねた時に応えてくれたのだから、喉の奥からごぼりごぼりと水が湧き出ているような、そんな不気味な声は些細なことだと思ったからだ。

 

 リオンの頭の中に、ジャハムの声が響く。

 

 ──前にも言ったが、時間が重要らしい。オジーは時間をかけすぎた。遅かったんじゃ。少なくとも……コトリの奴はそう言っておった

 

~~~

 

 ◆

 

 リオンはクラウディアの頭を抱き、自分の胸に押し付けた。

 

 鼻を頭頂部に押し付けて匂いを嗅ぐ。

 

 ──レディに対する行為ではないな。

 

 こんな状況だというのに、リオンはそんな馬鹿みたいなことを考える。

 

 クラウディアからは、当たり前の話だがクラウディアの香りがした。

 

 死臭は、腐った肉の香りはしない。

 

 まだ。

 

 ・

 ・

 ・

 

 風が強い夜なのだろうか。

 

 ひゅう、ひゅう、という音が聞こえる。

 

 ──いや、これは僕の息か。

 

 リオンはその場に立ち止まって深く息を吸い込んだ。

 

 乱れた息を整えているのだ。

 

 彼はどちらかといえば線が細く、ホラズム王国の王立学園に通っていた頃は体を動かすことを苦手としていたが、サルーム王国に来てからは随分体力がついてきている。

 

 それでも、人一人を背負って整えられていない道を歩くのは骨だった。

 

 少し休んだことで、ひゅう、ひゅうという音が止まる。

 

 ──僕は冷静なようでいて冷静じゃないのかもしれない。もしかしたら今この瞬間にも目を見開き歯を食いしばり、暴れ出そうとしているのを抑えているのかもしれない。

 

 リオンは自分の状態がよくわからなくなっていた。

 

 現実感がまるでない。

 

 ──ふ、ふふ。風と自分の息を聞き間違えるなんて。兄上が知ったらきっと呆れるだろう。王族らしく振舞え、なんてお説教をされてしまうかもしれない。

 

 少し気を抜けば、自分のそんな状態がどうにもおかしくなってしまい、大声で笑ってしまいそうだった。

 

 つまるところ、リオンは狂いかけていたのだ。

 

 しかし、背に感じる冷たい感触が彼をかろうじて正気につなぎとめていた。

 

 クラウディアの冷たい体が、寒い、寒いとリオンに訴えているように思えてならない。

 

 リオンは少し足を早めて、一歩また一歩とあの丘へ向かって歩を進めていく。

 

 森のどこかで鳥が鳴いた。

 

 甲高い、女が叫ぶような……いや、歌うような特徴的な鳴き声だった。

 

 情感がたっぷり込められたとてもとても悲しい鳴き声は、まるでリオンがこれからしようとしていることを知り、憐れ悲しんでいるかのようだった。

 

 ◆

 

 丘の上。

 

 リオンはどこか夢見心地のままに穴を掘っている。

 

 地面はやはりとても硬く、リオンは難儀した。

 

 特に今回はクラウディアを背負う以上、穴を掘るための道具を持っていく余裕がなかったため、その辺に落ちていた木の枝や石などを使って掘らなければならなかったというのも困難に拍車をかけていた。

 

 しかし、それはそれでいいのだ、とリオンは思う。

 

 頭の中でジャハムの声がする。

 

 ──もう少しじゃ。なかなか大変な道のりじゃが、これもまた祈りの一つの形。祈りは言葉ではなく所作に宿る……。

 

 この困難さが、何がしかの保証になっているような気がした。

 

 なぜなら困難が大きいということは、それだけ強く祈ることができているということではないか──と、リオンは思う。

 

 ──僕は強く、深く祈ることができている。なぜならこんなに大変なのだから。そして時間も経っていない。クラウディアを見つけてすぐにここへ来たのだから。

 

 まるで精霊がクラウディアを正しく生き返らせるためにお膳立てを整えてくれているようで、リオンは笑みさえ浮かべながら地面を掘り続けていた。

 

 ぱきりと音がする。

 

 先ほどまで掘るために使っていた枝が折れた音だ。

 

 リオンは折れた枝をしばし眺めるが、代わりの枝なり石なりを拾いに行こうとはしない。

 

 代わりに、爪と指で地面を掘り始めた。

 

 ・

 ・

 ・

 

 どれほどの時間が経っただろう、穴を掘り終えた時、リオンの爪は全て剥がれ、何本かの指が折れていた。

 

 しかし、リオンは満足げな様子だ。

 

 クラウディアを抱きかかえ、穴の底に横たえる。

 

 そして土を戻していく。

 

 クラウディアの顔に土をかぶせる直前、リオンはクラウディアの唇に接吻を落とした。

 

 そこでふと思ったのだ。

 

 ──クラウディアをこんな風にしたのは誰だ?

 

 と。

 

 やるべきことを全てやり終えたからこそ、初めてそれが湧く余裕ができた。

 

 リオンという青年が生まれて初めて抱く感情。

 

 即ち、憎悪である。

 

 ◆

 

 時を同じくして、エドワードは手下の男たちから話を聞いていた。

 

 リオンの様子、そしてその成長ぶりを聞くと、自身の内にほの暖かい何かが湧いてくるのを感じる。

 

 周囲の者たちはエドワードのことを完璧だと思っている節があるが、彼は彼で苦労をしていた。

 

 確かに昔からエドワードはやろうと思ったことは何でも完璧にやってのけていたが、ただ一つ、やろうと思ってもなかなかできないこともあった。

 

 彼にはどうにも人の気持ちがわからないのだ。

 

 まあ、人の気持ちなど本当の意味で完全にわかるものなどいないが、それでも多くの者はある程度の推察ができる。

 

 自分ならこれをされたら嫌だから、他人もきっとこれをされたら嫌だろうというような。

 

 しかしエドワードの場合は、まず最初にメリットとデメリットがあり、これをされたら嫌かもしれないが、メリットの方が上回るから問題ないだろうという風に考えてしまう。

 

 リオンに対しての振る舞いもそうだった。

 

 リオンが周囲の者たちから無視され侮蔑されていることは知っていた。

 

 しかし、それはリオンが王族らしく振る舞えないことが原因だ。

 

 さらにリオンには王族らしく振る舞う義務もある。

 

 できないことなのだからできるように努力するのは当然で、できるようになったならば、それまでリオンが受けている侮辱の類も消えてなくなるだろう。

 

 また、王族らしく振舞うことができるようになるというのは、リオンにとって大きなメリットとなるだろう。

 

 だからいくらリオンが困っていようと、自分が手を出すというのは合理的ではない──と、エドワードは考えていた。

 

 それでも事あるごとにエドワードがリオンに小さな助け舟をよこしていたのは、家族だからだ。

 

 彼も彼なりにリオンの気持ちを理解しようとはしていた。

 

 うまくいっていたとはあまり言えないが。

 

 ともあれ、今はそれよりも大事な話がある。

 

「リオンの事はもうよい。それで、なぜリオンが出奔したのか分かったというのだな」

 

 エドワードに、男の一人が頷く。

 

「は。フェルナン公爵家で不穏な動きがありますれば」

 

「リオン殿下と関わりがあった者たちを洗いました。そうして分かったことは、フェルナン公爵家の次女イザベラが関係しているものかと」

 

「リオン殿下に直接策謀を仕掛けたわけではないようです。しかし、リオン殿下が懇意にされていた女子生徒を……」

 

 次々と並べ立てられる情報を聞いて、エドワードはわずかに眉を動かした。

 

 どれもこれもが、言ってしまえば大したことがなかったからだ。

 

「つまるところ、弟の婚約者が弟にまとわりつく平民の女を煩わしく思い、それを排除しようとした。そしてそれを知ったリオンは自分の意思でその女と国を出奔した、ということか」

 

 弟が国を去った原因は、なるほど確かにイザベラにあるのだろう。

 

 平民とはいえ命を盾に脅迫するような真似は貴族として好ましいかといえば、これは否だ。

 

「ならば私ができることはあまりないな」

 

 こんなことでイザベラを罰することはエドワードにもできない。

 

 するだけの理由がない。

 

「この話はここで終わりだ」

 

 エドワードはそう口にするが、言葉尻が震えていることに自分でも気づかない。

 

 男たちは目を見開く。

 

 エドワードから発される圧は、リオンから感じたそれよりも当然だがはるかに大きい。

 

 感じ取れるイメージは、怒りというには生ぬるいほどの何かである。

 

 ここで初めてエドワードは自身が抱いている感情に気づいた。

 

 そして、なぜ急にそんなものが自分の中から湧いてくるのか困惑した。

 

 ──これは、なんだ。私はなぜこんな感情を抱いている。これは、私のものではない。私が抱く道理がない。では誰のものだ?

 

 そう、昔からエドワードはやろうと思ったことは何でも完璧にやってのけていたが、ただ一つ、やろうと思ってもなかなかできないこともあった──しかしそれはなかなか出来ないだけで、全く出来ないというわけではない。

 

 一度できるようになってしまえば、常人より遥かに上手くやってのける。

 

 たとえ「人の気持ちという複雑なものをもう少しちゃんと理解したい」というようなものであっても。

 

「……いや、撤回する。まだ終わりにはできないな。物事には始点と終点がある。我々が手に入れた情報はいわば始点だ。終点次第では、この話はここでは終わらぬ。終わらせぬ。……もう一度洗え、弟とその平民の娘を。そしてイザベラ公爵令嬢も」

 

~~~

 

 ◆

 

 殺され方にも格がある。

 

 王侯貴族が処刑される際にしかるべき手順を整えるのは、それだけ貴族という存在の格が高いからである。

 

 然るに、たかが平民の娘一人を殺すのに銘剣は必要ない。

 

 賤しい身分の者は卑しい刃で弑されるべきである──そうイザベラは考えていた。

 

 難易度的にも居場所さえ分かれば簡単な仕事であったし、その居場所にしたところで目途はついている。

 

 ・

 ・

 ・

 

「サルーム王国ね。あの雌猫がサルームの血を引いているなら、きっとあの国に逃げ込むはず。そうよね?」

 

「はい」

 

 ホドリック伯爵令息が答えた。

 

 イザベラとホドリックは布の一枚も纏っていない。

 

 つまり裸ということだ。

 

 ここはイザベラが用意した特別な屋敷で、二人の不義は概ねここで行われる。

 

 イザベラは跪くホドリックの後頭部を掴み、自身の中心へと強く押し付けた。

 

 ホドリックもイザベラから期待されている通りの行為を行う。

 

 それらが一通り済んだ後、ホドリックは顔をあげてイザベラの顔を見た。

 

 イザベラの形の良い顎がくいと上げられると、ホドリックは口を開く。

 

「ロミリアという義母の話によれば、あの平民の女の母親はサルーム王国出身の様です。リオン殿下には諸外国との伝手はありません。また、二人がしっかりと旅準備をすることなく出奔したと考えれば、サルーム王国しか選択肢はないでしょう。かの国は外国人も多く受け入れておりますからな」

 

「それで?」

 

 イザベラが促すと、ホドリックは続けた。

 

「こちらの手の者を送り込んでおります。といっても、万が一の時の為にお家に連なる者以外で選んでおりますが。勿論、リオン殿下の事は決して傷つけてはならない旨を厳命しました」

 

「うん、いいわね。私が許せないのはあの雌猫だから。リオンにはちゃんと立場を分かってもらいたいからね。そうそう、彼らが帰ってきたら分かってるわよね?」

 

「は。話を聞き、首尾を確認した後に処分いたします」

 

「分かったわ。それじゃあ続きをして頂戴」

 

 薄暗い部屋に、湿った音が響きわたる。

 

 ◆

 

 男たちは別に暗殺の名手というわけではなく、ごろつきに毛が生えたような者たちに過ぎなかったが、仕事自体は簡単だった。

 

 特に武芸の心得があるわけでもない女を夜陰に紛れて殺すなんて、文字通り赤子の手をひねるようなものだった。

 

 しかし、単純に見えることほど段取りが占める割合は大きいのだ。

 

 例えば、殺しの仕事のようなものは顕著だった。

 

 単なる殺しと殺しの仕事は似て非なるものである。

 

 前者はただ殺せばいいが、後者は足がついてはならない。

 

 対象をスムーズに殺害し、痕跡を消して逃げ延びる──そうするためには綿密に段取りを組まなくてはならない。

 

 それを怠るとトラブルが起きる。

 

 例えば、近所に住む老人が邪魔をしてきたりとか。

 

 ・

 ・

 ・

 

 ジャハムには()()()()がある。

 

 だから()()()()も分かるし、()()()()()()も分かっているつもりだった。

 

 ジャハムはしばらくリオンとクラウディアの家に注意を払っていた。

 

 シーラの存在があったからだ。

 

 シーラに()()を施す際には、旧友のコトリの忠告に従い、なるべく素早く時間をかけないようにしたものの、結果について完全な自信があるわけではなかった。

 

 だからいざという時は、自分が悪者になる覚悟を決めていた。たとえそれでリオンやクラウディアから恨まれたとしても、シーラがオジーと同様に変わってしまっていたら──

 

 ──儂がシーラのお嬢ちゃんを殺す。

 

 そんなつもりでいたのだ。

 

 そして還って来たシーラは、やはり生前のままとは行かなかった。ただ、オジーのように元の穏やかな性格が一変し、狂ったように暴れまわるといったことはないようだった。やはり時間が重要だったのだ、とジャハムは安堵するが、シーラには今後も注意を払っていくつもりだった。

 

 しかし、そんなジャハムの慎重さが彼にとって仇となる。

 

 ある晩、ジャハムはテラスに置いてある木製のチェアに座って夜酒を嗜みつつ、リオンたちの家を眺めていた。もしシーラが夜抜け出し、何か穏やかならぬ振る舞いを見せたとしたら──

 

 ジャハムは腰に佩いた鉈を見遣る。果たしてそこで見つけたのは、シーラではなく怪しげな男たちであった。身を潜める努力はしているようだったが、素人臭さが抜けていない。遠目からでもジャハムの目には男たちが暴力的な気配をまとっていることが目に取れた。

 

 ジャハムは再び鉈を見て、立ち上がった。

 

 ◆

 

 声を潜めても、その暴力的な気配は隠しきれない。

 

 男たちの声は夜陰の中、興奮の色を漂わせつつ交わされていた。

 

「楽な仕事だったな」

 

「ああ、首を掻っ切ってやった!」

 

「殺す前に楽しんでも良かったんじゃないか?あ、あの体ならよ、死んでたって突っ込み甲斐があるってもんだ」

 

「時間がなかったから仕方ねえよ、それに邪魔も入った」

 

「あの爺さんか。こんな夜遅くに何をしていたのかねえ」

 

「クソが!あの爺、俺の指を噛みちぎりやがった!痛ぇ、痛ぇよ……」

 

「我慢しろ。戻ったら指一本には高すぎるほどの報酬が待ってるんだ」

 

「ところで死体だけどよ、女の死体は坊ちゃんに見つけさせるようにするんだよな。でも爺さんはあれでよかったのか?」

 

「さっきも言ったが時間がねえんだ。あれじゃあ野犬か何かに掘り返されちまうだろうが……仕方ねえよ」

 

~~~

 

 ◆

 

 リオンは先ほどまで精神を真っ黒に染めていた憎悪が、次第に抜け出していくのを感じていた。

 

 憎悪が摩耗していったのではない。

 

 他に宿るべき場所があるとでもいう風に、するりと抜けていったのだ。

 

 それに、憎いは憎いが、今一番大切なことを見誤るわけにはいかなかった。

 

 一番大切なこと、それはクラウディアを待つこと。

 

 クラウディアが帰ってきたら、「お帰り」と迎えてやること。

 

 ・

 ・

 ・

 

 リオンは彼にしては珍しく木杯に酒を満たし、食卓に向かっていた。

 

 空はまだ暗いが、辛抱強く待つつもりだった。

 

 やがて夜が明け、朝が来る。

 

 太陽が真上に登っても、未だに待ち望んでいることは起きない。

 

 ──まさか、失敗したのか?

 

 そんな考えが頭をよぎると、張り詰め、かろうじて形を保っていた精神がバラバラに砕け散ってしまうような気がした。

 

 ブルブルと手が震え、足がカタカタと揺れる。

 

 太陽が傾きだし、夕暮れが訪れた。

 

 クラウディアは来ない。

 

 ・

 ・

 ・

 

 どんなこともうまくやろうとすれば、準備が必要になる。

 

 殺すにせよ、生き返らせるにせよ。

 

 そして準備とは時間がかかるものだ。

 

 人間は複雑だ。少なくとも犬猫よりは。

 

 そのあたりのことを、本来ならジャハムが説明すべきではあった。

 

 彼の友人であったコトリから得た知識にはそのこともあったのだから。

 

 しかし、ジャハムは説明するつもりはなかった。

 

 犬や猫だから、ジャハムはリオンに精霊の森のことを教えたのだ。

 

 もしあの時、クラウディアが馬車に引かれたとしたら、その時は教えなかっただろう。

 

 なぜなら、もし最悪の結果となった時、自身では責任を取りきれないと思ったからである。

 

 ◆

 

 そして夕暮れが過ぎゆき、夜が訪れた。

 

 リオンはただその時を待っている。

 

 待つこと以外、何もできないからだ。

 

「空っぽか」

 

 乾いた酒杯を見遣り、リオンが呟く。

 

 注ぎ足そうとしたが、やめた。

 

 酒瓶にはせいぜい一杯、二杯程度の量しかなかったからである。

 

 せっかく飲み干すのなら、クラウディアと一緒に飲みたかったのだ。

 

 ・

 ・

 ・

 

 やがて、その時が来た。

 

 夜の静けさに、何かを引きずるような音が聞こえる。

 

 何かを引きずる音は、どんどん近づいてくる。

 

 ◆

 

 音が聞こえなくなる。

 

 立ち止まっているのだ、とリオンは思った。

 

 このまま待っているか、それとも扉を開けて迎えるべきかとわずかに逡巡していると、ギイ、と扉が開く音がした。

 

 そして──

 

 ──リ、オン

 

 ごぼり、ごぼりと液体が泡立つ様な音に混じって、クラウディアの声が、あれだけ聞きたかった声が聞こえてきた。

 

 戻ってきたのだ。

 

 帰ってきたのだ。

 

「僕のために、還ってきてくれたんだね」

 

 リオンは嬉しそうに呟いて、後ろを振り向く。

 

 果たして其処には、リオンが期待していたようにクラウディアの姿があった。

 

 記憶にあった姿とはまるで違っていたが、リオンはゆっくりとクラウディアに向かって歩み寄っていく。

 

 ──リィィィィ、オオォン

 

 ぼろりとクラウディアの眼球が零れ落ちた。

 

 黄色く変色し濁ったそれは、リオンの目にはまるで満月のように見える。

 

 ──黙って抱きしめるべきか、それとも愛していると囁いて抱きしめるべきか。

 

 リオンはそんな事で少しだけ悩み、やがて笑みを浮かべて「なんて幸せな悩みなんだろう」と嬉しくなった。

 

 ──決めたぞ、僕は

 

 リオンはクラウディアを抱きしめ、接吻をし、その後で愛していると囁こうと思った。

 

 だからまずは、抱きしめる。

 

 泥で汚れたクラウディアの体を強く、強く抱きしめる。

 

 そして接吻をした。

 

 腐った肉の臭いが鼻から入り込むが、リオンには全く気にならない。

 

 長い接吻の最中、クラウディアは身じろぎ一つしなかった。

 

 唇を離すと、クラウディアの口元からごぼりと音がする。

 

 喉に大きな裂傷があるのだ。それでは声を出すのは難しいだろう。

 

「クラウ?」

 

 何か話したいことがあるのかと気遣わしげにリオンが問いかけると、クラウディアはゆっくりとした動きでリオンを抱きしめた。

 

 そして耳元で

 

 ──私を、殺して

 

 と囁いた。

 

 ◆

 

 クラウディアを愛していたリオンにはよく分かった。

 

 今目の前に立つクラウディアが、心の底からそう言っていることを。

 

 クラウディアの望みを拒否することが彼女を絶望させることを理解した。

 

 今この瞬間にも、クラウディアの体からクラウディアの一部がぼとぼとと床へ落ちていっているのだ。

 

 愛する男にそんな姿を見せたいと思う女が一体どこにいるだろうか?

 

 リオンは一瞬泣きそうな顔になり、そして小さく頷いて台所へと向かっていく。

 

 リオンは台所で目的のものを二振り見つけ、食卓へと戻った。

 

 クラウディアは変色した……今はもう一つしかない瞳でリオンを見つめている。

 

 そんなクラウディアにリオンは一歩、また一歩と近づいていく。

 

 両の手に肉切り用の短刀を携えて。

 

 ・

 ・

 ・

 

「僕の手でそうしてほしいと思っているのがわかるから、クラウ、君を殺すよ」

 

 そう言ってリオンはクラウディアの首元に刃をあてがった。

 

 そして空いた手でクラウディアの手にもう一振りの短刀を握らせる。

 

「君も、僕の気持ちがわかるはずだ」

 

 リオンがそう言うと、クラウディアは一瞬後ずさりしようとしたが、すぐにその場に留まった。

 

 リオンを愛していたクラウディアにはよく分かったからだ。

 

 今目の前に立つリオンが、心の底からそう言っていることを。

 

 リオンの望みを拒否することが彼を絶望させることを理解した。

 

 次の瞬間──

 

 愛してるよ、とリオンは言ってクラウディアの首を掻き切った。

 

 それとほぼ同じタイミングで、クラウディアの唇が愛の形を取ってリオンの首を掻き切った。

 

 ・

 ・

 ・

 

 空では月が翳り、夜陰はますます濃くなった。

 

 リオンとクラウディアの家の、その食卓──二人の死体が重なる様にして倒れている。

 

 そんな二人の死体に近づく小さい影があった。

 

 シーラだ。

 

 猫は黄色く濁った眼で二人を見つめ、にゃあと一声鳴いてその場に蹲った。

 

 そして二度と動かなくなった。

 

 ・

 ・

 ・

 ・

 ・

 ・

 ・

 ・

 

 夜より昏いどこかをリオンは歩いていた。

 

 歩けど歩けど先は見えない。

 

 どこまで歩けばいいのか、いつまで歩けばいいのかリオンには分からなかった。

 

 周囲に視線を向けると、自分と同じ様に歩いている影が見えた。

 

 影はいくつもあり、みな何処かへ向かっているようだ。

 

 もうどれ程歩いただろうか?

 

 リオンは疲れ切っていたが、一たび足を止めればそこで自分がどこかへ行ってしまう──巡ってしまう事が感覚的に理解できた。

 

 そうはいかないのだ。

 

 一人で巡ってしまうわけにはいかない。

 

 もし休みたいなら、せめて自分が自分でいられる場所で、安心できる場所で休まなければならないという思いがリオンにはある。

 

 時間の感覚もないまま足を動かしていると、やがて前方に何かが見えた。

 

 木である。

 

 ──ここだ

 

 リオンはそう思った。

 

 ここでなら安心して休めると感じた。

 

 リオンが木へ近づいていく。

 

 何の変哲もない木だが、それには見覚えがある。

 

 そして、その木の下で佇む女性にも。

 

 リオンは何も言わずに女性に近づき、抱きしめた。

 

 女性は少し驚いたようだったが、相手がだれかわかると安心したようにリオンに体を預けてくる。

 

 ──シーラはもう少し先かしら

 

 そんな囁きにリオンも返事を返した。

 

 ──そうだね。きっと家で待っていてくれてるんだろう。ジャハムさんもいるかもね。それと

 

 ──なぁに?

 

 ──愛してる

 

 ──それはさっき聞いたわ

 

 そうか、とリオンは女性の──クラウディアの手を握り、二人は昏いどこかを歩き去っていった。

 

~~~

 

 ◆

 

 エドワードが自分の手の者たちにイザベラの動向を初め、弟リオンのことを再度調べ直させた際、当然サルム王国にも再び調査の手が及んだ。

 

 もちろん、いきなりリオンとクラウディアの家を訪問したりはしない。

 

 ある程度、遠巻きに様子を伺うつもりだった。

 

 しかし、待てど暮らせどクラウディアもリオンも家から出てこない。

 

 さすがにおかしいと思ったのか、調査隊はリオンの不評を買うことを覚悟して二人の家の扉を開いた。

 

 そこで見たものは──

 

「リ、リオン殿下……こちらの娘は、うっ!」

 

 調査隊の男の一人は、吐き出すまいと口を押さえた。

 

 彼らが見たものは、二人と一匹の死骸だった。

 

 しかし、その状態は尋常ではない。

 

 特にクラウディアと思われる死体の損傷は非常に激しく、肝が太い調査隊の男たちといえども、直視できないほどの痛々しい姿だった。

 

 ──なぜ、このようなことに……あの老人が何か知っているのか? 

 

 調査隊は当然、リオンたちがジャハムと呼ばれる老人と交流があったことを知っている。

 

 早速手の者を向かわせると──

 

「いない? ……いや、これは」

 

 家の中には誰もいなかったが、男たちは目ざとくジャハムの家の前からリオンとクラウディアの家の方へ足跡が伸びていることに気づいた。

 

 足跡を追ってみると、とある場所で複数の足跡が入り乱れ、地面が荒れていた。

 

 そこで争いが起きたことを予想するのは難しくない。

 

 そして、ならず者の一団の雑な仕事を看破することも。

 

 ・

 ・

 ・

 

「このことは急ぎエドワード殿下へ伝えなければならない」

 

「分かっている。だが、この娘はどうする?」

 

「平民だが、リオン殿下の思い人だ。一緒に運ぼう……くそ、臭いが酷いな」

 

「サルム王国では朝が早い。人気がないうちに済ませるぞ」

 

「猫は?」

 

「……猫もだ」

 

 ・

 ・

 ・

 

 そしてリオンたちは、男たちの手によって運び出され、ホラズム王国へと帰ったのである。

 

 ◆

 

 王族が眠る霊廟は王城の裏手、静かな森に囲まれた小高い丘の上に佇んでいる。

 

 リオンとクラウディア、そしてシーラは、王家の霊廟の傍、森の中につくられた小さな墓に葬られた。

 

 リオンを霊廟に葬らなかったのは、王家としての判断ではなく、家族としての判断による。

 

 ・

 ・

 ・

 

『父上、母上。リオンを殺したのは私たちでもあるのです。私たちは王族としてのリオンしか見ようとしなかった。結果的に、それが弟を追い詰めることになったのでしょう。しかし、私は王族として生まれたからには、王族として生きねばならない事も知っています。そして、王族として生きるためには相応の立ち居振る舞いが必要であるという事も。リオンにはそれが出来なかった──だから逃げた。ここまでは良い。ですが……』

 

『言うな。分かっておる。リオンが王族でなくなったならば、残るものは血よ。我々はリオンを家族として見なければならなかった。儂の過ちじゃ。とんだ愚王であった……』

 

 王妃は鎮痛そうに俯くばかりだ。

 

『……できる事をしましょう。まずは彼らを手厚く葬るのです。安らかに眠る事が出来る場所へ』

 

 エドワードが言うと、王と王妃は頷いた。

 

 ふと思い出した様に、王妃が言う。

 

『そういえば、あの子は樹々や花といったものが好きでした。幼い頃は、王族としての教育が始まる前は、よく王宮の植物園に一人で……』

 

 ◆

 

 ある日、リオンたちが眠る墓を訪れる者がいた。

 

 リオンの兄、エドワードである。

 

 エドワードは、これまで覚えたことがない奇妙な感情を持て余しつつ、リオンたちが眠る墓を見つめていた。

 

 ふと過日の出来事を思い出す。

 

 それは、エドワードが王立学園に通っていた頃、旧友であった青年が嬉々として見せてきたとある実験のことだ。

 

 ・

 ・

 ・

 

「この石、蒼奇石っていうんだけれど、できるだけ青味が強いものがいいね……えっと、これにこの粉をふりかける……そして、水を注ぐと……」

 

 大きめの硝子の器に入れられた石が、水が注がれた途端に青い火花を散らしはじめた。

 

 火花はエドワードが見ている間にも、ますます勢いを強め、ほんの一瞬、宙空に青い薔薇にも似た何かを形どって消えていく。

 

「錬金術というやつか」

 

 エドワードは珍しく瞳に興味の色を宿し、青年に尋ねた。

 

 青年は頷き、エドワードにも一度では理解できないような説明を長々とし始める。

 

 それに対して気を悪くする様子もなく、エドワードは「もう一度できるか」と問いかけた。

 

「それもいいけど、他にも見て欲しいものがあるんだ」

 

 そういうと、青年はエドワードに次々とまるで魔法のような現象を見せていく。

 

 目の前の現象が次にどのように変じていくのか、エドワードは飽きずに青年のやることを見守っていた。

 

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 その時と同じである。

 

 エドワードは強い好奇心を持って、自身の精神の変容を観察していた。

 

 彼の精神の変容──人は例えるならば炎だった。

 

 赤々とした炎が少しずつその色を変えていく。

 

 赤から黄色へ、黄色から白へ、そして白から青へ。

 

 最後には、黒へと。

 

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 ◆

 

 イザベラが異変に気付いた時は、何もかもが遅きに失していた。

 

 彼女に何も用意をさせないようにエドワードが手配をしたのだから、当然と言えるのだが。

 

 それに、そもそも災いとはそういうものなのだ。

 

 人間という卑小な存在は、大いなる災いの前では無力に等しい。

 

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 その日の朝早く、フェルナン公爵邸に王家の憲兵隊が訪れた。

 

「訪れた」という表現は生ぬるいかもしれない。

 

 敢えて言うならば「強襲」だろうか。

 

 公爵家の者たちは皆、まだ眠っている時間帯だ。

 

 公爵もその家族も、これから起き出して各々朝の執務を開始したり学園に通ったり、あるいは社交に励んだりする。

 

 つまり、この時間帯ならば皆公爵家に滞在しているということだ。

 

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 憲兵隊は物々しい武装で身を固め、厳しい表情で邸内に足を踏み入れていった。

 

 公爵邸には多数の警備兵がいたが、いずれも力ずくで制圧されるか、自ら投降していく。

 

 警備兵はフェルナン公爵家に仕える者たちである以前にホラズム王国に属する者なのだ──王国の象徴たる王家の威光を掲げられては抗する術を持たなかった。

 

 憲兵たちはイザベラを含めた公爵家の者たちを次々と拘束していく。

 

「公爵家に配慮する必要はない。老若男女、すべての者を拘束せよ。抵抗する者に対しては武力の行使も許可するが、決して殺害してはならない」

 

 憲兵たちを指揮するのはアルパイン・キスティス憲兵隊長である。

 

 背は高いが痩せぎすの男で、圧はない。

 

 しかし、両の目に漲る精気はアルパインに異様な凄みを与えていた。

 

「何をする! おい貴様! 一体何の権限でこんなことを!」

 

 激昂したフェルナン公爵がアルパインに怒声を浴びせるが、浴びせられた方は全く動じない。

 

 アルパインの視線を受けたフェルナン公爵は、それ以上居丈高に詰め寄ることができなくなってしまう。

 

 フェルナン公爵はアルパインの姿に錆びた槍を幻視したのだ。

 

 一見鈍らに見えるその槍先は、突き刺されば傷口から冷たい死の風を吹き入れる。

 

 そうなれば風はたちまちに全身をこわばらせ、やがて息も出来なくなり死に至るだろう──そんな不穏さが、このアルパインという男にはあった。

 

「フェルナン公爵家にはリオン殿下殺害、及び、エドワード殿下に対する叛逆容疑がかけられております。どうぞご抵抗なさらぬように。たとえフェルナン公爵といえども、抵抗すれば容赦はするなとエドワード殿下より言いつかっております」

 

 フェルナン公爵はアルパインの言葉に表情を硬くした。

 

 これには二つの理由がある。

 

 一つ、リオン殺害など考えもしていなかったため。公爵家はリオンを利用するつもりはあったが、殺すつもりはさらさらなかった。死んでしまっては神輿として担げないではないか。

 

 二つ、リオン殺害こそ考えてはいなかったが、エドワードはいずれ排除しようとしていたため。第一王子エドワードの存在がある限り、リオンが王位に就くことはない。そう考えている貴族たちはそれなりにおり、フェルナン公爵家はその筆頭だった。

 

 ◆

 

 公爵邸の二階の一角にイザベラの私室がある。

 

 彼女の私室は公爵邸二階の一角に位置し、王都の流行の最先端を行くデザインの家具が並び、床には分厚い絨毯が敷かれていた。

 

 朝早くということもあり、室内には夜の残り香が多分に漂っている。

 

 イザベラはそんな眠りを誘う夜気に包まれ、気持ちよさそうに眠っていた。

 

 悪華を思わせる彼女も、寝ている時はまるで花の精霊のように麗しい。

 

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 それから少し時間が経つと、夜の終わりを告げるようにかすかな物音が階下から響いてくる。

 

 音は次第に大きくなり、そればかりか暴力的な圧を伴い始めた。

 

 イザベラを包んでいた夜気のヴェールは野卑な音の前に切り裂かれ、彼女は寝台の上でゆっくりと体を起こした。

 

 ──騒がしいわね

 

 まだ半分夢の中にいるようなぼんやりとした意識の中で、イザベラは呟いた。

 

 彼女は手元にある鈴を鳴らし、メイドを呼びつけようとする。

 

 しかし、返事はない。

 

 階下の音はさらに大きくなり、人の叫び声が混じる様になっていた。

 

 イザベラの胸中に不安の黒雲が広がっていく。

 

 外で何か異変が起きているのは明らかだった。

 

「何なのよ……」

 

 不安を誤魔化すように呟くイザベラ。

 

 しかし、複数の足音が部屋に近づいていることに気付くと、次第に彼女の呼吸は浅く、そして吸気は深くなっていった。

 

 足音は部屋の前で立ち止まり、乱暴なノックが数度響く。

 

「憲兵隊だ! イザベラ・セレ・フェルナン! リオン殿下殺害の咎で貴様を拘束する!」

 

 扉の外から聞こえてくる声に、イザベラは目を白黒させた。

 

 ──どういうこと!? 

 

 本心からの驚愕だ。

 

 雌猫を駆除した覚えはあったが、飼い犬をそうした覚えはない──それがイザベラの偽らざる思いである。

 

 ともかくイザベラにはリオンを殺した覚えも動機もないのだから、彼女はその心のままに扉の向こうの相手にそう伝えた。

 

「私は殿下を殺害なんてしていないわ! どういう事なの!? 何がどうなっているのか事情を説明して頂戴!」

 

 その問いに対しての返答はなく、代わりに扉が何かによって激しく叩きつけられる音が何度も何度も響いた。

 

 イザベラは咄嗟に背後の窓を見た──逃走の二文字が彼女の脳裏をよぎる。

 

 素直に投降して果たして無事で済むものかどうか。

 

 憲兵たちが公爵邸に仮借なく踏み込んできているところを見ると、真偽はともかくある程度の証拠は握っているということになる。

 

 彼女が優れている点の一つに、取捨選択の判断が早いことが挙げられた。

 

 二階から飛び降りて怪我をしないかどうかなどという些末な問題は考えもしない。

 

 飛び降りてどうするのか──身を隠せる場所に向かう。

 

 身を隠せる場所とは──例えばホドリック、あるいはその他の男の誰かの元。

 

 身を隠してどうするのか──息のかかっている貴族の力を借りて、弁明の機会を得る。

 

 ──二階だけど仕方ないわね

 

 ◆

 

 この間の決断に数秒もかからなかった。

 

 イザベラは窓に向けて走り出すが、すぐに顔色を変える。

 

 地上──中庭にはすでに憲兵と思しき人影がいくつもあったのだ。

 

「本ッ当……なんなのよ……」

 

 イザベラの声には、怒りと焦燥が多分に滲んでいた。

 

 ◆

 

 拘束されたイザベラをはじめ、フェルナン公爵家の面々は護送用の馬車にそれぞれ放り込まれた。

 

 馬車は黒く、いかにも不穏な気配を漂わせている。

 

 王城へと向かう最中、フェルナン公爵家の者たちは誰かと何かを話すことすらできなかった。

 

 自由に身動きできないように両手は束縛され、馬車の中には憲兵が一人だけいて一挙手一投足を監視している。

 

 この憲兵は、何を話しかけられても一切何も答えない。

 

 しかし、馬車の扉に手をかけたりでもしようものなら、まるで雷のように素早く、激しくその手を打ち据えてくる。

 

 フェルナン公爵は無礼を働かれているという怒りよりも、今自分たちがこのような扱いを受けているという事実に震えた。

 

 ──ま、まさかエドワード……。なぜだ、私はまだ何もしていない。確かに反エドワードという色がにじんでいたかもしれぬ。しかし、まだ何もしていないのだ。リオンを殺した? ふざけるな! そんな事はしていない……いや、まさか……

 

 フェルナン公爵の脳裏に、娘であるイザベラの姿が思い浮かぶ。

 

 しかし、すぐにその想像を打ち消した。

 

 ──イザベラは賢い子だ……。セレネなどとは比べ物にならない程に。利用価値があるリオンを殺すような事はしないはず

 

 セレネとは、イザベラの姉であり、エドワードの婚約者でもある。

 

 大人しく、そして美しい。しかし愚かな娘──そうフェルナン公爵は思っている。

 

 ──セレネは馬鹿ではない。しかし肝心なモノに欠けている。その点、イザベラにはそれが備わっている。だからこそ、リオンを始末したりはしない。奴に利用価値が残っている限りは

 

 それとはつまり、野心である。

 

 大人しく美しく、そして賢いセレネは、フェルナン公爵家に相応しくないというのが彼の見立てであった。

 

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 確かにセレネ・セレ・フェルナンには野心はない。

 

 エドワードやリオンをどうにかしようという気などは毛頭なく、自分に求められている役割を自分なりにこなそうと考えているだけの女ではある。

 

 しかし、それでも貴族なのだ。

 

 ◆

 

「セレネ、話がある」

 

 フェルナン公爵家を強襲させる前に、エドワードは婚約者であるセレネを呼び出して話をしていた。

 

 どんな話かといえば、詰まるところ自分が考えていることのそのほとんどである。

 

「異存はありませんわ」

 

 セレナが返した反応はひどく淡白なものだった。

 

「陳情があれば聞く。イザベラ以外のものに限るが」

 

「では、お母さまには温情を。あの人は私に似ております」

 

 エドワードはそれを聞いて短く頷く。

 

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 ただこれだけのやり取りで、フェルナン公爵家の取り潰しが決まった。

 

 エドワードは捕らえた男たち──下手人たちからすでにイザベラの策謀を聞いている。

 

 男たちはリオンを殺した直接的な原因ではないものの、そんな事はエドワードには関係なかった。

 

 結果的にリオンが死んでしまったという事実が重要だった。

 

 フェルナン公爵やその家族については、ついでのようなものだった。

 

 単純に反エドワードという意思を抱いている時点でいずれ処分するつもりだったが、公爵家には大きな利用価値があることを考慮してそれまで泳がせていただけだ。

 

 フェルナン公爵は確かに何も実行に移してはいなかったものの、反エドワードひいては反王家の二心を抱き、それを他の者と共有することは十分対象となる。

 

 エドワードの感覚としては、一つの大きなゴミを捨てるついでに他のゴミも捨てておこうくらいのものである。

 

 単純に公爵家の力が強いといった障害はなくもなかったが、エドワードは周囲から次々と切り崩し、公爵家強襲の時にはすでにかの家を擁護する貴族家は一つもないといった状況だった。

 

 本来ならば非常に時間がかかるこの工程を、エドワードは電撃的な速度でやってみせた。

 

 はっきり言って、非現実的な効率の良さだ。

 

 心でも読めなければ、そんなことはできないと言えるほどに。

 

 だが、セレネという女にとってはどうでもよい話であった。

 

 今の自分はエドワードの妻であり、それ以上でもなくそれ以下でもない──そう彼女は考えている。

 

 生家に対する想いが何もないわけではないが、それも優先順位の問題である。

 

 エドワードの意思が()()ならば、彼女の意思も()()

 

 貴族の女としての冷たい割り切りが彼女にはあった。

 

 フェルナン公爵が知らない彼女の側面である。

 

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 ◆

 

 捕らえられたイザベラは、両手を拘束されたまま王城の地下へと運ばれていった。

 

 この時点でイザベラは強い違和感を覚える。

 

 身分が高いからと言って、どんなことでもしていいわけでは当然ない。

 

 罪を犯せば捕らえられ裁かれる。

 

 しかし捕らえられると言っても、いきなり牢獄に叩き込まれるわけではない。

 

 北の塔と呼ばれる場所へ移されるのだ。

 

 そこに罪が確定するまで閉じ込められる。

 

 罪人が牢獄に行くか断頭台の露と消えるかは、犯した罪の重さによる。

 

 つまり公爵令嬢であるイザベラは普通なら北の塔に送られるはずだった。

 

 しかし現実はそうなってはいない。

 

 ──わたくしはどこへ連れていかれるの? 

 

 イザベラは自分がどこへ連れて行かれるのか確かめたかったが、それを確かめる勇気が出なかった。

 

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 ・

 

 王城地下回廊。空気は湿気ており、重苦しい。

 

 イザベラはまるで目に見えない何かに両肩を押されているような気がしていた。

 

 ともすれば膝が挫け、座り込んでしまいそうだった。

 

 一歩、また一歩と進むたびに、もう二度と帰れないどこかへと向かっているような気がする。

 

 これ以上進みたくないと思い踵を返そうとしても、護送の兵士たちがイザベラを引きずるように無理やり前へと進ませるため、立ち止まることすらできない。

 

 ──昏いわ

 

 石張りの通路は最低限の灯りはあるが、それが余計に闇を濃くしているような気がする。

 

 兵士たちはイザベラが普通に歩いている分には何もしてこないが、少しでも足が鈍ると乱暴な所作で彼女に歩き続けることを強いる。

 

 生来気の強いイザベラではあるが、兵士たちの暴の気配に委縮してしまった様で文句の一つも言うことができない。

 

 そうしてしばらく歩き、やがてイザベラは錆だらけの鉄扉の前へと連れてこられた。

 

 途端、イザベラは総毛立つ。

 

 死神がその冷たく白い手を伸ばし、彼女の背骨を握りこんで撫で擦っている様だった。

 

 この先に行くくらいだったら断頭台の穴に首を納めた方がよほどマシに思える──それほどの強い忌避感。

 

 鉄扉はひたすら禍々しい。

 

 扉の向こうにこの世界のあらゆる厄が押し込められ、収めきれない厄が錆の形をとって表面に浮き出している様にも見える。

 

「嫌! この先にはいきたくない! 絶対入りたくない!」

 

 イザベラは暴れ出すが、兵士に頬を殴られて部屋に放り込まれてしまった。

 

 ◆

 

「痛ッ……」

 

 乱暴に放り投げられたイザベラは苦悶の声をあげる。

 

 しかし兵士たちは全く取り合わずに鉄扉を閉め、彼女を閉じ込める。

 

 ──何? この匂い……

 

 錆びた鉄と湿気を含んだ木材の香り──あるいは生い茂る夏草の下に隠れる乾いた死骸の残り香。

 

 一口に悪臭と言えるわけではないが、吸い込む空気の端々に()えた何かが混じっている。

 

 イザベラは顔をしかめ、とにかく状況を把握しようと周囲を見渡した。

 

 しかし部屋には明かりがなく、全く状況がわからない。

 

 部屋がどれだけ広いのかも分からない。

 

 音は、と言えばイザベラの荒い息遣いと仕立ての良い寝衣が擦れる音だけだ。

 

 両手が縛られたままなので身動きもままならない。

 

 ただ本能よりももっと奥深くの部分で察するものもあった。

 

 ──"ここに留まっていてはならない"

 

 そんな声に従うようにイザベラは立ち上がろうとするが──

 

「え?」

 

 体が重い。先ほど放り投げられた時、歩けないほどの怪我を負ってしまったのだろうか──そう不安になるが、それにしては痛みがない。

 

 投げられた時こそ痛みはあったが、今はもう収まっていた。

 

 ──違う、誰かが

 

 私の首に、手を当てている──イザベラがそう思った時、声が響いた。

 

「動くな」

 

 その短い言葉は電流となってイザベラの全身の神経を駆け巡り、身動き一つできなくなった。

 

 物理的にどうこうされたわけではなく、この声に逆らってはならないと感じたからだ。

 

 イザベラは今、手が拘束されているとか首を押さえつけられているとか、そういうこととは関係なく、ただ彼女の意思によって自発的に動きを止めている。

 

「改めて名乗るまでもないが、エドワードだ。弟のことで少し話がしたいと思っていた。手を取りなさい。ここの床は特別製だ、長く肌を触れさせていると肉を腐らせる」

 

 エドワードはイザベラの答えを待たずその手を取り打ち上がらせた。

 

 イザベラはやはり逆らえない。エドワードの言葉は波動となってイザベラの全身と全霊を支配し、抗いがたい強制力となって彼女を縛り付けている。

 

 だが一縷(いちる)の希望もあった。

 

 先ほどエドワードは何と言っただろうか。

 

 体を案じてくれてはいなかっただろうか。

 

 ということは本当に話がしたいだけで、ひどい目に遭うというようなことはないかもしれない。

 

 そう思った時、イザベラの瞳にある種の光が宿った。

 

 それは彼女が好む光だ。

 

 多くの者が彼女を見る時に瞳に宿す光。

 

 媚びの光である。

 

 ◆

 

「灯りをつけた。さあ、この椅子に座ってくれ。なに、少し座り心地は良くないが、イザベラ嬢に二心が無ければすぐに体を休められる場所へ連れていこう」

 

 その椅子は固く冷たく、背もたれには奇妙な突起があって体重をかけると痛みが走る。

 

 しかしただの一時も耐えられないという程ではない。

 

 イザベラは仕方なくその椅子に座ってエドワードを見た。

 

 椅子には肘掛けの部分と足首部分と腰が当たる部分のそれぞれから革の帯のようなものが伸びている。

 

 イザベラはその帯が一体何なのか測りかねていたが、すぐに使い方に思い立った。

 

 しかしその帯で自分がどのようにされるかを理解していながらも、やはり彼女はエドワードの言葉に逆らうことができない。

 

 そしてエドワードはイザベラが椅子に座るのを見届けると、彼女が想像通りにその帯で体を拘束してきた。

 

 やがてイザベラが身動きできなくなるとエドワードはそんなことはまるで粗末なことのように、気軽な様子で質問をする。

 

「さあ、話をしよう。イザベラ嬢、貴女は何をした? 答え、そして貴女の気持ちを聞かせてくれ」

 

 エドワードがそう言うと、イザベラの口は途端に軽くなる。

 

「エドワード様、わたくしはリオン様に何もしていませんわ! 信じてくださいまし!」

 

 イザベラは貴族の令嬢らしからぬ大声でエドワードに言い募った。

 

 対するエドワードは何も答えない。

 

 ただじっとイザベラを見つめている。

 

 まるで鉄の仮面をつけているようだとイザベラは思った。

 

 イザベラはこれでいて意外にも人の感情に敏である。

 

 しかしエドワードから何も感じないのだ。

 

 怒りも悲しみも何もかも。

 

 ・

 ・

 ・

 

「イザベラ嬢が直接弟を殺したわけではない事は知っている」

 

「そ、うですか。ではなぜわたくしはこのような……」

 

 イザベラは手首を気にするように視線を向けた。

 

「その革も特別製だ。長く触れていると皮膚がただれる。最初はかゆみを感じ、次に痛みを感じる。痛みはまるで何百本もの細く小さい針で突き刺されているような痛みだ。とはいえ初めのうちは耐えることは難しくはない。それから先は耐え難い苦痛となるが、今の所は大丈夫だ。ところでイザベラ嬢、先ほどの質問の答えだが私はそうは思わない。イザベラ嬢が直接手を下したとは思ってはいないが、無関係だとは思わない」

 

 エドワードの言葉はひどく断定的だった。

 

 さすがに抗議しようとするが、腰に鋭い痛みが走ってほんのわずかに身じろぎする。

 

 とはいえその体の挙動は非常に小さなもので、注意深く観察していたとしても気づくことは難しいだろう。

 

 しかしエドワードはイザベラが何を気にしたか知っているかのようにこんなことを言った。

 

「腰の部分の突起の位置、形状は体に最も負担をかけるように設計されている。このように硬い椅子に長く座っていれば背もたれに背を預けたくなることもあるかもしれないが、あまりおすすめはできない。最悪、2度と立ち上がることができないほど体を痛めてしまうだろう」

 

 エドワードはなおも続ける。

 

「これは今より少し前の話になるが、私は純粋にイザベラ嬢の気持ちが知りたいと思っていた。弟に何をしたのか、その決断に至った原因は何か。結果は過程が形作るが、過程はもっと細かい要素から形作られる。私はその細かい要素を知りたかった。いつもいつもイザベラ嬢のことを考えていた。だから分かるのだ──貴女の気持ちが。相手のことを本当に想えば、なんとなく考えていることは分かってくるものだ。だからイザベラ嬢、今は私を想うといい。私のことを知りたいと心の底から願うといい。私が知りたいと思うことを話しなさい」

 

 ◆

 

 エドワードの態度は終始一貫していた。

 

 感情をあらわにして脅しつけたり怒鳴りつけたりといったことはない。

 

 しかしその態度がイザベラには恐ろしい。

 

 エドワードが何を考えているのかさっぱりわからないのだ。

 

 イザベラの中ではリオンに何かをしたという自覚はなく、あくまでもクラウディアという雌猫を駆除したにすぎない。

 

 そして貴族である自分が目障りな雌猫を秘密裏に処理することは罪ではない──彼女はそう考えている。

 

 しかし──

 

 ──もしかしてエドワード様はあのクラウディアという女を殺されたことについて怒っていらっしゃるのかしら

 

 これはイザベラの貴族観からするととてもありえないことだったが、それでもその可能性が当たって欲しいという強い思いが湧き出していた。

 

 というのも手首や腰の違和感がもはや耐えがたいものになっていたからだ。

 

 四肢の革が当たっている部分がただれて肉が露わとなっており、腰はわずかに身じろぎするだけでもひどく痛む。

 

「わたくしはリオン様に何もしてはおりません! しかしあのクラウディアという女、リオン様にまとわりつく忌々しい女は」

 

「あの男たちからも話は聞いている。殺したのはクラウディアだけだと。リオンには手を出していないと。しかし弟は死んだ。クラウディアという平民の女と寄り添うようにして死んでいたそうだ。そしてクラウディアの死体は通常考えられないほど傷んでいた」

 

「だ、だからと言って」

 

「二人の死体には首に大きな傷ができていた。調べさせるとその傷跡は二人が互いに握っていた短刀によってできたものだ。傷というのは案外に多くのことを私たちに伝えてくれる。例えばその傷が争いの最中につけられたものなのか、それとも自分でつけたものなのか。そういったことを傷のつき方、傷口の開き方などからわかる。結果わかったことは二人は互いに互いを殺したということになる」

 

「ではわたくしは無実ではありませんか!」

 

 イザベラが耐えかねたように叫ぶと、エドワードは小首をかしげた。

 

 まるでなぜ自分がそんなこと言われるのかまるで分かっていないというような風だった。

 

「有罪か無罪かの話はしていない。私は最初からただ質問をしていただけだ──弟に何をした、と。何もイザベラ嬢に罪があるとは一言も言ってはいない。しかし最初はどうも私の意図がわかっていないようだったから、弟がどのように死んでいたかをきちんと説明をした。それを踏まえてもう一度問う。貴女は何をした? そして貴女の気持ちを聞かせてくれ」

 

「一体……何を仰っているのか……うっ」

 

 イザベラが苦悶の声を上げる。四肢の、そして体の痛みは耐え難いほどになっていた。

 

「エドワード様、せめてこれを解いてくださいませんか……」

 

 そう懇願するがエドワードは何も答えない。

 

 彼はただイザベラに視線を注ぎ続けている。

 

 ・

 ・

 ・

 

「わ、わたくしは何もしていない!! リオン様を殺していない!! 殺したのはあの雌猫だけです!! 何が悪いのですか! リオン様はわたくしという婚約者がありながら、あのような……あんな女を!!! 傍に置いて!! わたくしは良い笑い者ではありませんか!!」

 

 この時、イザベラの様子はもはや半狂乱といった体で叫び、暴れていた。

 

 拘束されてからどれほどの時間が経っただろうか、彼女の両の手首と足首に皮膚はなく、革が肉に食い込んでいた。

 

 全身から流れる脂汗の量は彼女が現在どれ程の苦痛に苛まされているかを如実に示している。

 

「そうだ、イザベラ嬢は弟を殺していない──そう貴女は思っている。しかし弟は死んでいるのだ。だから何度でも問う。貴女は何をした? 貴女の気持ちも聞かせてくれ」

 

 ここへ来て、イザベラはようやくエドワードが自分に罪を認めさせたいのだ、という事に気付いた。

 

 たとえやっていなくともやったことにしろ、という事だろうと。

 

 彼女にとってそれはとても心外なことだったが、しかしもはやイザベラは一分一秒たりとも耐えられる気がしなかった。

 

 革に沁み込んでいる"特別製"の薬剤のせいで手首の肉は随分と溶け、あるいは骨に達しようとしている。そればかりか、傷が広がっていっているように見えたからだ。

 

 普通なら発狂するほどの激痛であるのに、なぜか狂うことができない。

 

「王太子としてイザベラ・セレ・フェルナンに命ずる。正気を手放してはならない。そして、答えよ。イザベラ嬢、貴女は何をした?」

 

「わ、わ、わたくし……は、リオン様を殺しましたッ……! 不逞の輩を使い、あ、あの雌猫……クラウディアを取り除こうとしま、し、しました、が……何か手違いがああ、痛い! わたくしの手が!! お、お願いですエドワード様、どうか、どうかここから……」

 

「答えよ、と言った」

 

「は、はい。な、何か手違いがあり、おそ、らくリオン様のことまでも、ころしてしまったのでしょ、う。わたくしはつ、つつみ、罪人です! だから、だからどうかここから、解いてくださいィッ!! い、痛くて痛くてたまらないのです! わたくしの足、わたくしの手、あ、ああ……」

 

 息も絶え絶えなイザベラだが、そんな彼女の叫びを聞くと再び小首を傾げる。

 

「イザベラ嬢、私はただ聞きたいだけなのだ。貴女が何をしたか、何を思うかを。言い訳を聞きたいわけではない。自分が何を口にすべきかはちゃんと私のことを知ろうと思えば貴女にも分かる筈だ。少なくとも、貴女は自身に罪があるとは思ってはいないのだから謝罪する必要はないよ」

 

「そんなこと、あ、ありません! 痛い、痛いの……な、何もかも私が悪かったのです、だから……」

 

 目を真っ赤に充血させたイザベラがエドワードに懇願すると、彼はゆっくり首を振る。

 

「いや、貴女は自分は悪くないと──そう思っている。私はイザベラ嬢、貴女のことが分かる。だから何度でも聞こう。貴女は何をした? 弟が、リオンがどんな最期を迎えたのかはもう教えておいた筈だ」

 

 ぼとり、と音がした。

 

 イザベラの右手首が床に落ちている。

 

「わ、わ、わたくし、は……わたくし、は……」

 

 ・

 ・

 ・

 

「イザベラ嬢、貴女は何をした? それについてどう思う? 貴女の気持ちを聞かせてくれ」

 

 エドワードがイザベラに尋ねた。

 

 ヒュー、ヒュー、という音がするが応えはない。

 

 イザベラの両手首、両足首は既になく、それどころか革に染みた毒液がそれぞれの部位に浸透して浸食を続けている。

 

 肉が溶け、腐れる悪臭が部屋の中一杯に広がると、流石にエドワードも不快になったのか、懐から小さい薬瓶を取り出してイザベラへ振りかけた。

 

 すると錆びた鉄と湿気を含んだ木材の香り──あるいは生い茂る夏草の下に隠れる乾いた死骸の残り香がふわりと香り、悪臭は鳴りを潜めた。

 

 ◆

 

 イザベラは散り散りになっていこうとする意識を懸命につなぎとめようとしていた。

 

 狂ってしまえば、意識を失ってしまえば楽になれるのかもしれない。

 

 しかし他ならぬエドワードからそれは禁じられている。

 

 彼女は自分でもなぜだかよくわからないが、エドワードの言に従わねばならない──従いたいという忠心に全神経を支配されていた。

 

 彼こそが自分の主なのだと、王なのだという思いがある。

 

 ──でも、わからない

 

 そう、イザベラには分からなかった。

 

 エドワードが何を望んでいるのか。

 

 単なる事実──自身がリオンを直接殺したわけではないことを知りたいわけではないということは理解したが、では何を知りたいというのか。

 

 両腕と両脚を失い、芋虫のようになった自身の体をどこか他人事のように眺めつつ、イザベラは懸命に考え続ける。

 

 やがて、毒が全身に回り、脳を侵して意識を失う直前までイザベラは考え続けた。

 

 そして今わの際、彼女の脳裏をよぎったのは──

 

 ・

 ・

 ・

 

「初めまして、リオン様!」

 

 赤いドレスを着たおしゃまな少女がペコリと頭を下げて同い年くらいの男の子──リオンに挨拶をした。

 

「え、えっと。初めまして、イザベラ様……ちゃん?」

 

「イザベラと呼んでくださいまし! だってリオン様とわたくしは夫婦になるんですもの!」

 

「そ、そうかもしれないけど、でも、恥ずかしいよ……」

 

 イザベラはうふふと笑い、リオンの手を取る。

 

 年は同じでも、なんだか可愛い弟ができたようでイザベラは嬉しくて仕方がなかった。

 

 ──リオン様がわたくしの王子様になってくれるのなら、わたくしはリオン様のお姫様になってあげよう

 

 そんなことを思うと、イザベラもなんだか恥ずかしくなってしまって、二人は揃って顔を赤らめてしまう。

 

 ・

 ・

 ・

 

「あ、あ……そ、うなの……ね。ご、ごめんなさい、リオン様……」

 

 そう言い残し、イザベラは事切れた。

 

 それを聞いたエドワードは、わずかに頷き──

 

「イザベラ・セレ・フェルナン。貴女を赦そう」

 

 と言ってイザベラの顔へ手を伸ばし、見開いたままの目を閉ざしてからその場を去った。

 

(了)

 

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