喪失少女よ、手を伸ばせ─或いは、誰が為の頌歌─ 作:レインドロップ
Prologue:目覚め
「……て……」
遠くから、声が聞こえる。
或いは、ただの幻聴かもしれない。
よく聞き取れないが、その声は誰かを呼んでいる――呼びかけているようだった。
「起きてくださいっ!」
飛び込んできた、耳に突き刺さる大声。昏い世界に、針のような光が射す。白い絵の具を落とした床のように、私の視界が塗り潰される。
「良かった、目を覚ましたのですね。びっくりしましたよ、海岸で倒れている人がいるだなんて……」
意識を浮かび上がらせたばかりだというのに、遠くにいたはずの――否、遠くではなく、微睡の中で聞いた微かな声であっただけ。
傍から聞こえるその声の裏では、砂を攫い、押し戻す音と、どこか生臭いような、潮騒の香。
真っ白な世界に、色が戻り始める。
蒼穹の青に、銀の房が垂れている。
「どうしてこんな所で倒れていたんですか?見た所なにか行き倒れたとか、襲われたとかではないようですが……」
「なぜ……私は……」
なぜ、私はこんなところにいるのだろうか。
そもそもどうやって来たのか、それどころか自分が何者かも、僅かな記憶しか思い出せない。
思い出そうと頁を捲ろうとしても、そこにあるのはただの白紙。
使い古されているはずなのに、その中身だけは新品そのもの。
中身だけを器用に漂白したような、純真無垢な海馬がそこにあった。
「……覚えて、ない」
「覚えてない……ですか?……もしかして頭でも打って……でも、外傷はありませんでしたし…………詳しい検査は街に行かないとですから……立てますか?」
「……え、えぇ……」
手に砂が付くのを厭わず、地面に手を着き、よれる身体を持ち上げる。暫く動くことがなかったかのように、関節が軋む感覚を噛みしめ、ふらりと一度よろける。
白い彼女が手を差し伸べているのに気づいたのは、何とか姿勢を保ってからだった。
「とりあえず、着いてきてください。病院に案内しますので……」
純白の私に背を向けた彼女の姿を、光に慣れた目は捉える。
あらゆる光を弾くかのような白銀と、それによく似合う、群青の衣装。
些か煽情的であるように感じるが、当たり前のように着こなしている。あるいは、私の嘗ての知識が、ここと違う場所で培われたのだろうか。
だが、人の服装に茶々を入れられるだけの権利は持ち合わせていない。
舌の上の鉄の味を転がしながら、ふと浮かんだ疑問を投げかける為、白銀の少女の背中に声を掛けた。
「……悪いけど……あんた、名前は?」
「私ですか?私はトリトニアです。ええと……あなたのお名前はなんと仰るのですか?」
「名前……えっと……」
この身に残る、微かな記憶。
それが、誰かの名前であるのだが……自他どちらかなど判断がつかない。
しかし名とは即ち、個体を識別するための符号である。
ならばその名を用いたとて、私を私と認識できるのであればその本懐は果たせるだろう。
「……咲葉智星、のはず」
「のはず……?えぇと、うーん……とりあえず、その名前ってことは……『秋津』の方ってことでしょうか」
「秋津……」
地名であろうことは文脈から理解できるが、それが何処で、そして故郷であるかどうかなど当然に想起できない。
記憶に残るのは、名くらいなものだ。欠けた小魚の鱗程の、小さな記憶。
「……とりあえず病院で診てもらいましょう。ネーブルいちの病院をご紹介しますよ」
「それは……どうも、トリト……ニアさん?」
しかしどうも親切な人のようである。恐らく流れ着いたであろう私を案じ、病院まで紹介してくれるとは。しかし、この私が現金をどれだけ、と身体を探ってみれば、どうもそもそも財布がない。
「……でも私、財布が無くて……」
「あ……いえ、大丈夫です。問題ありません。ネーブルの病院は、確かフルース人以外の方からお金は取らなかったはずですから」
親切なのはこの土地ぐるみのようだ。しかし随分と奇妙な制度ではある。
「着いてきてくださいね、智星さん」
その声と、白銀の少女、トリトニアに導かれるがままに歩いていく。
見ず知らずの人間を、何処か変なところに連れて行くような悪人であれば、私などあまりにも格好の獲物であろう。
などと、目の前の少女に対して『悪人であったら』などという不躾極まりない考え事をしながら追ううちに、巨大な門が目の前に現れた。随分と立派な都市であるらしい。
圧倒されるその外観に引き込まれた意識を、トリトニアの鈴声が引き戻した。
「ようこそ、水と芸術の都『ネーブル』へ。歓迎します、咲葉智星さん」
初めましての方は初めまして。レインドロップと申します。
そうじゃない方はどこから来たのですか?これは初投稿のはずなのですが……。
ともかく、まだ何も分からない状態のプロローグでしかありませんが、どうぞよろしくお願いします。