朝、私は自分の木刀を持って道場へと向かう途中でふと空を見上げていました。
曙、と言うのでしょうか藍色の空の奥の方が柔らかな光で照らされていてとても綺麗です。
清少納言にとって春は曙なのかもしれませんが、私にとって曙は夏を連想させます。
他の季節だとこのくらいの時間は大体外は真っ暗ですから。
私はペタペタと足を鳴らしながら縁側を進み、道場の戸に手を掛けました。
夏場は朝早くでも縁側が冷たくならないので快適です。
ガラリと引き戸を開けて中に入ると、少し冷えた心地いい空気が私を出迎えてくれました。
なんだかこれからやるぞって気持ちが沸き上がってきます。
でも、稽古の前にやらなければいけない事があります。
それは道場の掃除です。
稽古の前と後には掃除をするようにお父さんから言われているのでサボるわけにはいきません。
私は木刀を壁に立て掛けて、向かい側の戸から水道場のある外へ出ました。
サンダルを履いて適当に置いてあるバケツに水を汲んで、傍に干してある雑巾を入れます。
それから道場に戻っていよいよお掃除開始です。
お父さんが言うには掃除も稽古のうちらしいので隅々まで雑巾で拭いていきます。
それが終わると、今度は道場にある神棚にお祈りをします。
手を合わせて、今日の目標みたいなお願い事をします。
今日が素敵な一日になりますように……
そして、それから漸く素振りに入ります。
これが私の朝の日課。
何時ものメニューをしてから掃除を終わらせて外に出ると、もうすっかり辺りは明るくなってました。
私は心地いい疲労感を感じながら一旦部屋に戻って木刀を置いて部屋着を持ってお風呂場に行くことにしました。
「おはよう
今日も朝から稽古か?
精が出るな」
シャワーで汗を流した後部屋着を着てドライヤーで髪を乾かしていると、お父さんが眠たそうに洗面所に入ってきました。
「うん、おはよう」
「毎日毎日、辛くないのか?」
お父さんは顔を洗いながら私に訊きます。
「全然。
私、剣道好きだもん」
「ははは、こりゃ参ったな。
この調子だとあっという間に父さんが抜かれてしまう」
「え~、そんなことないよ。
お父さん凄く強いじゃない、全然追い付けないよ」
お父さんはいっつも「あっという間に抜かれる」なんて言ってるけど、私が勝ったことなんか一回もない。
何時まで経っても届かない理想。
それが私にとってのお父さん。
「はっはっは、そんなことないさ」
「も~また適当な事言って……ほら、早く朝ごはん食べに行こ?
お母さんも待ってるよ」
だから、そんなことを簡単に言うお父さんはちょっとだけ嫌いです。
私はドライヤーを片付けて先に出口に立ってお父さんを促しました。
髪が短いと渇くのが早くて楽です。
これも毎朝大体同じ。
でも、私はそんなやり取りの中でちょっとだけ嘘をついていました。
それは――
「
名前を呼ばれて私は数学の答案用紙を教卓に取りに行きました。
受け取ってみると結果は散々。
赤点じゃないだけラッキーと思うしかありません。
「ひやっ!」
とぼとぼ自分の席に戻ろうとすると、脚が縺れてこけてしまいました。
周りからの小さな笑い声が聞こえ、目線も感じます。
恥ずかしい……
取り敢えずこれ以上目立たないように細心の注意を払いながら起き上がって、なんとか席に戻る事ができました。
「美羽さんってなんか抜けてるよね~」
「なんかなにしてもダメって感じ?」
「ばっか、そこが可愛いんだろ?」
「まぁ、顔は良い方だしな」
「えっ、でも剣道超強いって話聞いたことあるよ?」
「いやいや、ないだろ」
「あいつんちデカイ道場があるから誰かが勝手にデマ流してんだろ?」
「だな」
そんなクラスメイトの話し声が聞こえてきました。
そう、私は剣道以外なにも出来ないのです。
勉強だって、料理だって、他のスポーツだって、なにをやっても私は平均以下でした。
友達も、人見知りな私には上手く作ることができません。
だから、たった一つの取り柄の剣道にひたすら没頭するのです。
勿論剣道は大好きです。
でも、これはきっと純粋な気持ちじゃない。
これが私の小さな嘘。
そんな私だからでしょうか、剣道をしている以外の時間をあまり楽しいと思えないのです。
学校も、お世辞にも楽しいとは言えません。
友達の一人でもいればもう少し楽しい学校生活を送ることができるのでしょうか……
「はぁ……」
もうすぐ始まる夏休みだって予定ないし……
私はこのまま死ぬまで一人なのでしょうか。
そんなことを思うとつい溜め息が出てしまいます。
でも、考えてもどうにもならないし、私人見知りだし……
なんだか今日は眠いし……
時計を見るとまだ時間には余裕がありました。
ちょっとだけ……寝ても大体だよね。
『ピーンポーンパーンポーン』
ふぇっ!?
なっ、なに!?
突然大きな音が聞こえて、私は驚いて飛び起きました。
結構大きな音がしてしまいましたが、みんなも驚いているのか特に気にしている様子はありません。
時計を見ると時刻は10時21分。
私が眠ってしまってからあまり時間は経っていませんでした。
『こんにちは~♪
愚かな人間ども諸君、ご機嫌いかがかな?
ど~も~神様でぇ~っす!!』
「ひゃっ!?」
頭が痛くなるくらいの男の人の大声に、思わず耳を塞いでしまいました。
なに?
なんなのこれ……夢?
『――キョロキョロしても無駄だよ~、君達の心に直接話してるからね~♪』
必死で耳を塞いでも、男の人の声が頭の中を痛くさせます。
やだ、なにこれ……こわい……
いや、聞きたくない!
聞きたくない!!
私がどんなに頭の中で否定してもその声は消えてはくれません。
『――もううんざりだからこれから人類滅ぼすから』
へ……?
人類を……滅ぼす……?
なに……それ……?
嘘……だよね……?
あっ、あはははどっきりとかそうゆうやつだよね?
それとも映画か何かの撮影?
いやいや、きっとこれは夢だよ夢、うん。
だから……なにも怖いものなんて……
いくらそう思っても体の震えは収まりませんでした。
何故だか、私はこの男の人の言ってる事が嘘だと思えなかったのです。
『――それじゃ頑張って楽しませてね~バイバ~イ♪』
それから、数分が経って漸く男の人の声は聞こえなくなりました。
なんだか頭が間違えて電柱にぶつけてしまった時みたいに痛いです。
おかしいな……夢の筈なのに……
それに冷房聞せすぎたのかな、体が凄く寒い。
体を擦りながら震えが止まるのを待っていると、さっきまで教壇に立っていた筈の先生が前の方のドアから入ってきました。
おかしいなと思って時計を見てみると、私が起きてから十分ぐらいの時間が経っていました。
「みんな、今日はもう学校は終わりです。
直ぐに家に帰って、体調の悪い人は速やかに病院に行ってください。
明日以降の事はおって連絡します」
先生は青い顔でそう言いました。
ふと周りを見てみると、クラスメイトの皆も青い顔をしています。
中には泣いている人や魂が抜けちゃったみたいにぼうっとしている人もいました。
怖い……
早くこんな夢覚めてほしい……
私は何度も何度も起きろって念じながらも、ひとまず家に帰る事にしました。
鞄に教科書とかを詰めて廊下に出ると、そこには頭がおかしくなるような叫び声や泣き声で溢れていました。
気持ち悪くなって思わず脚が止まってしまいます。
もうやだ……なんなのこれ……
怖い……怖いよ……
お父さん……お母さん……誰か、助けて……
「んっ――」
目が覚めるといつもの私の部屋でした。
……あれ?
私……何してたんだっけ……?
寝起きの頭でさっきまでなにをしていたか考えてると、ふと部屋に置いてある時計に目に入ったのです。
時刻は五時。
いけない、寝坊した!
早く稽古しに行かないと!
私は布団から飛び起きると、慌てて道着を着て木刀を持って部屋の外に出ました。
「あれ……?」
そこで見たのはなんと曙なんかよりも全然明るい空。
なんで……?
「おお、知代!
起きたのか!」
訳が分からずに立ち竦んでいると、どたばたとした音に気づいたのかお父さんが縁側を走ってきました。
「って、なんでそんな格好なんだ?」
お父さんは脚を止めてからまじまじと私の格好を見て訊きました。
「え?
いや、朝の稽古をしようと思って……」
私がそう応えるとお父さんは嬉しそうな表情から一気に深刻そうな顔になりました。
「お前……大丈夫か?
いや、やっぱりまだ混乱しているのか……」
「なんの話……?」
いつものからかってるかんじゃないので、私は恐る恐る聞いてみることにしました。
「いいか、よく聞け。
まず、今は夕方だ朝じゃない」
それは直ぐに納得することが出来ました。
だって、今見てる空はいつも見てる空とあまりにも違うから。
でも――
「じゃあ私はなんでこんな時間まで寝てたの?
今日、学校休みだったけ?」
「いいや、お前は今日間違いなく学校に行った。
そして、そこで気絶して先生に送ってもらったんだ、家までな」
お父さんの言葉を聞いた瞬間、頭の中に何か黒い水みたいなものが一気に押し寄せてくる感じがしました。
そして、思い出したのです。
頭が潰れそうになる男の人の声や廊下に響き渡る泣き声や恐怖の声を。
カランと木刀の乾いた音が聞こえました。
そして、気づいた時には私はお父さんに抱き付きながら泣いていました。
「悪い……怖い夢を見てたの……!
きっと、気絶してる間ずっと……!
怖かった……本当に怖かったよぉ……!」
私がお父さんの胸に顔を埋めていたせいでお父さんの表情は分かりません。
でも、お父さんは黙って私の頭を優しく撫でてくれていました。
その日は稽古もそこそこに直ぐ晩御飯を食べて寝てしまいました。
またあの夢を見るんじゃないかって怖かったけど、疲れていたのか気が付いたらもう朝になっていました。
時計を見ると四時半。
うん、今日も私の体内時計は正常みたい。
私は今度こそ朝の稽古をしようと道着を着てから木刀を持って部屋を出ました。
空は綺麗な曙。
今度こそ間違いはないみたいです。
いつも通り道場を掃除して、神棚にお祈りをします。
昨日の夢が忘れられるほど楽しい一日になりますように……
姿勢を戻して瞑っていた目を開くと、神棚の前の辺りがほわっと柔らかく光って見えました。
目にゴミでも入ったのかな……?
目を擦ってからもう一度その場所を見ると、やっぱり光っています。
なに?
と思っていると、その光の中から小さな、多分15cmぐらいの黒いスーツを着た人が出てきました。
あれ……もしかしてまた夢……?
「お~はようございまぁ~っす!
ど~も~神様で~っす!」
小さい人はその場でふわふわと浮いたままビックリするような声でそう言いました。
「……へ?」
突然何を言ってるんだろうこの人……
でも、この人の声何処かで聞いたことあるような……
「ん~なにこの状況理解してない感じ。
あれ?
もしかして僕お呼びじゃない?」
よくわからないけど取り敢えず呼んでないし、頷くことにしました。
「う~ん、まぁいっか。
取り敢えず契約の第一段階済ませちゃうね♪
そ~れシャランラ~♪」
小さな人が効果音みないなのを言いながら手を横に振ると、私の体が光だしてしまいました。
「わわわ!?
なに!?
なにこれ!?」
慌てて体を払ってもその光は消えません。
どうしよう、私おかしくなっちゃったのかな……?
そんな不安を抱えてる間に光は消えていました。
よかった。
「よ~し、第一段階しゅ~りょ~。
ちょっとその場で跳ねてみな?」
「え?
こう、ですか――っ!?」
言われた通りちょっと跳ねるぐらいの力で床を蹴ると、なんと私の体は2mぐらい浮き上がってしまいました。
なんで……?
「きやっ!」
びっくりしていたら豪快に尻餅をついてしまいました。
痛たたた……
あれ、痛い……?
もしかして……これ、夢じゃない……?
「そ~そ~、これ現実だよ♪
ついでに昨日の事も、君が夢だと思い込んでたのは全部げ・ん・じ・つ」
まるで私の心の中を覗いてたみたいに小さな人が言いました。
あ、もしかして私口に出ちゃってた!?
「違う違う。
僕神様だよ?
人の心の声を聞くなんて雑作もない事さ」
慌てて口を塞ぐと、小さな人は寒気がするような笑顔を浮かべました。
この人が神様?
心の声が聞ける?
昨日の事も、今日の事も全部現実……?
嘘……そんなの、絶対嘘だよ……!
「あははは、別に信じるも信じないも君の自由だけどさ~。
信じないと君、死んじゃうよ?」
私が……死ぬ……?
「そうそう、コロッとね♪
そしたら大変だ、もう家族とも会えなくなるね♪」
お父さんとお母さんに……もう会えない……?
いや、違う。
やっぱりこれは夢だ。
さっきの痛みもきっと寝返りをうってどこかにぶつけちゃったんだ。
神様とか、人類滅亡とか、やっぱりそんなの有り得ないよ……!
「へぇ~そう、僕の言うこと信じないんだ……」
「ひっ!!」
今一瞬、ずっとにこにこしてた小さな人が睨んだ気がしました。
もうやだ……なんでこんな怖い思いをしなくちゃいけないの……?
「まぁいいや。
取り敢えず第一段階の契約はしちゃったし、このまま第二段階の契約もしゃおうよ♪
折角だしさ♪」
「いっ……嫌、嫌です……!」
さっきの怖い顔が頭に残っていたせいで思わず一歩下がりながら私は答えました。
もうこれ以上この人と話したくないし関わりたくない……
そう思っているのになぜか私の脚は道場の外に向かってはくれません。
「君さ、今どうゆう状況か分かってる~?
君今スッゴ~く幸運なんだよ?
だって普通僕の事信じてなかったらこういう神様とかいそうな場所来ないじゃん?
分かる?
僕が君と話してるのは君が望んで起きてるんじゃなくて、単なる偶然、そうミラクルって訳さ♪
なのに~そんなチャンス捨てちゃうの~?
本気?」
その契約っていうのが終わったらこの人は消えてくれるのでしょうか。
だったら早く済ませちゃった方がいいのかな……
いいよね?
どうせ夢なんだし……
「なっ、何を……するんですか……?」
「おっ、いいね。
なに?
乗り気になってきた?」
小さな人はけたけたとおかしそうに笑うと、その契約について教えてくれました。
「まぁ取り敢えず説明すると、さっきの第一段階の契約は身体強化なんだ♪
今の君の身体能力は普段の十倍はあると思ってくれていいよ♪
あと、君はもう飲まず食わずで死ぬまで動けるから。
水と食糧の事は考えなくていいよ。
それからこれからやる第二段階の契約なんだけど、これから僕が君に“この戦いにおいてなにが欲しいか”を聞いていくから、素直に答えてね♪
その答えによって君の願いに沿った
だから強いのが欲しかったら真面目に答えた方がいいよ♪」
トーテム……?
じんぎ……?
あまんまり聞き覚えのない言葉に首を捻っていると、それも小さな人が説明してくれました。
「化身(トーテム)っていうのはその名の通り神の化身のことさ。
謂わば神様の力の欠片ってとこかな。
化身はその所有者と一体化することでその力を発揮するんだ♪
一体化してるときは武器やら装飾品やらに化身の姿が変化するから、それでオンオフを判断してね♪
まあだから話聞いてても分かると思うけど、化身は基本的に肉体を酷使するスタイルになるね。
そんで、神器は神や伝説級の英雄が使っていた武器。
こっちはどっちかって言うと精神を酷使していくスタイルかな。
因みに僕は化身だよぉ~」
小さな人はそう言い終わるとなぜか得意気に自分を指差していました。
「えと……えと……」
頭の中に情報がいっぺんに入ってきてどうすればいいのか分かりません。
「んじゃ、早速質問いっくよ~♪」
「えっ、ちょっまっ――」
まだ頭の整理がついていないのに……
小さな人は私の言葉を聞き終わる前に質問を始めてしまいました。
「美羽知代ちゃん、君はこの戦いにおいて何が欲しい?」
「ちょっ、ちょっと待ってください……!
時間を、時間をください!
考える時間を……!」
「はいは~い時間ね。
オーケーオーケー♪」
ええ!?
今の回答って訳じゃないのに!!
「だっ、だからちょっと待って下さいってば!!」
私は慌てて小さな人を止めようとしましたが、残念ながらそれはもう遅かったみたいです。
「な~にが出るかな~?な~にが出るかな~?」と歌いながらよくわからない躍りを踊る小さな人の隣がフワッと光だしました。
そして、その光の中からチェックでモノクロのドレスを着た小さな人と同じぐらいの大きさの女の子が出てきました。
「おお、クロノスじゃ~ん!
君は本当に幸運だね♪」
小さな人はその女の子を見てビックリしたみたいです。
でも、私には何が凄いのかなんて分かりません。
ぼうっとしていると小さい女の子がすうっと滑ってるみたいに私の右肩のところに来ました。
「えっなになに!?」
肩を跳ねさせて驚きましたが、クロノスって呼ばれてたその小さな女の子はなにもしないままそこでふわふわと浮いていました。
「よ~し、契約も全部終わったし、僕はもう消えるけどさ。
最後になんか質問ある?」
よかった……漸くこの人はいなくなるんだ……
私は黙って首を横に振りました。
「ああそう。
そう言って質問され無かったのははじめてだよ。
君って結構サバサバ系?」
本当にこの人は何を言っているんでしょうか……
「ああそうだ、いい忘れてたけど今日から五日後、契約期間の最終日に予行演習があるから、覚えといてね♪
それじゃ、君の夢……覚めるといいね♪」
そう言ってその小さな人は光に包まれて消えてしまいました。
本当に、なんだったの……?
ふと横を見てみると相変わらず小さい女の子が肩の辺りで浮いていました。
この子は消えないのかな……
私は気を取り直して朝の稽古を始めました。
その間も、ずっと小さい女の子は私の傍で浮いていました。
何度も、何度も、雑念が消えるまで木刀を振っても、心臓が爆発しそうなほど自分を追い込んでも、彼女は消えることはありませんでした。
「知代~もうご飯出来たわよ~。
どうしたの~?」
遠くでお母さんの呼ぶ声がします。
汗だくのまま外を見ると、空はすっかり明るくなっていました。
私の肩の上にはまだ小さい女の子が浮いています。
「どうしたの~知代~」
その日、私の夢が覚めることはありませんでした。