赤司は、部屋まで訪ねてきた白石と西川を出迎えた。
「これ良かったら食べてください」
白石がそう言って紙袋を差し出す。赤司は静かに受け取り、中を覗いた。
そこには幾つかのタッパーが収められ、それぞれに丁寧に作られた料理が詰められている。湯気こそもうほとんど立ってはいなかったが、蓋越しにも温もりが残っているのが分かった。
さらに白石の手の甲には、絵柄の入った小さな絆創膏が貼られていた。指先を庇うためというより、料理の最中に負った細かな傷を、本人なりに気にしている印のように見えた。
「ありがとう、どれも美味しそうだね」
「でしょー?飛鳥が頑張って作ったんだよっ」
西川が得意げに言い、白石は指先を重ねるようにして、照れ臭そうに笑った。
「はい、がんばりました」
その笑顔は控えめだったが、そこに込められた時間と努力は赤司にも伝わってくる。
「さっそく食べてあげなよー、征ちゃん」
西川に促され、赤司は小さく頷いた。部屋の片隅から椅子を二つ引き、テーブル代わりの机を整える。
彼は急須と湯呑みを用意し、二人の前に茶を置いた。何かをもてなすという動作は、彼にとっては珍しいものではない。
むしろ、こうした細やかな段取りは、相手の緊張をほぐし、こちらの観察を自然にするための前提に近かった。
赤司は向かいに座り、タッパーの一つを開けた。最初に手を伸ばしたのは肉じゃがだった。箸で一口分を取り、口に運ぶ。じゃがいもは柔らかく、だが崩れすぎてはいない。味の染み込み方も浅すぎず濃すぎず、醤油と砂糖の輪郭の上に、だしの底が静かに支えている。家庭料理として理想に近いバランスだった。
「――うん。美味しいよ」
「よかったです」
白石の表情が、ほんの少しだけほどける。彼女の笑みには、作り手としての安堵があった。赤司はそれを見て、素直な感想が相手の努力を報いる最短の手段であることを改めて理解する。西川はその様子を眺めながら、楽しそうに肩を揺らした。
「なるほどー、これが胃袋を掴まれたってやつですなー」
茶化すような口調だったが、その笑いには品のない下卑た気配がない。むしろ、友人の恋愛事情を面白がる、無邪気な観察者の笑みだった。
白石は少しだけ視線を落とし、それでも嬉しそうにしている。
しばらくのあいだ、三人は食事を挟みながら他愛のない話をした。
白石は料理の手順について少しだけ嬉しそうに語り、西川はそれをからかいながらも、どこか誇らしげだった。
赤司は相槌を打ちながら、二人のテンポや間合いを静かに見ていた。白石は控えめだが芯がある。西川は奔放に見えて、相手の踏み込みすぎない距離を測るのが上手い。二人のバランスは、赤司にとっては決して悪い気はしないものであった。
やがて時計が、少し遅い帰宅を示し始める。明日も朝が早い。白石が作った料理は十分に味わい、茶も減っていた。赤司は最後の一口を飲み込むと、静かに二人へ向き直った。
「そろそろ、部屋に戻ったほうがいい。明日もあるだろう」
「えー、もう?」
西川がわざとらしく口を尖らせるが、赤司は穏やかに首を横に振るだけだった。白石もそれを止めない。引き際を誤らないことは、こういう場所では大切だ。二人は立ち上がり、扉へ向かった。
出口に向かう廊下で、赤司はふいに思い出したように声を掛けた。
「そうだ、白石」
呼ばれて白石が振り返る。赤司の瞳は、その瞬間だけ僅かに鋭くなっていた。
「――なぜ、俺がこの時間に帰ってきていると分かったんだ?」
白石は一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに穏やかな笑みに戻る。
赤司が帰宅したのは、一般的な学生の帰宅時間から見れば遅い。しかも、インターホンの履歴を確認する限り、彼の不在中に来客があった様子はなかった。さらに、彼女の料理はまだ十分に温かかった。
つまり、彼女は赤司の帰宅時刻を予測し、その時間に合わせて料理を用意していたことになる。赤司の中では、その理由についてある程度の推測は立っていた。
だが、ここで確認しておくことにも意味がある。
「女の勘です」
白石は唇に人差し指を当て、いたずらを隠すような、それでいて上品な笑みを浮かべた。
「……そうか。余計なことを聞いたね。今日はありがとう」
「はい。赤司君も無理なさらないでくださいね」
「じゃあねー、征ちゃん」
扉が閉まっていく。彼女達はゆっくりと赤司の部屋の前から離れて行った。
廊下を戻る足音は、やがて互いの会話に変わる。
「けど、飛鳥も策士だよねー」
「何がです?亮子さん」
白石の問いはやわらかい。西川はそれを聞くと、にやりと笑いながら、白石の指先を指した。
「だって、べつに指怪我してなかったじゃーん」
ニヤニヤとした笑みは、白石に向けられているようでいて、実際には別の相手を見ている。狙われた赤司に対する、見事にしてやったという笑みだ。
白石はその指摘に何も答えない。ただ、少しだけ目を細めて、穏やかに微笑むだけだった。否定しない沈黙は、ときに肯定より雄弁である。
♢
翌朝、恒例となった赤司と葛城のランニングは、いつもと同じように始まり、いつもと同じように終わった。
早朝の空気は冷たく、敷地内の外周路にはまだ人影が少ない。整備された道を二人並んで走るうち、息の乱れ方や歩幅の癖、無意識に出る腕振りの強さまでが、互いの調子を測る材料になる。葛城は体格こそ大きいが、持久力がないわけではない。赤司もまた、走りながら相手の呼吸を聞き取り、前日の疲労が残っていないかを見ていた。
ひとしきり走り終え、二人が足を止める。息を整えながら、葛城が腕を組んだ。朝日に照らされたその顔は、厳つさの中にどこか実直さを宿している。
「中間テストに向けて模擬テストを作ると聞いたが、出来たのか?」
「ああ。昨晩のうちに完成させたよ」
白石たちが帰った後、赤司はすぐに机に向かい、出題範囲と授業の進度を洗い直しながら、模擬テストを組み上げていた。単に問題を並べるだけでは意味がない。生徒ごとの理解度と、つまずきやすい箇所を想定し、解くことで弱点が浮かぶように構成する必要がある。赤司にとって、それは大した苦ではなかった。
葛城はしばし黙ったあと、やや言いにくそうに言葉を継いだ。
「その模擬テスト。俺たちの分も貰えたりしないか?」
「もちろん構わないよ。放課後までには用意しよう」
「感謝する」
短いやり取りの中に、葛城なりの率直さがあった。自分だけの勉強会グループで抱えるには、赤司の問題は質が高い。そう判断したのだろう。
赤司はそれを快く受けた。葛城のような男は、利用する側に回ると途端に鈍くなるが、与えられたものを真面目に消化する力はある。少なくとも、無駄にして終わるタイプではない。
その後、赤司の模擬テストが葛城のグループへ渡ると、同じような要望は思った以上に広がった。
ある者は「自分にも欲しい」と言い、ある者は「友達が使っているのを見て気になった」と言った。断る理由はない。赤司は淡々とコピーを増やし、必要な人数に配っていく。
やがて、彼のグループ以外の生徒にも模擬テストが回り、気づけばクラスの半数近くがそれを手にしていた。誰かが始めた小さな勉強の輪が、静かに広がっていく。
赤司は、その反応を見て静かな笑みを溢した。
♢
中間テストの試験範囲発表から一週間が過ぎた。残り二週間。金曜日の昼休み、赤司は生徒会室で黙々と事務処理をこなしていた。
生徒会室は静かだった。書類の端を整える音、キーボードを打つ音、プリントをまとめる軽い紙擦れ。そのすべてが、整然とした空気の一部になっている。室内にいるのは会長の堀北学と、書記の赤司だけだった。堀北は窓際ではなく、いつもの席で資料に目を通している。赤司は端末とノートPCの両方を使いながら、必要な申請書類と会議記録を処理していた。
「赤司」
堀北学が静かに呼ぶ。赤司は手を止め、椅子を少しだけ向けた。
「石倉からお前に試験の過去問を渡したと聞いた」
“石倉”とは現バスケ部の副キャプテンを務める3年生である。
赤司は無言で続きを促す。堀北学は、その沈黙に慣れているようだった。
「今回の中間テストだけではない。この先の2年分を渡した、とな」
事実だった。石倉からは、中間も期末も含め、過去の試験問題をまとめて受け取っていた。
「両者の同意の上です。それが何か問題でも?」
「問題はない。だが、それだけの情報を得るには相応のポイントが必要だ。入学してからたった2ヶ月しか経っていないお前には払うのは容易ではないだろう」
堀北学の声音には、驚きよりも確認の色が濃かった。
石倉は3年Bクラスの生徒であり、ポイントで足元を見られるような立場でもない。ましてや試験情報を二年分まとめて渡すとなれば、相当な価値になる。堀北はそこを正確に見ている。だからこそ、赤司の答えを待った。
「この学校では部活動の成績に応じてもポイントはもらえますよね。全国優勝チームのスタメンともなれば相応のポイントを学校が支給してくれるはずだ」
赤司の返答に、堀北学は目を細めた。高度育成高等学校では、Sシステムにより毎月のポイントが変動し、試験や生活態度、クラス全体の成績が直接影響を及ぼす。部活動での成果もまた、完全に無関係ではない。学校が生徒を資源として評価する以上、スポーツの実績は無視できない重みを持つ。
「この先3年間、高校バスケのタイトルはこの学校が独占することになります。1年間とは言え石倉先輩はその恩恵に
赤司の言葉には、単なる自信ではなく、実績に裏打ちされた確信があった。
堀北学は赤司の中学時代の成績を知っている。だが、知識と実感は同じではない。赤司の言う「独占」が、ただの誇張でないことを理解しつつも、堀北学はすべてを鵜呑みには出来なかった。
「なるほどな。それが自信か、あるいは過信か……それはこれから見守っていけばいい。だが、お前がどれほど実力のあるプレーヤーであろうとチームメイトは必要だろう。“須藤 健”、お前が目を掛けているバスケ部の生徒はあのDクラスの中でも退学候補の筆頭と聞いているぞ」
話題は一気に一年Dクラスへ向く。あのクラスの初月のクラスポイントが0であることは、上級生にもすでに広く知れ渡っていた。そのクラスの一人である須藤に対して堀北学の目には、まだ大きな価値は映っていないらしい。
赤司は、わずかに口元を緩めた。
「……その時はその時ですが。須藤に関してはここで失うには惜しいとは思っていますね」
「ほう」
堀北学は短く応じる。そこに追及の色はない。評価の保留だけがある。
赤司は机の上のノートPCを閉じた。画面の光が消える。
「それより、堀北会長」
赤司は立ち上がり、会長席に座る堀北の側へ歩み寄る。その足取りは静かで、無駄がない。
「“例の件”、正式に引き受けようと思います。時期はたしか10月になると言うことでしたね」
堀北学は、少しだけ視線を上げた。
「ああ。任せたぞ、赤司」
堀北の返答は短い。赤司はそれを受けて、静かに頷いた。
生徒会室の空気は、昼休みの喧騒から遠く、まるで校舎の中心にある小さな結界のようだった。
赤司と堀北学、二人の間に交わされた約定は、まだ表には出ない。