須藤健は、ふとした拍子に思い返すことがあった。この学校で、赤司征十郎と同じ空間に立つことになる前の自分を。
帝光中学の名は、須藤にとって近くて遠い世界のものだった。
地区予選で面前で絶望をもたらし、テレビ越しに映る全国大会の優勝校。
その中心にいた赤司征十郎は、須藤にとっては複雑な感情を向ける相手であった。
だが、高育に入って再会した赤司は、須藤の知っていた“遠い天才”のままではなかった。いや、天才であることは何ひとつ変わっていない。
変わったのは、須藤の方だったのかもしれない。
あの時と同じように、いやそれ以上に赤司は高い位置からすべてを見ていた。
けれど、そこに傲慢さは薄い。圧倒的な結果を持つ者の余裕ではあるのに、決して他人を見下ろすだけではなかった。
初めてバスケ部の練習に顔を出した日、須藤は正直、また昔のように呑み込まれるのだと思っていた。赤司の周りに人が集まり、先輩たちの視線が赤司だけに向く。
それは中学の頃に見た光景そのものだった。
だが高育では、その先に続きがあった。赤司はただ褒められるだけでは終わらない。自分の立ち位置を確立すると、先輩に対しても、後輩に対しても、必要なことは必要だとはっきり言った。
それでいて口調は穏やかで、突き放すような冷たさがない。
練習後には誰かの質問にきちんと時間を割き、フォームの癖を見ては簡潔に直し方を伝える。食事の内容まで気にかけ、無茶な減量や偏った補給をしている部員には、はっきりと注意する。
才能にかまけているだけの人間じゃない。それを、須藤は痛いほど思い知らされた。
須藤は最初、そんな赤司に対して勝手に反発していた。
中学時代、同じ地区にいても自分には遠すぎた存在。その肩を、今度は同じ部員として並べている。
だが赤司の一言一言が、存在そのものが、自分の未熟さを突きつけてくるようで腹立たしかった。
だが、その対抗心は、いつしか別の感情へと変わっていた。
赤司に勝ちたい。そういう気持ちが消えたわけではない。
だがそれ以上に、この男の向けてくれる信頼に応えたい。そんな感覚が、須藤の中に芽生えていた。
四月の終わり、練習試合が組まれた時もそうだった。
赤司がスタメンを選ぶと聞いた時、須藤は名前を呼ばれるのかどうか半信半疑だった。
一年の中で、赤司と並んでコートに立つ。その意味を考えるだけで、胸の奥が熱くなった。
そして実際、名前が呼ばれた。一年生のスタメンは赤司と須藤。それ以外は先輩たち。
その事実を聞いた瞬間、須藤は自分でも分かるほど口元を緩めていた。
認められた。そう思った。
試合は、最初から赤司対策で始まった。相手は赤司に人数をかけ、徹底的にボールを持たせない。
いつものことだった。赤司はそれを当然のように受け止め、逆に空いたスペースを見つけて、須藤を活かす。
高育の攻めは、須藤のインサイドを軸に回り始めた。
ゴール下で身体をぶつけ、ねじ込み、相手のファウルを誘い、点を奪う。須藤の荒っぽさは、確かに脅威だった。
重心の低さ、フィジカルの強さ、執念。リングの下では、それらが誰よりも厄介に働く。
相手のセンターが嫌な顔をするたびに、須藤は歯を見せた。通じる。やれる。そう実感できた。
だが同時に、自分の脆さも見える結果となった。
相手の挑発に、つい反応してしまう。言葉に乗せられて、余計な接触に手を出す。荒いプレーは武器になるが、制御を失えばただの欠点になる。
終盤、点差は十分に開いていた。勝敗はほぼ決していた。
それでも須藤は、相手の一言に苛立ってしまった。
次の瞬間には、余計なファウル。さらに苛立って、またファウル。笛が重なる。
退場。
その瞬間、須藤の頭は妙に冷たかった。
やっちまった、とは思ったが、試合はもう勝っている。
だから、まあいいか、とも思った。
勝ったなら問題ない。そうやって自分を納得させようとした。
だが、試合後に待っていたのは、勝利の高揚ではなかった。
赤司は、コートの外で静かに須藤を見ていた。怒鳴るわけでもない。声を荒らげるわけでもない。ただ、穏やかに、しかし逃げ道のない目で須藤を見た。
「須藤、お前の闘志は確かに武器だ。だが飼い慣らすことが出来ないなら、チームの足枷にしかならない」
「ッ……」
何も返せなかった。悔しさより先に、言葉が出なかった。赤司の言う通りだったからだ。
勝ったからいい、では済まされない。試合の途中で感情に飲まれて退場するようでは、いつか本当にチームを壊す。それを、赤司は見抜いていた。
「激情は内に秘めろ。冷静に視野を広げるんだ。そうすれば――」
赤司は、そこでほんの少しだけ笑った。須藤を責める笑みではない。未来を見ているような、静かな確信を含んだ笑みだった。
「お前は素晴らしい選手になれる」
その断言を、須藤はなぜか信じられると思ってしまった。
たった一言だった。
だが、赤司に言われると、それが嘘に聞こえなかった。
自分でも気づかないうちに、須藤はあの言葉を支えにしていたのだ。
♢
五月に入ると、Dクラスの空気は目に見えて沈んでいた。
支給ポイントはゼロ。それも、誰かに奪われたのではなく、自分たちの行動の結果だった。
あの説明を聞いた時の衝撃は、思い出すだけで胃のあたりが重くなる。
さらに中間テスト。赤点を取れば退学。学校の仕組みを知れば知るほど、楽観できる余地など一つもなかった。
須藤は机に突っ伏しそうになりながら、イラついていた。誰かに対してではない。自分にだ。
授業中、ろくに頭に入らない。部活で疲れたから、眠って体力を回復させる。それが習慣になっていた。
小テストもまともに解けない。数字は見える。文字も読める。だが、頭の中でそれらが結びつかない。
赤司の言う通りだった。
冷静に考えようとすればするほど、自分がどれだけクラスの足を引っ張っているかが見えてくる。
今までバスケしかやってこなかった。勉強のやり方すら分からない。
だが、変わらなければならないことだけは分かっていた。
退学なんてしたくない。そんなのは論外だ。なにより、今の状況は、須藤の人生で一番、バスケが楽しい。
赤司に認められつつある。その事実が、須藤の中で何より大きかった。
あの赤司に。
帝光の赤司に。
自分のプレーを見てもらい、言葉をかけてもらえる。それは須藤にとって、ただの部活動以上の意味を持っていた。
「チッ……」
舌打ちが漏れる。
やるべきことは分かっているのに、できない自分が腹立たしい。
そんな須藤の頭上から、抑揚の薄い声が落ちてきた。
「須藤、ちょっといいか?」
顔を上げると、そこにいたのは綾小路清隆だった。表情の読めない男だ。目立たない。何を考えているのかも分かりづらい。
だが、こうしてこちらへ声をかけてくるのは珍しかった。
「綾小路か、どうした?」
綾小路は、少しだけ間を置いてから言った。
「堀北の主催で今日の放課後から毎日勉強会をやろうと思っているんだ。参加しないか?」
須藤は露骨に顔をしかめた。勉強会。その言葉だけで思わず嫌気が差す。
「堀北?なんでアイツが……ってか授業も面倒くせぇのに放課後もまで勉強なんて――」
そこで言葉を切る須藤。今の自分に何が必要か。
赤司にあれだけ言われたばかりだ。変わらなきゃいけない。そう思った矢先に、目の前に出された手だ。
逃げる理由は、もう作れない。
「いや、分かった。参加するぜ」
綾小路は、ほんのわずかに目を見開いた。予想外だったらしい。
須藤の後ろで池と山内も驚いた顔をしている。
だが須藤本人がいちばん驚いていたのかもしれない。
それでも構わなかった。腹は決まっていた。
♢
翌日から、堀北鈴音の主催する勉強会が始まった。
最初に集まったのは、須藤、池、山内。赤点候補としては充分すぎる面子だった。
嫌そうに椅子へ座る池と山内の隣で、須藤も腕を組んでいた。
そこへ、さらに櫛田桔梗がやってくる。
図書室の空気を一気に和らげるような笑顔だった。
その明るさに、池がさっそく浮き足立つ。
山内も、少しだけ肩の力を抜いた。
だが、堀北は違った。
図書室の机に教材が並べられ、勉強会は始まる。
赤点を取る可能性の高い連中に、堀北が基礎から教えようとする。
しかし、あまりにも反応が鈍い。
質問をしても返ってくるのは、見当違いな答えか、沈黙か、その両方だった。
堀北の眉間に、徐々に影が差していく。そして、堀北ははっきりと言った。
「あなた達を否定するつもりはないけれど、あまりに無知、無能が過ぎるわ」
図書室の空気が、ぴたりと止まった。
池が口を開けたまま固まり、山内も目を丸くする。
櫛田は慌てて場を和ませようとしたが、堀北の言葉はもう戻らない。須藤の中で、何かがカッと熱くなった。
「こんな問題も解けなくて将来どうしていくのか、私は想像するだけでゾッとするわね」
「……っせぇな。お前には関係ないだろ」
反射だった。思わず声が出た。
「確かに私には関係ないことよ。あなた達がどれだけ苦しもうと、影響はないから。ただ憐れみを覚えるだけ。今までの人生、辛いことからずっと逃げてきたんでしょうね」
「テメェッ!」
椅子が鳴る。須藤は立ち上がると、勢いのまま堀北へ詰め寄った。
胸倉を掴む。怒りに任せて、ぐしゃりと服を握り込む。
堀北の言い方は、あまりに容赦がなかった。だが、須藤が本当に腹を立てたのは、そこだけじゃない。
“辛いことから逃げてきた”。堀北の言葉が、胸の奥に刺さる。
勉強から逃げてきた。たしかにそうかもしれない。
だがそれ以上に、中学の頃の赤司との対戦のトラウマが過ぎる。
自分の弱さを突きつけられた、あの嫌な記憶が、堀北の一言でよみがえる。
櫛田が「須藤くんっ」と叫んで止めようとするが、もう遅い。
だが堀北は、目を逸らさなかった。怖がる様子も、怯える様子もない。ただ、冷えた目で須藤を見返していた。
その時だった。
「何をしている?須藤」
声は静かだった。けれど、その静けさは妙に重い。
須藤は振り向く。そこにいたのは、練習着姿の赤司征十郎だった。
「あ、赤司……ッ、何でもねぇよ」
反射的に、須藤は手を離した。あれだけ荒れていたのが嘘みたいに、指先が冷える。
赤司は机に広がるノートや教材を一瞥して、状況をすぐに理解したように息を吐いた。
「須藤、練習に参加できないなら連絡はしろ。前にも言ったがこの学校の性質上、正当な理由があれば不参加でも咎めない」
その言葉で、綾小路と堀北は察した。赤司がバスケ部の一員であることを。しかも、単なる部員ではないことを。
赤司は彼らの中心にある彼女に視線を移し、穏やかに笑った。
「堀北さん、だったかな?」
「……ええ、何かしら」
「すまない。須藤が迷惑をかけているようだね」
赤司が頭を下げる。須藤が驚く。
一方の堀北の方は、表情を変えないまま短く返す。
「……別に気にしてはいないわ。クラスのため、それ以上でもそれ以下でもないわ」
「もし可能であれば、引き続き須藤の事を頼めればと思う」
「貴方に言われるまでもないわ。彼等が逃げ出さない限りは手を差し伸べるつもりよ」
その冷たさにも、赤司は微笑を崩さなかった。
むしろ、その冷たさを承知の上で受け止めるように、穏やかに息を吐く。
「そうか……須藤」
呼ばれて、須藤は反射的に背筋を伸ばした。
「中間テストまでは勉強に専念しろ。その間は、事前に送った自主練のメニューだけこなせばいい」
「はぁ!?けど予選もすぐなんだぞ!?」
「だが、お前が退学してしまえば元も子もない」
赤司は、抵抗の声をきっぱりと遮らなかった。
その代わり、学生証端末を取り出して、画面を須藤に見せる。そこに表示されていたのは、インターハイ予選の組み合わせ表だった。
「予選の組み合わせが決まった。初戦の相手は新協学園。セネガル人の留学生を獲得して勢いのある新鋭だ」
須藤の目が丸くなる。池も山内も、セネガル人だの留学生だのという単語にやたら反応している。
だが須藤は、そこより別の部分を見ていた。中間テストの翌週から予選が始まる。つまり、今ここで崩れれば、勉強でも部活でも終わる。
赤司はそれを見越しているのだ。
「インサイド主体で攻めて来るだろう。お前の存在が鍵になるだろう」
「なら尚更――」
「だからこそ今は勉強に取り組め。たった一月程度の付き合いだが、俺はお前が目の前の課題に向き合える人間だと知っているつもりだよ」
その一言で、須藤は黙った。
向き合える人間。そう言われた。
逃げるな、とは言われない。けれど、逃げないはずだと信じられている。
それが、ひどく嬉しかった。
須藤は、ゆっくりと席に戻った。反論する気は消えていた。
赤司から向けられる信頼を裏切りたくなかった。それだけで十分だった。
赤司は堀北へ軽く会釈し、それから続ける。
「じゃあ、堀北さん」
「ええ、分かっているわ」
赤司はそれだけを告げて、図書室を出ようと背を向けた。
だが、足を止める。そして――。
「それから、須藤」
須藤が顔を上げる。ノートの上ではなく、赤司を見る。
「良いクラスメイトに出会えたようだね」
その言葉を残し、赤司は去っていった。
けれど最後に向けられた視線が、堀北ではなく綾小路の方へ向いていたことに気づいた者は、視線を向けられた本人だけだった。
赤司が出ていった後、図書室には一瞬だけ沈黙が落ちた。
それを破ったのは、やはり池だった。
「赤司つったっけ?雰囲気ヤバくね、本当にタメかよ」
「うん。それに生徒会に入ってるみたいだし、頭が凄く良いらしいよ。バスケも上手なんでしょ?須藤くん」
「かー!何だそれ、出来杉君かよ!」
軽口が飛ぶ。いつもの池らしい反応だった。
櫛田は困ったように笑う。だが堀北だけは、違う一点を見つめていた。
「生徒会……」
小さく零れたその声に、綾小路がほんのわずかだけ反応を示す。
須藤は、まだ赤司の残した熱を抱えたまま、机の上の問題集を見下ろした。
「上手なんて、もんじゃねぇよ」
須藤は静かに吐いた言葉が聞こえた者はほとんど居なかった。
綾小路はそんな会話を他所に、無表情のまま赤司が出ていった扉を意味深に見つめるのであった。
そして時は過ぎ、中間テスト当日を迎えることとなる。