中間テストが終わったあと、Aクラスの空気は、いつになく穏やかだった。
結果が返却された瞬間、教室のあちこちで小さな歓声が漏れた。平均点は四クラスの中で最も高く、赤点者は一人もいない。派手な勝利ではない。だが、この学校においては、それだけで十分に価値があった。何より、誰ひとりとして退学の不安に怯えずに済むという事実が、教室全体の呼吸を浅くし、しかし確かな安堵を与えていた。
廊下から差し込む春の光は、すでに初夏の輪郭を帯びている。教室の窓際に落ちる光の筋の中で、生徒たちは口々にテストの感想を言い合っていた。点数の話、難しかった問題、解けたつもりで落としていた箇所。そんな中で、ひときわ多くの視線を集めていたのは赤司征十郎だった。
赤司の周囲には、いつの間にか人が集まっていた。
「赤司。模擬テスト、本当に助かった!」
「数学の最後の大問、あれが出てくれたおかげでかなり余裕ができたわ〜」
「国語の記述も、赤司のやつで見た流れに近かったんだよなっ」
感謝の言葉は、ひとつひとつは些細だった。だが、それが重なっていくと、静かな熱になる。
赤司はその輪の中心で、穏やかに耳を傾けていた。誇示するでもなく、照れるでもなく、ただ当然のことをしただけだという顔をしている。
葛城康平は、その様子を少し離れた場所から見ていた。
赤司の周囲に自然と人が集まる光景は、もはや珍しくない。最初は好奇心だった。次に、頼もしさだった。そして今は、ある種の信頼へと変わりつつある。
赤司は、ただ成績が良いだけの男ではない。時間を割き、手を動かし、他者のために結果を用意する。それを、当然のようにやってのける。
葛城は、胸の内に沈めていたものが、ゆっくりと形を持つのを感じた。
このクラスを率いる者は、誰であるべきか。
それはずっと、曖昧なままだった。自分が前に立つことも、ないわけではなかった。むしろ、自然とそうなっていた場面も多い。
だが、葛城自身が一番よく分かっている。自分は真面目だ。責任感もある。人をまとめようとする気概もある。
けれど、クラス全体をひとつにまとめ上げ、先へ進ませるための決定的な何かが、まだ足りない。
だが、赤司は違う。
その瞬間、葛城の中で決意は固まった。
彼は静かに立ち上がった。
教卓の前へ進むその足取りに、迷いはない。赤司の周囲に集まっていた生徒たちが、わずかに視線を向ける。何かが始まる、と直感したのだろう。教室の空気は、緩やかな安堵から、ひとつ上の緊張へと移っていった。
葛城は教壇の前に立つと、深く息を吸った。
「みんな少し聞いてほしい」
その声は、いつものように真っ直ぐだった。だが、場が一瞬で静まったのは、その真面目さが今の空気にそぐわなかったからでもある。
祝福の余韻に包まれていた教室の何人かは、わずかに眉をひそめた。だが葛城を慕う者は、黙って彼を見た。何か大事な話をするのだと、自然に察しているのだ。
葛城は、その視線の違いに小さく苦笑した。
「この先、試験であったり様々な行事でクラスポイントが変動する機会があるはずだ。だからこそ今、クラスを率いるリーダーを明確に決めておく必要があると思った」
ざわり、と空気が揺れる。
これまで曖昧に保たれていたものに、形を与えるという宣言だった。今のAクラスには、まだ完全な統率がない。葛城が暫定的に前へ出る場面はあったが、それはあくまで一時的なものに過ぎない。全員が納得して従う構図ではなかった。赤司はその事実を、誰よりも冷静に見ている。
葛城は続けた。
自分には、自分なりの責任感があること。だがそれだけでは、足りないかもしれないこと。クラスを一つにまとめるには、もっと明確な柱が必要だということ。
そして、その視線がゆっくりと赤司へ向いた。
『俺は誰がリーダーに相応しいかなんて話は心底どうでもいい。この学校の仕組みが分かった今、重要なのはこのクラスが勝者であり続けることだ。違うか?』
葛城の脳裏に、かつて語られた言葉が反芻される。
勝者であり続けること。
それは、この学校の本質を一言で切り取ったような言葉だった。
葛城は続けて、誰よりもその目的に近づけるのが誰かを、今まさに見極めたようだった。そして、赤司が模擬テストにかけた時間と労力、赤司がこのクラスに向けて示してきた行動を、葛城は見逃していなかった。
葛城は深く頷くと、はっきりと言った。
「俺は赤司征十郎をこのクラスのリーダーに推薦したい」
その一言で、教室の空気は決定的に変わった。
驚きが先に来る者、納得を追いかける者、赤司を慕っていたがゆえにその提案を当然と受け止める者。反応は様々だった。けれど、葛城の言葉に真正面から反発する声は、すぐには上がらない。
葛城はさらに続けた。
「赤司の模擬テストを受け取った者も多いはずだ。一目見れば分かる。簡単に作れるものではない。時間を要したはずだ」
教室の視線が、赤司へと向かう。
たしかに、模擬テストは一枚ではなかった。教科ごとに、あるいは範囲ごとに、赤司は複数の形式を用意していた。問題の難易度も丁寧に調整されていた。簡単すぎれば意味がない。難しすぎれば誰もついてこられない。赤司はその中間を、正確に見極めていた。
葛城はそこで一度、言葉を選ぶように目を伏せたあと、再び顔を上げる。
「生徒会の書記であり、バスケ部のキャプテンである男がクラスのために時間を労していた。俺はリーダーとなる人間は誰よりもクラスを思い、クラスのために行動できる人物であるべきだと思う」
その言葉には、単なる賛辞ではない重みがあった。
忙しいのは明白だった。赤司は生徒会にも所属し、バスケ部では主将として振る舞っている。学年の中でも相当に多忙なはずの男が、それでもなおクラスのために時間を割いた。その事実が、葛城の中では決定打だった。
「俺はそんな赤司だからこそ、クラスを率いてほしいと思っている。皆はどうだ?」
反対意見はなかった。
反対する理由が、ないのではない。だが、少なくとも今この教室にいる生徒たちの多くは、赤司の模擬テストのおかげで結果を出していた。直接的な恩があった。無視できるものではない。
そのうえ、赤司の実力と存在感は、すでに教室内でひとつの秩序を生み始めている。葛城の言葉は、その流れを明確な形へ押し出したに過ぎなかった。
葛城は教室の反応を見渡し、そして赤司に向かって静かに問いかけた。
「引き受けてくれるか、赤司?」
赤司はしばし黙っていた。
やがて、静かに立ち上がる。
「――ああ、分かった」
その返答は、短い。だが、教室の誰もがそこに決意を聞いた。
葛城が教壇の前を降りる。赤司が前へ出る。二人の位置が入れ替わるその瞬間、まるで王位が継承されたかのようだった。
壇上に立つ赤司の姿は、静かで、それでいて目を逸らせない。葛城が築いていた土台の上に、別の重さが重なっていく。
赤司は教室を見渡した。
「では改めて。葛城からリーダーを任されることになった。だが俺がリーダーには相応しくない、本心ではそう思う者もいる筈だ」
その声は落ち着いていた。だが、余計な飾りがないぶん、真っ直ぐに届く。
教室の半数はすでに赤司へ傾いている。残る半数は、まだ様子を見ている。特に、坂柳有栖を慕う者たちは、すんなり受け入れるとは限らない。赤司はそのことを理解していた。理解したうえで問うた。
すると、坂柳が静かに手を挙げた。
「何かな?坂柳」
赤司が穏やかな声で促すと、彼女は薄く笑った。柔らかい弧を描く唇とは裏腹に、その瞳は冷たく、そして鋭い。
「ふふ、一つ疑問がありまして。先ほどの葛城君の言葉から赤司君がクラスのために労を惜しまない事は分かりました。ですが貴方は多忙の身。そんな状態でクラスを率いていくことが本当にできるのでしょうか?」
もっともな疑問だった。
現に赤司は、多忙ゆえに勉強会の時間を十分に確保できないこともあった。誰よりも仕事を抱え、誰よりも走り回っている。その事実を、坂柳は見逃していない。いや、見逃さないためにこそ、この問いを投げたのだろう。
赤司はすぐには答えなかった。少しだけ視線を教室へ走らせる。
「坂柳の疑問は当然のものだろう。確かに事実として、クラスのために時間を割けないこともある。だが、このクラスの皆は強く聡い。リーダーが常に寄り添っていなければ立っていられない、そんな者達ではないだろう。そう君たちを信頼している」
その言葉は、命令ではなかった。
信頼だった。
言われた側は、まず驚く。だが、そのあとに小さな誇りが灯る。
自分は頼られているのだと、自分たちは弱くないのだと、赤司は自然な形で示していた。教室に流れる空気が、徐々に変わっていく。赤司の言葉には、彼が実際に結果を出してきたからこその重みがあった。
「だが、それでも不安な時、辛い時はあるだろう。その時は遠慮なく頼って欲しい。必ず力になる。何より、このクラスが勝者であり続けるために最善を尽くすと約束しよう」
その瞬間、いくつもの視線が赤司へ吸い寄せられた。
強さを示し、同時に支えると告げる。支配ではなく、責任としてのリーダー。そういう姿勢に、教室の多くが無意識に惹きつけられていく。
葛城が選んだのは、単に優秀な男ではない。クラスを勝たせるための芯を持ち、それを行動で示してきた男だった。
赤司はそこで一度、胸に手を当てた。
「だが、もしこのクラスがBクラスに落ちることがあったら全責任を負って速やかにリーダーの座を降りよう。そして――」
教室の空気が、かすかに冷える。
赤司の表情は、いつも通り穏やかだった。けれど、長く彼を見てきた者だけが、その奥にある歪さを感じ取る。赤司は言葉を続けた。
「自らこの学校を去ると約束しよう」
多くの生徒は、その言葉を潔い覚悟として受け止めた。これだけの決意を示す者なら、自分たちの先頭に立つのに相応しい、と。
だが、一部の者たちは気づく。
あまりにも静かすぎる断言だったことに。
あまりにも迷いなく、退学を口にしたことに。
その笑顔の裏に潜む、折れない狂気のようなものに。
坂柳は一瞬だけ目を細めたが、何も言わない。ただ、その沈黙が、彼女の中でも何かを測っている証だった。
その場では、赤司の推薦は決まった。
教室の輪は、ゆっくりとひとつにまとまっていく。完全ではない。だが、確かに赤司を中心として重心が動き始めていた。
♢
中間テストを終え、五月が過ぎた。
Aクラスは平穏な六月を迎えていた。
隣のBクラスでは一部の生徒がCクラスから嫌がらせを受けているという噂も耳に入ったが、Aクラスの面々にとっては遠い出来事だった。少なくとも、この時点では、赤司の率いるクラスは安定しているように見えた。
そして高育の男子バスケ部は、静かに快進撃を続けていた。
初戦の新協学園高校との試合こそ、セネガル人留学生パパ・ンバイ・シキの強烈なインサイドに苦戦を強いられたが、後半に入ると流れは一変する。須藤がディフェンスで粘り、相手の圧力を受け止める。挑発を浴びても、須藤は折れなかった。
赤司はその隙を逃さず、淡々と点を重ねていく。試合が終わる頃には、相手の勢いは完全に削がれ、高育が圧倒していた。
その後の試合も危なげなく進む。
一戦ごとに、赤司の存在は大きくなっていく。試合の流れを見抜く目、仲間を活かす判断、相手の長所を削ぐ対応。勝利は、彼にとって特別な奇跡ではなかった。ただ、積み重ねるべきものが積み重なった結果だった。
決勝リーグまで勝ち進み、相手は東京三大王者と呼ばれる強豪校。
だが、赤司がいる以上、勝算は充分にある。そう思わせるだけの空気が、部の中には確かにあった。
決勝ブロックの試合は七月最初の土日に行われることになった。
全てが順調だった。
少なくとも、その時までは――。
♢
七月の初頭。梅雨が明けたばかりの空は、教室の窓の向こうで異様なほど高く、青かった。
朝の教室には、いつも通りの喧騒があった。登校直後のざわめき、席に着いた生徒たちの雑談、スマートフォン型端末を覗き込む者の小さなため息。だがその中に、ひとつだけ普段と違う違和感が混じっていた。
毎月初めに入るはずのポイントが、振り込まれていない。
Aクラスは余裕がある。すぐに困窮する者はいない。
だが、この学校では、来るべきものが来ないこと自体が不安を呼ぶ。見えないところで何かが起きている。そんな気配が、教室の底に沈殿していた。
その空気の中へ、真嶋が入ってくる。
普段は揺らがないはずの担任の足取りに、ほんのわずかな鈍りがあった。教卓まで進み、挨拶を済ませると、真嶋はひとつ息を吐く。そして、静かに告げた。
「今、トラブルがあって学年全体でポイントの支給が遅れている。すまないがもう少し待って欲しい」
教室にざわめきが走る。
とはいえ、切羽詰まった反応ではない。Aクラスの面々には一定のプライベートポイントがある。日々の生活に困るほどではない。
だが、赤司はその言葉に、別の何かを感じていた。トラブル。学年全体。遅延。どれも漠然としているが、真嶋がわざわざこうして説明に来たということ自体が不自然だった。
赤司の目が、わずかに細くなる。
その視線に気づいたのか、真嶋は言葉を切り替えた。
「赤司」
教室の空気が変わる。
「これから職員室に一緒に来てもらいたい。お前に話を聞かなければいけないことがある」
真嶋の表情は複雑だった。困惑でもなく、怒りでもなく、何かを確かめようとしている顔だった。
赤司は立ち上がる前に、教室全体を一度だけ見渡す。目の前のざわつきの奥に、まだ何も知らない生徒たちの顔がある。
そして、赤司は無言で席を立った。
廊下へ出ると、校舎の空気は教室よりも乾いていた。
真嶋は何も言わず、赤司を先導する。やがて職員室の前に着く。その扉を開けた瞬間、職員達の目は不穏なものであった。
職員室そのものの空気も重苦しい。その中で真嶋は自身の席に着いた後、赤司に対して静かに口を開いた。
「昨晩、男子バスケ部の部室でタバコの吸い殻が発見された」
その一言が、七月の静かな青空を、まるごと濁らせた。