宣戦
「昨晩、男子バスケ部の部室でタバコの吸い殻が発見された」
真嶋智也は、そう言ってから一度だけ目を閉じた。
机の上に置かれた用紙には、すでにいくつかの項目が書き込まれている。
だが、その顔には明確な苛立ちも怒りもなかった。あるのは、困惑と、わずかな沈鬱だけだった。赤司はその表情を見て、真嶋がまだ断定を下していないことを理解する。
「赤司。これからお前に幾つか尋ねる。おそらく授業には遅れるだろうが、今回に関してはマイナスは無いから心配はするな。ただし、これから答えてもらうことは学校に報告をする情報だ。虚偽が発覚した場合は相応の罰則があるため、注意をしてくれ」
淡々とした声音だったが、内容は重い。
真嶋は説明を終えると、用紙にペン先を置いた。調書を書く構えだ。
赤司は小さく頷く。
その仕草だけで了承を示すと、真嶋は短く息を吐いて、最初の問いを口にした。
「まず前提の話だ。お前は部室で喫煙をしたか?」
「いいえ」
即答だった。
否定に余計な間はない。真嶋の視線がほんのわずかに細くなる。
「じゃあ、誰かが吸っていたという事実を知っていたりするか?」
「いいえ」
こちらも揺れない。
真嶋は赤司の顔を見たまま、数秒ほど沈黙した。疑っているのではない。むしろ、確認しているだけだ。そう理解できる沈黙だった。
やがて真嶋は調書へ視線を落とし、書き留めながら続ける。
「分かった。では昨日の放課後からのお前の行動について教えて欲しい。なるべく詳しく教えてもらえると助かる」
「昨日はHRが終わった後、16時に部室に行き、その後体育館でバスケ部の練習に参加していました。ただ生徒会の業務も残っていたので18時前には練習を上がり、そこから生徒会室に移動しました。20時まで作業をした後、寮へと帰宅しました」
赤司は時間を区切って話した。
真嶋が何を知りたいのかを先回りしながら、必要な補足も足していく。
「18時に生徒会室に行った際には、堀北会長と橘書記が作業をしていたので、俺が生徒会室に居た事は保証してくれるでしょう。ただ20時まで生徒会室に残っていたのは自分だけですので、生徒会室を出た後の動きを証明する人物はいません」
「堀北と橘が帰宅した時間は?」
「19時過ぎでしたね」
真嶋はペンを走らせる。
その筆致は速いが、乱れはない。
赤司の証言を追ううちに、真嶋の肩の力が幾分か抜けていくのが分かった。少なくとも、彼は赤司を一方的に疑っているわけではない。
事情を聞きながら、真嶋自身もまた頭の中で組み立てているのだろう。
「では最後に、タバコを吸っていた人物。あるいは何処からそれを手に入れたかなど、心当たりがあるか?」
「無いですね」
赤司の返答に、真嶋はそこでようやくペンを止めた。
椅子の背にもたれ、ひとつ深く息を吐く。調書の紙を見つめるその横顔には、疲弊よりも安堵が濃い。
そして、赤司へ視線を戻した。
「……調書の方は以上だ。赤司、お前は本当に何も知らない。無関係だった、と言うことで大丈夫なんだよな?」
その問いは、詰問ではなかった。心配している者の確認だった。
赤司は真っすぐに返す。
「ええ、もちろんです」
真嶋はふう、と息を漏らした。ようやく胸のつかえが下りた、そんな顔だった。
少なくとも赤司の様子から、彼を重点的に疑う理由はない。そう判断したのだろう。
「真嶋先生。幾つかこちらから聞いてもいいですか?」
「ああ。だが答えられない質問もあるかもしれないとだけあらかじめ伝えておこう」
「構いません」
赤司が頷くと、真嶋も静かにうなずき返した。
ここから先は、事件そのものへ踏み込む時間だ。
「まず、発見された当時の状況について教えてください」
「昨晩22時頃、施錠の確認のため校舎内を見回りしていた教師の一人が男子バスケ部の部室に明かりがついているのを確認し、部室に入った際、テーブルの上に空き缶に入ったタバコの吸い殻が発見された」
真嶋の説明は端的だった。
部室に明かりがついていた。その一言の中に悪意の輪郭がはっきり浮かぶ。
赤司は目を細める。
誰かが見つけられることを、最初から狙っていた。
暗闇の中に隠してしまえば、ただの嫌がらせで終わる。だが、わざわざ灯りを残すことで、発見を確定させた。
事件にするための事件。疑いを生むための仕掛けだ。
「部室の施錠どうなっていましたか?」
「鍵は閉まっていたそうだ。だから、その教師はマスターキーを使って室内に入ったと聞いている」
カードキー。寮の個室とほぼ同じ仕組みである。
ただし部室は人の出入りを前提にしているため、オートロックではなく、開錠も施錠もカードキーで行う。
つまり、閉じていた部屋に入れるのは、鍵を持つ者か、あるいは学校側の権限を持つ者だけだ。
「カードキーのログは調べましたか?」
「ああ。それも調べた。19時過ぎに施錠のログが残っていて、その後、22時のマスターキーでの開錠が記録されている」
真嶋はそう言いながら、わずかに眉間を寄せた。
赤司はその時刻を頭の中で反芻する。19時過ぎ。部活が終わり、部員たちが帰り始める頃合いだ。
誰かが最後に戸締まりをした。そして、その後に部室は閉じられたままになっていた。
「これはお前にだから言うが……施錠の時刻のあたりで、19時20分頃に部室棟近くの監視カメラに須藤 健が一人で帰る姿が映っていた」
真嶋の声は、そこで少しだけ重くなった。
須藤健。
バスケ部の中でも、もっとも粗暴な印象を残してきた男。
最近は落ち着きを見せているとはいえ、入学当初の悪印象は根強い。何かあれば真っ先に疑われる立場にいるのも無理はなかった。
そして彼は、今週の鍵当番でもある。
それだけで、疑念は十分に積み上がる。
「そうですか。今、部室の状態を見ることは難しいですか?」
「ああ。このような場合、現場を当時の状況のまま保護するように指示されている。生徒は誰も部室に入ることはできない。加えて証拠品であるタバコの吸い殻、これに関しても当事者であるお前達が確認することは許されないだろう」
赤司は小さく息を吐いた。それは当然の措置だった。
容疑が生徒全員に及んでいる以上、証拠品への接触を禁じるのは妥当である。
不用意な動きは、証拠隠滅と見なされかねない。
「だが誰も名乗り出なかった場合、吸い殻に関しては外部の機関に委託して、検査をすることが決定している。1週間も待っていれば、お前の無実は確実なものになるはずだ」
一週間。
赤司の表情が、ほんの僅かに陰る。短いようで長い。
そして、バスケ部にとっては致命的な長さでもあった。
真嶋はその反応を見て、静かに言葉を継ぐ。
「お前達が大会期間であることは十分に理解している。だが事が事だ。事態が明るみになるまではバスケ部は活動休止にせざるを得ない。今週の決勝は諦めろ」
今日は七月一日の火曜日。決勝リーグは七月五日の土曜日から始まる。
時間がない。だが、まだ完全に閉じたわけではない。
「大会委員会には既に棄権すると連絡をしているんでしょうか?」
「いや、おそらくまだだろう。事情を聞いた生徒はキャプテンであるお前が最初だ。今日一日かけて各担任が一人ずつ部員の生徒から話を聞いていく手筈となっている。バスケ部の成績を考慮しての話だが、個人の生徒にのみ問題があったと発覚すれば、その生徒に指導をして、後の者は注意のみで終わる。そうなればバスケ部そのものの活動停止は解かれるからな」
個人の問題であれば、部全体は助かる。
つまり、最初に赤司へ話が来たのは、全体処分を決める前の確認ということだ。まだ猶予はある。
だが、猶予の長さは事件の重さに比例していない。
赤司は一度だけ目を伏せ、それから真嶋を見た。
「学校に伝えてほしいことがあります。大会委員に棄権を伝えることをギリギリまで待ってほしい、と」
真嶋は、わずかに目を見開く。
「まさか、お前――」
「ええ。仮に部員の誰かが引き起こした問題なら、潔く今回の大会への参加は諦めましょう。ですがこれが部外の人間が仕掛けた攻撃であるなら、話は変わる。こちらが妥協するなどありえない」
真嶋は赤司の顔を見つめた。そこにあったのは、焦りではない。
冷たいほどの決意。
勝敗に関して、赤司征十郎が曖昧に譲ることはない。
そのことを、真嶋は改めて理解したのだろう。
「必ず真実を明らかにしてみせましょう」
「……出来るのか?」
「ええ」
迷いのない返答だった。
「分かった。学校には俺から掛け合っておく」
真嶋がそう言った時、職員室の空気は少しだけ軽くなっていた。
赤司は礼を述べ、椅子から立ち上がる。
背後から向けられる複数の視線は、依然として鋭い。だが、それは疑いではない。
事件を起こした何者かに向けられるべき視線を、彼らはまだ赤司へも分配しているだけだ。
赤司は静かに職員室を出た。
廊下へ出ると、教師たちの視線は途端に遠のく。
代わりに、真っ白な壁と、等間隔に並ぶ窓の光が目に入る。赤司は歩きながら、先ほどの会話を反芻した。
部室の明かり。
施錠のログ。
マスターキー。
そして、須藤健。
だが、それだけでは足りない。
バスケ部員の誰かが犯人だとしても、吸い殻をどうやって持ち込んだのかが説明できなければならない。
逆に、外部の者が仕掛けたとしても、どうやって部室へ侵入したのかが問題になる。
容疑は内と外の両方に広がっている。
意図的だ。
その広がりこそが罠なのだろう。
しかし、なぜ今事件が起きたのか。それを冷静に考えれば自ずと犯人の動機に結論を出すことができる。
――プライベートポイント獲得の阻止。
部活動は結果に応じてポイントが入る。大会への参加を潰せば、その収入は消える。
赤司たちが勝ち進めば得られたはずの報酬が、丸ごと霧散する。
学校の仕組みを利用した、非常に効率のいい攻撃だった。
事件は二つに分けて考えるべきだ、と赤司は判断する。
どのようにして閉ざされた部屋へ入ったか。
そして、どのようにしてタバコを手に入れたか。
後者が特に厄介だった。
この学校で物を買うにはポイントを使う。記録が残る。ならば、購入の線は薄い。
万引きか。だが、タバコは監視の厳しい商品である。可能ではあるがリスクが大き過ぎる。
考えられるのは、喫煙者の職員からの窃盗。
あるいは、ポイント以外の交渉手段による入手。
可能性はいくつかある。だが、どれも決定打には欠ける。
だが、タバコの入手経路を抑えない限り、再び同じ轍を踏む可能性がある。部室でも何処でも、タバコの吸い殻さえ置いておけば一時的な活動停止なら追い込めるのだから。
今回、解決しなければ、また次の大会で同じ手を使われる可能性がある。
その瞬間、一つの結論に達し、赤司の笑みはわずかに獰猛さを帯びた。
穏やかな、整った表情の奥で、狩る者の目が開く。
――これは、赤司征十郎に対する宣戦布告だ、と。
赤司はそう理解した。
ただのバスケ部に対する嫌がらせではない。赤司の手を止めるために仕組まれた、明確な妨害だ。
ならば返すべきは弁明ではない。勝利だ。
「――いいだろう、受けて立つ」
低く、誰にも聞こえない声が廊下に落ちる。
その背中には、職員室で見せたものよりも遥かに鋭い決意が宿っている。
牙を剥いた不届者を誅するために、赤司は静かに歩みを進めた。