帰りのホームルームは、いつもよりもざわついていた。
朝から続いていた学校全体の不穏な空気は、Dクラスにも等しく染み込んでいたが、それでも今日の教室は、単なる騒がしさとは少し質が違った。期待と不安が、同じ量だけ空気に沈んでいる。
ここ数日の努力が、ようやく目に見える形になり始めた。クラスポイントは底を突いていた状態から、ようやく87まで戻った。久々にプライベートポイントも支給される。その事実は、間違いなくクラスを浮き立たせるはずだった。
だが、その喜びは茶柱佐枝の言葉で簡単に押し潰された。
“男子バスケ部喫煙疑惑事件”についての説明がなされていく。Aクラスで担任の真嶋が行った内容と大きくは変わらなかった。
だが、茶柱は最後に、わざとらしいほどゆっくりと唇を歪めた。
「非常に残念なことに、我がクラスの須藤がこの事件の重要参考人として扱われている」
その瞬間、教室の温度が一段下がったように感じた。
誰かが息を呑む音が聞こえた。誰かが椅子を鳴らした。須藤健は、すぐに立ち上がって机を叩きそうな勢いで茶柱を睨みつけた。
「何度も言ってるだろ、俺はやってねぇッ!」
「そう言っても状況証拠からはお前が一番可能性が高い」
茶柱は、冷ややかだった。感情をぶつける須藤に対しても、まるで砂を払うような仕草で言葉を返す。須藤の怒りは収まらず、隣近所の生徒たちは困惑を隠せない。
だが茶柱はそれ以上を語らなかった。必要なだけの火種を落とすと、さっさと教室を出ていった。
その背中が消えたあとも、教室の空気は戻らなかった。
赤い字で「重要参考人」と貼られたみたいに、須藤だけが教室の中心で浮いている。これまで何度も問題児扱いされてきた男ではあるが、今回は笑い話では済まされない。もし本当に犯人として処理されれば、退学、あるいはそれに近い処分が起こりうる。
さらに、その影響は須藤個人に留まらない。バスケ部の成績、ひいてはクラスポイントにも波及する可能性がある。
Dクラスがようやくつかんだ87という数字は、あまりに脆かった。
綾小路清隆は、騒然とする教室の中で、ただ静かに観察していた。
須藤は今にも誰かを殴りそうな顔で教卓の近くに立っている。
平田洋介は困ったように周囲を宥め、櫛田桔梗はすでに周囲の空気を読み取りながら、どう言葉をかけるべきかを探っていた。
池や山内と言った須藤の友人も顔を見合わせて落ち着かない様子だ。
そして、その沈黙を破ったのは、堀北鈴音だった。
綾小路の横の席から、短く、鋭い声が飛ぶ。
「――行くわよ、綾小路くん」
「んん?」
有無を言わせない動きだった。綾小路が返事をするより先に、堀北は立ち上がり、須藤の方へ歩き出している。綾小路は一拍遅れて、その後を追った。
須藤のもとへ着くと、堀北は遠慮のない視線で彼を見上げた。怒りを抑え込んでいるというより、怒りをそのまま刃物みたいに整えている顔だった。
須藤は、クラスメイトに向けて必死に弁明していた。だが彼の説明は、時系列が曖昧で、状況の切り分けも甘い。何が先で何が後か、どこまでが確認した事実なのかが曖昧で、感情が先に走ってしまっている。聞いている側が冷静なら冷静であるほど、余計に情報がぼやけていく。
結局、分かったのはひとつだけだ。
部室に吸い殻があった、と言うこと。
つまり、須藤以外の部員にも疑いは向く。少なくとも、「須藤だけが確定で怪しい」と断定するには材料が足りない。
堀北はそこで、唯一知っているバスケ部員の顔を思い出したようだった。
「――赤司君。彼を今すぐ呼び出しなさい。詳しい話を聞くわ」
「お、おう」
須藤は、あまり深く考えている様子もなく頷いた。こういう時の彼は、単純なようでいて、誰よりも追い詰められているのが分かる。
しかし、赤司へ連絡はすぐにはつかなかった。
その間、Dクラスは須藤の無罪を信じるかどうかに関係なく、できることをするしかなかった。
平田が中心となり、櫛田が補助に回り、各グループに分かれて聞き込みをする。須藤本人は、目立ちすぎるという理由で動かさない。堀北、綾小路、そして須藤の三人は、赤司からの返答を待つことになった。
その頃、赤司征十郎はCクラスで小宮と近藤から話を聞いていた。そのあとDクラスの牧田へ連絡を取り、Dクラスに赴くのだが、堀北達とは綺麗にすれ違う形となった。
ようやく赤司から須藤へメッセージが届いたのは、それから一時間半ほど経った頃だった。
綾小路の部屋で合流する手筈が整えられ、四人が同じ空間に揃う。
薄い空気の中で、須藤は落ち着かず、堀北はそれを見てさらに苛立ちを募らせていた。綾小路は、部屋の椅子に腰掛けながら、その様子を静かに見ていた。
堀北鈴音は赤司に目を合わせた際、開口一番に次のように述べた。
「――遅い。あまりに遅すぎるわ。自分のチームメイトが窮地に追い込まれている状況で貴方はいったい何をしているのかしら」
その目は鋭いままだった。赤司が来たからといって、簡単に収まるような感情ではない。そこには事件への苛立ちだけでなく、別の感情も乗っているのだが――。
赤司は、彼女の圧を受け流すように穏やかに言った。
「部員達の話を聞いて回っていてね。どうしても須藤には時間を取らなければ行けないだろうから、最後に回してしまったんだ」
「あ、赤司っ、俺はやってねぇ、信じてくれよっ!」
須藤は、赤司の顔を見た途端に縋るような声を出した。そこには、先ほどまでの荒さとは別の、露骨な不安が混じっている。何かを隠しているというより、何かを言い切れずにいる者の顔だった。
だが赤司は、少しも揺れなかった。
「勿論、信じているさ」
「ッ……!」
須藤の表情が崩れる。目元がわずかに濡れたように見えた。単純な男ではあるが、信じてもらえるかどうかで、これほどまでに顔色が変わるのだから、やはり追い詰められていたのだろう。
だが、そんな感動の流れを平然と断ち切るのが堀北鈴音という女だった。
「そこまで言い切るのなら、彼を信じられる根拠があるのでしょうね?」
冷たい声だった。
赤司は、彼女の挑発に顔色を変えない。むしろ、その程度の刺し違えでは痛くも痒くもないと言わんばかりの穏やかさで頷く。
「客観的な事実から見れば須藤が最も怪しいことは否定しない。だが全体像を知れば話は変わる。須藤、お前も色々と思うところはあるだろうが、二人に一度、俺の持つ情報を説明させてほしい。お前の話はその後に聞く」
「お、おう。分かった」
堀北も反論しなかった。無言のまま、説明を促す姿勢に入る。
赤司は淡々と、しかし決して機械的ではない声で話し始めた。
教員が夜の見回りを行ったのは22時頃だったこと。
部室の明かりが点いており、しかも鍵が閉まっていたこと。
マスターキーで開錠したところ、部室内のテーブルの上に吸い殻があったこと。
そして、当日の鍵当番が須藤であり、部員の最後に彼が帰宅している様子が近くのカメラに映っていたこと。
そうした点を聞いた堀北は、静かに眉をひそめた。
「……それを聞いて彼が犯人じゃないと言える要素がどこにあるのかしら」
「そうだね。ただ考えてほしい、なぜこの時期にこんな出来事が起きた? 君たちも須藤のバスケに対する思いはよく知っているはずだ。そんな彼が大会期間中にも関わらず、喫煙をすると思えるかい?」
“大会期間中”。その言葉に、綾小路の肩がほんの僅かに動いた。赤司と同じ方向の推理に、ほぼ辿り着いたのだろう。
しかし堀北はなおも冷静だった。
「……プロのアスリートでも喫煙者はいるわ。心身の有害性は兎も角として、大会期間中という精神的な負荷がかかる状況で、ストレス発散のために手を伸ばしてしまったと言う可能性は否定できないわ」
「入手が極めて難しく、かつ退学のリスクがあるこの環境でか?」
「……そうね。いくら何でもそこまで愚かではないわね。と言うより、そもそも彼にこの環境下でタバコを入手するという道筋が想像つかない」
堀北は、そこでようやく自分の中の結論を一段階引き下げた。
赤司はさらに言葉を重ねる。
「ちなみに、男子バスケ部の現状の成績は知っているか?」
綾小路にも目を向けながら問う。綾小路は首を振り、堀北も短く答えた。
「勝ち進んでいるとは聞いているけど、具体的な順位は知らないわ」
「東京都ベスト4。そして今週末に全国大会を賭けた決勝リーグが行われる。ちなみに高育の過去の最高成績は東京都ベスト8。既に新しい記録を作っている状況なわけだ」
二人は、思わず僅かに目を見開いた。
須藤の方は、なぜか鼻高々な顔をしている。だがその結果が霧散しかねない状況で、その誇らしさを前面に出されると、逆に滑稽だった。
堀北は、赤司の意図をようやく掴んだように目を細める。
「それは随分な成績ね……成る程、つまり今回の件は貴方達バスケ部員に入るはずのプライベートポイントを阻止するために図られたと言いたいのね」
仕掛けた人間の動機から逆算して堀北は考え始める。
「そう考えるなら、バスケ部の部員が事件を故意に引き起こしたとは考えにくいわね」
「ああ。だが一つ訂正しておくなら可能性は0では無い」
「……どういうことかしら」
堀北の声に、微かな苛立ちが混じる。赤司はそこに構わず、淡々と分析を続けた。
「プライベートポイントの支給額は部員内で一律ではない。この学校が実力主義を謳っているように、収めた成績に対する貢献度が高い順にポイントの額は変わる」
「貢献度の順と言っても、必ずしも数字で測れるものではないでしょう?」
「ああ。これはおそらくだがポイントの支給額は、レギュラー、ベンチ、ベンチ外、この様な程度の括り分けがされるんだろう。キャプテンなどの役割を担っていれば多少の補正はかかるんだろうけどね。重要なのは実際に試合には出場していないベンチ外の者達が貰えるポイントだ。この学校の性質を考慮するなら非常に少ないものだろう」
綾小路は無言のまま聞いていた。
赤司の論理は整っている。部活動の成績が、そのまま部員全員の利益に直結するようでは、学校の実力主義は崩れる。だからこそ、貢献度による差はあるはずだ。もし部に所属しているだけで一定量のポイントがもらえるなら、幽霊部員が続出する。赤司の推測は、理屈として無理がない。
「うちの部の一年生の場合、俺と須藤がレギュラーで、君達のクラスの牧田がベンチにいる。その一方でCクラスの小宮と近藤は今回の大会ではベンチ外だ。あとの上級生は皆ベンチには入っている」
「クラス単位で考えるならCクラスにとって今回の事件はそこまでマイナスではない、と言うことね。逆にAクラスとDクラスにとっては大き過ぎる痛手だわ」
堀北は、そこで一歩踏み込んだ。
「さっき部員に話を聞いたと言ったわね。その小宮と近藤という生徒には当然、話は聞いたのよね」
「ああ。だが、二人にはほぼ確実なアリバイがある。そして俺の所感だが、二人はこの件に関しては無実だと思っていい」
綾小路は、その言葉を聞いて少しだけ考え込んだ。赤司はそれを見て、わずかに口元を緩める。
堀北は逆に、表情を冷やした。
「……そうなると振り出しじゃないかしら。容疑者がバスケ部員以外の全校生徒に広がっただけよ」
「そうかもしれないね。だから須藤に話を聞きに来たんだ。須藤、お前が帰宅する前の状況から教えてほしい」
赤司に促され、須藤はようやく事の経緯を話し始めた。
「あの時、18時ぐらいに練習が終わったろ? そっから1時間ぐらい俺はシュート練してたんだ。それから上がったんだ。俺が部室に戻った時には先輩達が着替え終わってて、すれ違いで俺が中で着替えて、最後に部室を出たんだが――」
そこまで言って、須藤は口を閉ざした。言いたくないことを思い出したような顔だった。視線を逸らし、少しだけ唇を噛む。
「…………実はその時、鍵が無くてよ。鍵閉めずにそのまま帰っちまったんだ」
その告白に、三人が同時に驚きを示した。
「貴方、本気で言ってるの? 普通、そんな状況を放置して帰らないわ。非常識にも程があるわよ」
堀北の言葉は鋭い。容赦がない。須藤は「うっ」と喉を詰まらせながら、弱々しく言い訳を返す。
「けどよぉ、練習中は鍵なんて閉めてないんだぜ? だから一晩ほっといたからってこんな事になるなんて思わねぇよ。第一、練習でクタクタだったしよ――」
「須藤」
赤司が、低く名を呼ぶ。それだけで空気が冷えた。
須藤の肩がびくりと跳ねる。だが赤司は、怒鳴るでもなく責めるでもなく、ただ静かに言った。
「次から同じようなことがあれば、しっかり報告しろ。いいな?」
「お、おう。わりぃ」
赤司のあっさりした対応に、須藤は逆に怯えたようだった。
「けど、こんなタイミング無くすなんてあり得ねぇだろ? だからきっと鍵は誰かに盗まれたんだ、そうに違いねぇ!」
「おそらく、そうでしょうね。そして鍵を盗んだ人間と今回の件を引き起こした人間が同一人物なら、密室化された部室の謎も明らかよ」
堀北はすぐにそう返した。
須藤が鍵を閉め忘れたまま帰宅した。そして、その晩には、部室は施錠されていた。ならば須藤の帰宅後に誰かが侵入して吸い殻を置き、鍵を施錠したと考えるのが自然だ。
しかし、赤司と綾小路は、同じような仕草で顎に触れていた。
言いようのない違和感を感じていた。
赤司が須藤を見る。
「須藤、一つ聞く」
「何だ、赤司?」
「部室の窓は鍵を閉めて帰ったか? 裏手側の方だ」
「ああ、閉めて帰ったぜ。前に開けっぱなしにして赤司に怒られたからな。言っとくが電気も消して帰ったぞ。もう忘れねぇよ」
その答えで、ひとつの可能性が大きく崩れた。
バスケ部の部室にはエアコンがない。夏場は二つある窓を開けて風を通すことがある。しかも裏手側の窓は、人がちょうど侵入できる大きさだ。部室棟の裏は監視カメラも少なく、死角が多い。画角を把握していれば、映らずに侵入することも不可能ではない。
だが、窓が閉まっていたのなら、その線は断たれる。
須藤の言葉が間違いないのであれば犯人は入口から入ってきて、カードキーで施錠して帰って行った事になる、が――。
赤司は自身の端末がメッセージの受信のために揺れたことを確認し、取り出して画面を開く。
そこに記されていたのは――。