17時丁度。
多目的室では、“バスケ部喫煙疑惑事件”の審議が始まった。
「――では、まず今回の一件に関する概要をこちらから説明させていただきます」
その声は、騒めきを押し戻すには十分だった。
室内が静まる。
「本件は、男子バスケットボール部の部室において、タバコの吸い殻が発見されたことから始まっています。発見時刻は22時。校舎内の見回りを行っていた教員が、施錠された部室内に吸い殻があることを確認しました。最後にその部室へ出入りしたのは、男子バスケットボール部の部員であると推定されています」
橘の説明は簡潔だった。
感情を交えず、推測を断じず、ただ事実と記録だけを並べる。だが、そこにはすでに十分な圧があった。施錠された密室。吸い殻。最後の出入りは部員。要するに、疑いは一つの方向へ収束している。
「――以上の点を踏まえ、学校としては男子バスケットボール部の部員内で喫煙の嫌疑があると考え、暫定的に活動停止の処分を下しました」
橘はそこで一度言葉を切り、赤司を見た。
正面から、まっすぐに。
「赤司くんは、学校に対しこの処分への不服を申し立てた、と言う認識で間違いありませんか?」
赤司は少しも迷わずに答える。
「ええ。私たち男子バスケット部はこの喫煙疑惑事件に対する完全無罪を主張します」
声は澄んでいて、強かった。
よどみのない断言に、須藤がわずかに肩を跳ねさせる。橘は小さく頷き、続ける。
「これより貴方には自分達の無実を示すための主張をしていただきます。必要に応じてこちらから質疑をしたり、あるいは審議に関係のない議論を中断する場合があります」
淡々とした説明だったが、その一語一語には、生徒会としての権限が明確に刻まれていた。
橘は続けて南雲に視線を向ける。
その動きだけで、場の空気が僅かに尖る。
「貴方の主張が終わり次第、この審議の立会人である南雲 雅副会長が最終的な判決を下します。この決定は学校より生徒会に委ねられた権限に基づき、公正な判断のもとなされるものです。予めご理解ください。では、よろしくお願いします」
言い終えて、橘は自席へと戻っていく。
静かな足音が一歩ごとに薄れていくのを聞きながら、赤司は正面へと向き直った。
南雲雅。
端正な顔立ちに、余裕を張りつかせたような笑みを浮かべる男。見下ろす角度に慣れた者の座り方だった。赤司はその視線を真正面から受け止める。
そして、口を開いた。
「――今回の一件。なぜバスケ部の生徒が疑われているのか。理由は簡単、施錠されたバスケ部の部室の中で吸い殻が発見されたからでしょう」
言葉は軽い。
だが、軽さの奥にある刃は鋭い。
「部室の扉の施錠はカードキーで行われている。カードキーを管理している部員が疑われるのは必然と言える。事件当日にカードキーを預かっていた彼――須藤 健が重要参考人にされるのも仕方のないことと言えるでしょう」
須藤の顔が一気に青ざめる。
自分を庇うどころか、最初の一撃で自分の首を締め上げられたように感じたのだろう。赤司はそこへ視線を向けることもなく、ただ淡々と続けた。
「それはつまり、今回の件は部員一人の問題だと言いたいのか?」
南雲の問いは、わざとらしく穏やかだった。
赤司は首を振る。
「いいえ。須藤の聴取の際の証言は聞いていますか?」
「ああ。当日の夜、カードキーが無かったと言う話だろう? だが、その時に申告しなかった以上、嫌疑を逃れるための言い訳と取らざるを得ない」
切り捨てるような返答。
須藤の顔がさらに強張る。
「ええ。カードキーの紛失に気がつきながら、それを無視して帰宅してしまったのは紛れもなく彼の落ち度でしょう。カードキーの有無はこの際、置いておくとして……事件当時、彼がカードキーを使用していなかったという事は証明できる」
「ほう」
南雲の口元に、薄い笑みが浮かぶ。
続きを促すような、余裕を見せつける笑みだった。
その瞬間、前方のモニターが切り替わる。
学内の敷地図。部室棟、体育館、監視カメラの位置が表示される。多目的室の視線が一斉にそこへ流れた。
「学内のカードキーには使用時に必ずログが記録される。そこには使用時間、カードIDと言った情報が記録されます。事件当日にカードキーのログは19時8分に施錠が確認されている。そして19時20分に須藤の姿が部室棟近くの監視カメラに確認されている」
赤司の声は、図面の上を滑るように進んだ。
「部室の出口から監視カメラの位置までは約300メートル。幼児でも10分あれば確実に歩き切れる距離を、彼は14分も後に姿を現した。それは何故か? 須藤。お前は部室から直接帰宅したのではなく、一度何処かに寄ったんじゃないか?」
問いかけられた須藤は、慌てて顔を上げた。
喉が鳴る。
「お、おう。体育館にまで行ったんだよ。もしかしたらどっかに鍵を落としちまったんじゃねぇかと思ってな。それで見つからねぇから帰っちまったんだ」
「実際、消灯されているため映像は鮮明ではありませんが、体育館内のカメラには19時10分頃に人が出入りした様子が記録されてる」
その一言で、室内に僅かなざわめきが走る。
部室からは監視カメラより離れた位置に体育館はあった。
部室と体育館の間にはおよそ500メートルの距離がある。徒歩ではおよそ5から7分かかる。
体育館で鍵を探した後、見つからずに帰宅したとなれば、須藤の帰宅がカメラに映り込んでいた時間にも頷ける。彼の行動と時間の整合性が取れる。
南雲が少しだけ顎を上げる。
「19時10分に体育館にいた彼が、その2分前に部室の施錠をしたとは考えにくい。別の誰かがカードキーを使用したと考えるべきでしょう」
「なるほどな。だが、その論理には破綻がある。一つとして体育館に立ち寄ったのが須藤である根拠が無いと言うことだ。偶々、誰かが体育館に立ち寄ったのを映像で知りでっち上げたと言う可能性がある。二つ目に距離と時間の問題だが、走って移動する事も逆に遅く移動する事もそいつ次第である事が否めない。何ら根拠にはならないだろう。そして――」
南雲は、そこでわざとらしく間を置いた。
テーブルの下から、何かを取り出す。
「三つ目、その彼が無くしたなどと言っていた、カードキーは証拠品としてこちらが回収していると言う事だ」
袋に入ったカードキー。
それを掲げた瞬間、須藤だけでなく堀北鈴音の顔にも驚きが浮かぶ。
赤司の目が僅かに細くなった。
「いったいそれは何処で発見されたんですか」
「7月1日の夕方に、コンビニのゴミ箱に捨てられていたところを店員が発見したそうだ。わざわざ届けてくれたよ。店内のカメラを確認したところ、当日に須藤健がこのコンビニを利用していることも確認されている。事件の聴取を行った日の放課後に捨てられていたことを考えるなら、証拠隠滅を図ろうとしたと考えるのが妥当と思えるがな」
南雲はカードキーを机に置かず、あえて手元で弄ぶように持ち続けた。
それは、単なる証拠ではない。
この場で赤司の論理を折るために、あらかじめ隠していた札だ。
「ですが、それは須藤がカードキーを捨てたという証拠にはなり得ないでしょう」
「まあ、そうかもな。だが可能性は十分に高いだろう? 何故なら彼は鍵を無くしたという時にはそれを誰にも告げなかったのだから」
再び、須藤へ疑念が戻る。
視線が刺さる。空気が沈む。あたかも結論はすでに決まっているかのような重さが、多目的室を覆った。
だが、赤司はそこで、ふっと笑った。
「まあ、須藤がカードキーを捨てたかどうかはこの際置いておきましょう」
その軽さに、室内が僅かに揺れる。
南雲の眉がわずかに動いた。
赤司は続ける。
今の論点が本命ではない。南雲の隠し持っている手札を見極めるために語ったに過ぎない。
「別の視点の話をしましょう。第一グラウンドから部室棟を撮影するカメラには、次のような情報が確認できます。19時3分に部室が消灯され、19時7分に再び明かりついた様子です」
映像が切り替わる。
遠景の部室棟。
光の出入りは、確かに記録されている。
「遠巻きの映像であるため、人物を確認する事はできないですが、部室の窓から明かりの判別ができる。仮に19時3分に須藤が消灯してから部室を後にし、体育館に向かったとするなら、彼の行動には整合性が取れる」
「先ほども言ったはずだが、体育館に須藤が来た根拠は――」
「ええ。ですが今回のカメラの様子と時間を考慮すれば、明かりを消し忘れたのではなく、あえて点灯させてから施錠をしていることがわかる。これは些か不可解な行動と言えるのではないでしょうか。まるで吸い殻に気がついて欲しい、そのような意図を感じる行動です」
赤司の指摘に、聴衆は同調の色を見せる。
部室の消灯を忘れることを繰り返すのも生活態度に対する学校から減点対象であった。だからこそ赤司は須藤に消し忘れないように注意をしていた事もある。
赤司の言葉は丁寧に積み上げた推論だった。
たとえ偶然でも、たとえ一つ一つは弱くても、全体として見れば不自然さが残る。
「実際、そいつが意図的に明かりをつけて帰ったのかもしれないぞ」
南雲が口を挟む。
「であれば、鍵を盗まれたなどという証言はしないでしょう」
赤司は即座に返した。
もし自ら喫煙を示唆したいなら、鍵の紛失を訴える意味は薄い。むしろ、その証言は“本人が戻った際に異変に気づいた”ことを示す材料になってしまう。
「状況が彼の証言との整合性が取れる以上、カードキーは須藤が部室を離れた後に使用された可能性が十分にあると考えるべきです」
「ふむ。なるほどな、最後に部室の施錠をおこなったのが須藤ではない可能性があるという主張には理解を示そう。だが部室内に吸い殻があったと言う事実は変わらない」
論点がずらされる。
だが、赤司は追い込まれたように見せない。
「ええ。監視カメラを見てもその時間帯に部員以外の者が部室棟に出入りしている様子は確認できなかった。監視カメラが少なく死角の多い部室棟の裏側。もしそちら側の窓の鍵が閉まっていなかったらどうでしょうか?」
赤司はそこで、意味深に口角を上げる。
そして堀北鈴音へ視線を送る。
モニターが再び切り替わった。
今度映されたのは、サッカー部の部室の写真だった。
「こちらは部室内の様子を写した写真です。と言っても映っているのはサッカー部の部室ですが」
一瞬、何を見せられているのか分からず、聴衆の間に微かな困惑が走る。
赤司はそこで、情報提供者として列席している諸岡へと目を向けた。
「諸岡さん。容疑者である私達バスケ部員が言っても説得力が無いのでお尋ねしますが、このサッカー部の部室の構造。バスケ部の部室とほぼ同じと考えているのですが、いかがですか?」
「あ、ああ。ほとんど同じ、だと思う」
急に話を振られて、諸岡は動揺を隠しきれないまま答えた。
赤司は頷く。
「ええ。実際に彼の証言通り、配置は違えど窓や扉の規格はバスケ部のものと全く一緒です。注目してほしいのはこの窓。人が潜って入るには充分な大きさの窓が一つある」
「その窓の鍵はかけたと証言しているはずだ」
「はたして本当に鍵は掛かっていたんでしょうか? 次の動画を観てみましょうか」
再生ボタンが押される。
映像の中、無人の部室に、堀北鈴音の声音が響く。
『――綾小路くん。はじめて頂戴』
すりガラスの向こうに、ぼんやりと人影が揺れる。
窓の外にいる者が、引き違い式の窓の片方をわずかに動かす。すると、何かが外れたように、施錠が少しずつ緩み、やがて窓が開いた。
頭頂部らしき影が映り込んだところで、映像は止まる。
「ご覧のように、部室の窓の施錠は簡単な細工によって外側から解除する事が可能と言うわけです」
赤司の声は静かだった。
だが、内容は容赦がない。
「方法は事前に窓の施錠の金具のネジを緩めておく事のみ。引き違い窓の施錠は半月状の鍵が金具と引っ掛かる事によってロックがされるもの。施錠した際に多少の違和感はあるが、金具を事前に緩めておけば、窓を動かす事によって開錠することが出来てしまう」
室内がざわついた。
見知らぬ誰かが、息を呑む音まで聞こえる。
「犯人は須藤が部室を去った後にこの方法で侵入し、吸い殻を置いてきた。そして内側からカードキーで扉を閉じ、窓の細工を直してから、再び窓から逃走をしたと考えています」
「では窓の鍵は閉めずに帰ったと言うことか」
「ええ。先生方はその点はそこまで気になさらなかったんでしょう。部室の電気の消し忘れ、窓の閉め忘れと言う不注意は往々にしてよくあるもの。現に私もキャプテンとして部員に何度か注意をした事がある。さらに喫煙をしていたと言う疑惑が先に浮上したのであれば、仮に窓が開いていてもそこまで不思議には思わない」
赤司は、ここで一拍置いた。
「現場保存されているとの事ですので、今も部室の窓の鍵はされていない筈です」
その確信を込めた言葉に、傍聴席の一角から教員が立ち上がり、扉へ向かった。
確認に行ったのだろう。
赤司は、その背中を見送ることさえせずに続ける。
「つまり、部員以外の者も部室に侵入する事ができ、吸い殻を置いておくことが可能だったと言う事です」
「ふっ。よくもまあ、そこまで辻褄を合わせて部員が犯人ではない方向に持っていこうとできるな。だが、お前の発言は全て可能性の話でしかない。無罪と断言できる根拠にはならない」
南雲の声音には、僅かな苛立ちが混じり始めていた。
赤司はそれを見逃さない。
「ええ、そうでしょうね。ですが我々が喫煙したと言う事も可能性の話でしかない。そもそも、タバコは一体何処から入手されたのでしょうか?」
質問という形で、赤司は論点をさらに押し広げる。
南雲は鼻で笑った。
「学生は当然ながらタバコを購入できない。店頭裏などに管理されている事がほとんどであるため、万引きも現実的ではない。あるとすれば、喫煙者の職員から盗んだと言ったところでしょうか。ですが、それもリスクが大きい。学園施設という事もあり、タバコや酒と言ったものの管理に関しては職員に対してマニュアルがあるはず。万が一学生の手に及ぶことがないようにと」
「現実的な手段として、あるとすれば犯人が吸い殻のみを用意したという方法です。こちらをご覧ください」
モニターに、いくつかの喫煙所の写真が映る。
それは葛城に依頼して撮影したものだった。目立たぬ位置、監視カメラの画角から外れた場所、動線の端に追いやられたような喫煙所。赤司はそこを指差すことなく、ただ言葉で示した。
「これは敷地内にある喫煙所の中で、比較的目立たず、動線が監視カメラの画角に収まっていない場所に置かれた喫煙所を撮影したもの。私は犯人である生徒がこのいずれかに捨てられた吸い殻を拝借して、部室に置いたと考えている」
ざわめきが大きくなる。
もしそれが本当なら、吸い殻の存在は喫煙の証明ではない。喫煙者の痕跡を悪用した偽装に過ぎなくなる。
「面白い方法だな。だが、監視カメラに収まっていない以上、それもまた可能性の話だ」
しかし赤司の証言を南雲は冷たい言葉で切り捨てた。
「今、証拠品であるタバコは外部機関に検査に出されているそうですね。私達バスケ部員一同は唾液の採取などに協力した。かつ部室のロッカーなどもおそらく確認されているでしょう。それでも明確な証拠が出てこなかった。私達がここまで協力的な姿勢を取っているのはひとえに喫煙など一切していないからだ」
赤司の声に、ほんの僅かだけ温度が加わる。
冷静な論理の中に、確かな訴えが混ざる。
「何より私たちは真面目に部活動に励み、そして結果も上げている最中。ここでこのようなトラブルを起こす事に私たちに一体どんなメリットがあるのでしょうか」
この一文で、場の空気がわずかに変わった。
疑いを向ける者の中にも、“わざわざ今、この部がそんなことをする必要があるのか”と考え始めた者が出る。赤司はそこへ畳みかける。
「一方でこの学校の独自のシステムがあるのも事実。私たちは結果を残していて、一定以上のポイントの支給が約束されている身。それを疎ましく思う者もいるでしょう。この学校におけるポイントの価値を皆が理解しているからです」
言葉は穏やかだが、その意味は鋭い。
疑惑が事実だとしても、得をするのは誰か。
被害を受けるのは誰か。
そして、誰がそれを望むのか。
「私達は容疑者である可能性、そして被害者である可能性、これがどちらもあるというの事実。それでも私達が真摯にこの問題に向き合っていることを考慮し、学校には寛大な対応を求めたいと思います」
そこで赤司は、わずかに頭を下げた。
その姿勢は、先ほどまでの断言とは異なる。あくまで冷静な協力要請に見えるだろう。だが、実際には違う。ここで必要なのは、南雲一人を屈服させることではない。周囲の空気を動かすことだった。
聴衆の視線が南雲へ集まる。
南雲は一瞬だけそれを眺め、そして赤司へ視線を戻した。
「ああ。確かにお前が提出した証拠が事実であれば、男子バスケ部が
声音は優しい。まるで公正な判断者を演じるように、南雲は言葉を続ける。
「君たちの容疑が覆ることが無い以上、活動停止を解除することはできない。よって証拠品の検査結果が出るまで、部の活動停止は継続する」
南雲の宣告に、堀北鈴音が目を見開く。
「なっ」
それは彼女だけではない。須藤と言ったバスケ部の部員も傍聴席の生徒たちも同じだった。
だが、南雲の判断は一見すると極端に不当とは言い切れない。決定を保留にする、というだけなら、公正ぶった顔でいくらでも言える。
「審議は以上だ。ご苦労だったな、赤司」
ニヤついた笑み。
この場は終わった、と言いたげな声だった。
時刻は17時30分を少し回った頃。
誰もが、そう思ったはずだった。
審議が終わった。
決着がついた。
男子バスケ部の活動停止は、ひとまず継続だ。
そう理解した、その瞬間。
赤司は、頭を下げたまま静かに笑っていた。
「――では、私達が被害者の可能性があると言うことなので。これから本当の審議に入りましょうか、堀北会長」
顔を上げた赤司が、傍聴席にいる堀北学へ向かって告げる。
「は?」
南雲の声が、初めて間の抜けたものになった。
多目的室の空気が一瞬で凍る。
須藤が目を丸くし、堀北鈴音が硬直し、橘さえ僅かに息を止めた。
赤司は端末を取り出す。
画面に映したのは、生徒会からの連絡が記された掲示板だった。
「今日の17時半から予定されていた、“喫煙
南雲は慌てて自分の端末を確認する。
その顔色が、目に見えて変わった。
掲示板には、先ほどまで存在していたはずの審議予定が消えている。
本来そこには、男子バスケ部の喫煙疑惑が議題として上がること、そして南雲の名前が立会人として記されていた。
だが、今見えるのは別の予定だった。
17時30分から。
議題は“喫煙偽装事件”。
立会人は堀北学。
つまり、この場で今まで行われていたのは、学校公式の審議ではない。
正式な場を装って、ただ人を集めた会合に過ぎなかったのである。
「貴方もよく知っているでしょう? このような審議は申請者の側からキャンセルすることができる。多少のポイントは払いますがね」
「だ、だが審議の可決には学校側の承認がいる。いつ、お前は新しい審議を学校に提出した!?」
南雲の声音が荒れる。
それは、先ほどまでの余裕が完全に崩れた証だった。
「つい先ほど30分ほど前ですね。学校側にはこれまでの説明をして、私達が被害者である可能性を考慮していただきました。明日までには解決したい事案ですので急遽、審議を組んでいただいたんですよ。丁度、審議のキャンセルがあったので、場所と時間は確保できますしね」
赤司は、微笑んだ。
勝ちを確信した者の、それでいて驕りのない微笑だった。
「お陰でこの場に着くのが一番最後になってしまった。とにかくこの新しい審議の立会人は堀北会長にお願いしているので、南雲副会長はお帰りいただいて構いませんよ」
その言葉は、丁寧でありながら残酷だった。
なぜ赤司が、ここまで面倒な手順を踏んだのか。
理由は単純だ。
南雲に向かっていくら言葉を積み上げても、判決は覆らないと最初から知っていたからだ。
それだけではない。この事件の影響でプライベートポイントの支給が遅れた。その結果、学校中のヘイトがバスケ部に集中していた。
だが、ここには南雲の提案によって学年を問わず多くの生徒が集まっている。彼らが実は被害者であった、という空気を作り出すことができると言う事だ。
審議の場ではなく、目撃者のいる公開の場として。
バスケ部は加害者ではなく、被害者かもしれないと、ここで全員に植え付けるために。
被害者の側という前提があれば、次の審議に移ることができる。
堀北学が、静かに傍聴席を立つ。
南雲のいる方へ向かっていくその背中には、無言の圧があった。
南雲は僅かに顔を歪める。屈辱だろう。赤司の言葉が事実なら、自分は意味のない茶番のために、あたかも勝者のように振る舞っていたことになる。
「やってくれましたね、堀北センパイ」
「全ては赤司の狙いだ。俺は後から審議の立会人を頼まれただけだ」
堀北学は、淡々と返した。
その声音には、責める色も、感情の揺れもない。
南雲は舌打ちし、堀北に席を譲る。
そのまま赤司へと近づき、二人にしか聞こえないような声で囁いた。
「……よくも嵌めてくれたな。舐めたマネしてくれたな、クソガキ」
赤司は目を逸らさず、静かに返す。
「先に仕掛けたのはそちらでしょう?」
短いやり取り。
だが、そこには十分すぎるほどの棘があった。
南雲はそれ以上言わず、苛立ちを露骨に浮かべたまま多目的室を後にする。
赤司はその背中を追わない。ここで南雲を完全に追い込むことはできないと分かっているからだ。今日必要だったのは、敗走させることではない。彼を舞台から退かせることであった。
堀北学が席に着くと、室内の空気がようやく整い始める。
彼は前を見据えたまま、静かに告げた。
「本件も傍聴席が用意されている。時間の許す者はそのまま留まってもらって構わない」
その言葉に、いくつかの生徒が席を立つ。
南雲の息のかかった者たちだろう。
彼らは逃げるように扉へ向かうが、誰も引き留めない。もうここからは、勝敗を決めるための場に変わっている。
堀北学は、赤司へ一度だけ視線を向けた。
そこにあったのは感謝でも称賛でもない。ただ、ようやく本番に入ったという認識だ。
「――これより、男子バスケ部喫煙偽装事件の審議を始める」
その一言で、空気が完全に切り替わる。
先ほどまでの会合は、ただの前座だった。
本当の審議が、今ようやく幕を開ける。
赤司は、胸の奥で静かに息を吐く。
場は整った。後は、刈り取るのみ。
彼の唇に、薄い笑みが宿る。
その笑みは、誰にも見えないほど静かで、けれど確かに勝者の側に立つ者のものだった。