本当の審議の場が幕を開けた。
立会人である堀北学は鋭い視線を向ける先には、二つに分たれた席があった。
堀北学から向かって右には諸岡が座る。
彼の顔には、まだどこか信じられないという色が残っている。つい先ほどまで、自分は情報提供者として呼ばれたに過ぎないと思っていたはずだった。だが、今の座り位置が、今の空気が、今の視線が、その楽観を許さない。
そして赤司征十郎は、諸岡の真正面ではなく、あえてその斜め前、堀北鈴音の横に腰を下ろしていた。
横から見ると、まるで二人で一つの盤面を挟んでいるように見える。諸岡が逃げようとした先を、すでに塞いでいる配置だった。
傍聴席には、バスケ部の関係者、各クラスからの見物人、そして審議の推移を別の思惑で測ろうとする者たち。中でも、背筋を伸ばした坂柳有栖の視線は鋭い。彼女は何も言わず、ただ赤司の一挙手一投足を楽しむように見ていた。
事件の概要を簡潔に伝えた堀北学が、対面する両者へ向けてさらに説明を重ねる。
「本件における互いの主張を聞き、事態の判断をする。無論だが、今回の件は急を要するものでこそあるが、明確な確証が無ければバスケ部の停止を解除する事も、諸岡に処分が下る事もない」
その声は静かだった。だが静かであるからこそ、重い。
南雲を退けるための舞台は作るために赤司に協力した彼。
だが、あとの結果は当事者が自力で勝ち取れ。堀北学の言葉には、そんな線引きが滲んでいた。
「では、赤司から発言を許可する」
堀北学の言葉を受け、赤司が立ち上がろうとした、その時だった。
「――ちょ、待ってくれ!?俺は情報提供で呼ばれただけだ!俺が訴えられるなんておかしいだろ!?」
諸岡の声が、思った以上に大きく多目的室に響いた。
ざわめきが、傍聴席のあちこちで生まれる。
赤司は立ち上がり切る前の姿勢のまま、諸岡へ視線を送った。その瞳は、驚きも怒りもない。ただ、事実を並べる前の静けさだけがあった。
「これは学校からの正式な承認を受けた審議だ。君が一切、この事件に関係が無いとは既に学校も思ってはいないと言うことを理解した方がいい。発言をするならその上でしろ」
言葉は穏やかだった。だが、逃げ道を潰すにはそれで十分だった。
諸岡は口を開きかけ、結局、何も返せないまま黙る。
学校が無関係の人間を訴えることを許すはずがない。だが、学校が少しでも関係を疑っているなら話は別だ。赤司はその“少し”を、申請によってこの場へ引きずり出した。事実確認の場に立たせるには、それで充分だった。
赤司はそこで、ようやく完全に立ち上がる。
「――今回の一件の概要については先ほどの話し合いで把握している筈なので省かせていただきます。では、なぜ諸岡さんの名が浮上したのか。そちらを話させていただきたい」
赤司の声は、室内の隅々にまで無理なく届いた。
彼は諸岡を見たまま、続ける。
「諸岡さん。事件当日の6月30日、つまり今週の月曜の放課後はどこで何をしていましたか?」
諸岡は、数拍の間だけ黙った。逃げようとする視線が、赤司の目と交差しては逸れる。
「……時間はわかんねーけど、図書館で勉強してたよ。そんで――」
そこで、諸岡は一瞬だけ赤司を見た。そこには、何かを探るような色があった。どこまで知っているのか。どこまで織り込み済みなのか。そんな確認の色だ。
「帰りに特別棟に寄った。授業の合間に特別棟のトイレに忘れ物をしたのを思い出したんだ」
赤司はその言葉に、軽く頷いた。
「ええ。彼が18時過ぎに特別棟に立ち寄っている姿は監視カメラに収まっています。ちなみに特別棟には何を忘れられたんですか?」
「……が、学生証だ」
「成る程、学生証端末を紛失と言うのはさぞかし不安だったことでしょう。ですが、それに気がつく事なく図書館で勉強をしていたんですね」
言葉は柔らかい。だが、胸の奥へ小さく針を刺すような言い方だった。
諸岡の眉が、わずかに歪む。何かを言い返そうとしたが、赤司はその隙を与えない。
「ですが、不思議なことに特別棟の監視カメラが、次に彼を確認するのは19時15分頃でした。1時間もトイレで忘れ物を捜索されていたと言うことですか?」
「トイレだけじゃねぇ!授業の教室とか廊下とか探し回ってたんだよ!」
「なるほど、それは大変でしたね」
赤司はまるで同情しているかのように言った。だが、その同情が本心でないことは、誰の目にも明らかだった。
諸岡の呼吸が浅くなる。周囲の視線が、自分へ寄っているのがわかるからだ。
赤司は堀北鈴音へ、ほんの一瞬だけ目をやる。
それだけで彼女は意図を察した。手元の端末を操作し、資料をモニターへ送る。
「今、表示しているのは特別棟の裏手から部室棟の裏手にかけて、犯人が移動したと考える動線です」
スクリーンに校舎の平面図が映る。
特別棟の一階廊下、その一部から外へ飛び出すような線が引かれていた。そこから裏手を回り込み、部室棟の壁際を沿うように進む一本のルート。黄色い点が、監視カメラの位置として順に落とされていく。
「特別棟の廊下には監視カメラがありません。私は犯人が特別棟の一階の窓から建屋の裏手に出て、そのまま部室棟の裏側に回ってきたと考えます」
赤司の説明と共に、線はより具体的になっていく。裏手の死角、外周のカメラ、窓の配置。見ている者にも、ただの推理ではなく、実際に繋がった動線であることが伝わってきた。
「ただ建屋の外周を回り込んだ場合だと、屋外のカメラのいずれかに映り込む。一方で特別棟の廊下からショートカットすれば監視カメラに映り込むことなく部室棟の裏手に回れる。実際にこの動線の確実性に関しては、検証もしていて、監視カメラに映り込まないことは確認済みです。逆にこの動線以外はほぼ不可能と考えています」
この検証の際、綾小路はその確認役を担った。
赤司は、カメラの位置を一切教えず、ただ動線だけを示したにもかかわらず、彼は迷いなく正しいルートを取り切った。観察力と運動能力、そして状況把握の速度。
この数日の間に、綾小路清隆の能力を見極めることができたこと、それこそが最大の収穫であると赤司は考えていた。
赤司は審議の内容に思考を戻し、諸岡へ視線を向ける。
「犯行時間と推定できる18時から19時半の間に特別棟に立ち寄っていた生徒は彼ともう一人だけでした」
「もう一人とは?」
堀北学が短く問う。
「一年Dクラスの佐倉さんです。ですが彼女の姿は2階や3階でも映像で確認されている。かつ滞在時間も不自然な点はない」
赤司はそこで、端末を少し掲げた。画面には綾小路からのメッセージが表示されている。
彼に昼休みに頼んだのは、クラスメイトの佐倉から証言を引き出すことであった。成功しても失敗しても赤司からすれば誤差の範囲であったが、綾小路という人物を探る材料にはなる、と考えていた。
「彼女は多人数の前で話すのが苦手ということで、この場にて証言するのは控えてもらいました。ですが佐倉さんのクラスメイトが確認をしたところ、彼女は事件当日に特別棟で不自然な動きをしている男子生徒を見かけたと述べている」
会場の空気が、さらに引き締まる。
「彼女曰く、男子生徒が廊下の窓を開けようとしているところを見かけたとの事。無論、この証言が仮に偽証だった場合、リスクを負うことは彼女に理解してもらっていてなお話された証言です」
この場にいない佐倉という少女の証言であるが、赤司の補足により、その証言に多少なりとも価値が生まれる。
だが諸岡は、そこで必死に口を開いた。
「と、特別棟から犯人が現場に向かったっていうなら、その佐倉とか言う女だって犯人かもしれねぇだろ!?」
声は荒い。追い詰められた者の、それだった。
赤司は首を振る。
「それは不可能だ。部室棟の裏手の窓は地上から160cm近くの位置に窓枠がある。そこをよじ登るのは学年の中でも極めて身体能力が低い彼女では現実的ではない。そもそも窓からの侵入には一定以上の身体能力が必須だ」
会場のあちこちで、息を呑む音がした。
諸岡の体格と運動能力は、否定できない。元エースとして、彼は条件を満たしてしまう。だからこそ、犯人候補としての重みが彼に傾く。
「くっ……けど、南雲が言ってたろ? お前が言うのは全部、可能性の話だって。俺じゃない可能性だって十分にあるだろ!?」
赤司は、その言葉を待っていたように目を細めた。
「犯人を特定できる証拠はある」
諸岡が、目を見開く。
その反応を見て、赤司は穏やかに続けた。
「――ここ数日。梅雨も明けて天気が良かったですね。これだけの好条件ですと、指紋は案外残っていたりするものなんですよ」
それは、完全な断定ではない。
赤司自身も、その場に確実な証拠が存在するとは思っていない。だが、相手を揺さぶるには充分だった。真実に見える言葉ほど、人は弱い。
「それに部室は現場が保存されていて、貴方が侵入した痕跡は残っている。正式な調査が入れば、すぐに決着がつくことでしょう」
諸岡の顔色が、はっきりと悪くなる。
赤司はそこで、もう一段階だけ言葉を重ねた。
「正式な調査をすると言うのはそれだけ学校が費用を要すると言うこと。被ったマイナスが大きければ大きいほど、学校は処罰を大きくせざるを得ない」
自分の胸に手を当てるような仕草を、一瞬だけ見せる。
「今なら“ただのイタズラ”で終わるかもしれないことが、部室への不法侵入、窓への細工という器物損壊、カードキーの窃盗。被害届を出せば十分に刑事事件として対応してくれそうですね。ああ……ちなみに吸い殻を回収する事も状況によっては窃盗として扱われますね」
「そ、それは俺じゃ……!」
諸岡の口から、無意識に声が漏れた。
今なら終われる。軽く済むかもしれない。そう思わせれば、崩れる。
人は、追い詰められたときほど、自分を守るために真実を口にする。
「それは、ですか。では、吸い殻の回収以外は認められますか?」
「…………お、俺が、やりました……」
会場がざわつく。
諸岡は視線を下に落とし、肩を小さく震わせながら、そう言った。
赤司はそのまま、変わらない表情で問いを重ねる。
「一つ聞きたい。この計画を立案したのは貴方ですか?」
「ち、違う!これを考えたのは俺じゃない!」
即答に近い否定だった。
「では、誰が?」
諸岡はすぐに答えない。数秒の沈黙の後、目を閉じ、苦しげに吐き出した。
「分からない。一週間前に俺のカバンに指示書と容器に入った吸い殻が入ってたんだ」
「その指示書はどこに?」
「全部覚えたら捨てろって書いてあって……」
やはり、指示書は残っていない。
赤司は一度だけ息を吐き、それから堀北学へ視線を向けた。
「堀北会長。彼からはこれ以上の情報は期待できないでしょう。今回の件に関して私には一つの推察があります。この場で語っても構わないでしょうか?」
「それは審議の結果に関係することか?」
「直接は関係無いでしょう。ただ知る価値があると思いますよ。今回の計画を立てた者の真の狙いについての考察ですので」
赤司は一瞬だけ、傍聴席の方へ視線を流した。そこにいる全員の顔を、わずかな温度で見渡す。
「良いだろう。手短に話せ」
許可が下りる。
赤司は、ひとつの盤面を説明する時のように、静かに話し始めた。
「今回の一件に関して私はずっと引っ掛かりを覚えていた点があります。吸い殻を利用した喫煙の偽装という狙い、妨害工作としては中々の発想だと思いました。それに引き換え、部室の密室トリック擬き、これはあまりにも稚拙だと感じていた」
諸岡の肩が、わずかに揺れる。
「ではもし、この密室トリックが実行犯である彼の独断であったとしたらどうでしょう?諸岡さん。この犯行に関する指示書には、カードキーを盗めと書かれていたんじゃないですか?」
「あ、ああ……そうだが」
「注目すべきはカードキーを“使え”ではなく、“盗め”と指示をした点。つまり彼が侵入後にカードキー施錠することは、計画に無い行動であった訳です。その点を踏まえ、この事件を一から説明しましょう」
赤司は、ゆっくりと手を広げる。
「彼は特別棟からの動線で18時過ぎに窓から一度、部室棟に侵入した。夏場という事もあり部室の窓は開いてましたし、部員は体育館で自主練の時間でしたからね。その一度目の侵入で窓に細工をし、須藤のロッカーからカードキーを奪い、窓から退出。そして1時間後の19時頃に、最後に帰る須藤が部室を出たタイミングで細工した窓から再び侵入し、吸い殻を置いて行った」
その説明には、無駄がない。
あまりにも自然に、事件の骨格を浮き彫りにしていく。まるで目の前で見ていたのではないか、そう思わせるほどに詳細を掴んでいた。
「ここまでが指示された手順でしょう。しかし彼はここで、カードキーを部室を施錠するために使ってしまう。おそらく須藤や他の部員が戻ってくることに不安を感じて鍵を閉めたのでしょう。ですが、それこそがこの計画を立案した者の狙いだった」
諸岡の目が見開かれる。
赤司は続ける。
「鍵を無くしたとなれば、普通は教師を呼びに行く筈でしょう。代わりに鍵を閉めてもらうなどの対応を取るはず。仮に諸岡が部室を施錠することなく、そして須藤が教師を呼びに行っていたらどうなっていたでしょうか?」
誰もが、その先を想像する。
吸い殻が置かれた部室の中に須藤と教師が入っていく姿を。その結果は、どうかを。
「須藤は自ら部室に教師を案内し、吸い殻の置かれた光景を見せることになった。そうすれば、限りなく現行犯に近い状態を学校側に印象づける事が出来ていたわけです」
赤司の言葉に、空気が冷える。
「ですから、この計画を立案した人間にとっての最大の誤算は、須藤が鍵を無くしたまま帰ったということでしょう。非常識な判断と言わざるを得ないですが、結果的には彼自身を救う行動となった」
須藤は、褒められているのか責められているのか判断できない微妙な表情を浮かべた。
赤司はそこで、静かに締める。
「――以上が、今回の件の全貌ということなります」
会場は沈黙していた。赤司の説明に傍聴席の多くが息を呑んでいる。
「諸岡。お前の方から今の赤司の説明に対して何か反論はあるか?」
堀北学が問う。
「……ありません」
低い声だった。俯いたままの返答に、逃げ腰の強がりはもうない。
「赤司。この件に関して、お前から諸岡や学校側に対して何か要求はあるか?」
赤司は一度、視線を落とし、すぐに戻した。
「部の活動再開は大前提ですが、それと今回の捜査で多少なりともポイントを使用しました。使用分を損害賠償として請求します」
赤司は淡々と続ける。
今回の事件を解決する為にポイントを使った。窓の細工の検証のために、彼はサッカー部の窓の所有権をポイントを消費して借り受けた。あくまで壊さないと言う前提であるが、学校側から正式な許可を得て行なった検証であった。
その他の諸々の雑費もあるため、その合計額を損害賠償として諸岡に請求し、堀北学より承認を得た。
それ以上の要求を赤司はしなかった。その事に聴衆は少なからず困惑していたが――。
「――それから、これは学校側への提案ですが」
空気が、少しだけ張り詰める。
「この一件と言うのは、あまりにも容易く相手の活動を妨害できる手段です。想像してみてください。特別試験の最中にクラスの主軸の生徒のカバンや机から吸い殻が発見され、停学処分になったらどうでしょうか?これは今回の手法を使えば十分に出来ることです」
赤司の憂慮する可能性、それを想起した聴衆の大半は苦い表情を浮かべていた。
「――だからこそ、厳正な処分を下すことも必要かもしれませんよ。これから先の学校の秩序のために」
あくまで、要求ではなく提案という形で赤司はそれを述べた。
その声は穏やかだったが、視線だけは諸岡を確実に見下ろしていた。
諸岡はもう、顔を上げられない。
ポジションを奪われた男。エースとしての立場を失った男。約束されたキャプテンという地位すら消え失せ、現在の部からは遠ざかっている男。
自分が去った後も、部が前へ進んでいることに苛立ちを抱いた、その思いには赤司も理解を示す。
だが、今回の一件を容認するつもりはさらさら無かった。
やがて、堀北学が短く結論を告げた。
結末は呆気なく、諸岡は学校を去ることになった。
同時に男子バスケ部は活動停止を解かれ、インターハイを賭けた決勝リーグへ挑むことになる。
多くの者が見ていた中で収めた完全な勝利。
学校中の人間が、良くも悪くも赤司 征十郎を無視できなくなっていた。
♢
空き教室の窓際に、長髪の男が寄りかかるように座っていた。
夕陽が差し込む室内は赤く沈み、机や椅子の影が長く伸びている。その周囲には、柄の悪そうな男女が数人、壁にもたれて控えていた。教室の空気は、まるでこの場所だけ別の温度を持っているかのように重い。
男の端末には、一つのメッセージと一つの画像が表示されていた。彼は先ほどの審議の中心にいた人物に呼び出されていた。
彼がじっと扉を眺めていると、やがてゆっくりと扉が開く。
現れたのは整った顔立ち。無駄のない立ち姿。余裕を浮かべる笑み。男がこの学校において誰よりも警戒を抱く相手であった。
彼――赤司 征十郎は男のもとにゆっくりと近づく。
長髪の男は、端末を閉じもせず、ゆっくりと椅子から体を起こした。
その瞳は鋭く、普段の不敵な笑みすら鳴りを潜めていた。初対面とは思えないほどの警戒心をありありと示している。
赤司は、静かに口を開く。
「――敢えて初めましてと言おうか。龍園 翔」
赤司が対峙したのは、1年Cクラスのリーダーである男。
そして同時に、今回の一件の首謀者であった。
二人の王が対峙する。