翌朝の教室は、前日よりもわずかに落ち着いて見えた。
初日の緊張が完全に解けたわけではない。だが、入学式を終え、最初のホームルームを経たことで、生徒たちは最初の緊張が解け、そこに“このクラスでどう振る舞うか”という、より現実的な探り合いが滲み始めていた。
昨日よりも少しだけ早く到着した赤司征十郎は、自分の席に腰を下ろし、鞄を静かに机へ置いた。
すると、前の席からすぐに人影が振り返る。
「よっ、赤司。昨日は“姫さん”とはどうだったんだ?」
軽い調子だった。だが、ただの野次ではない。橋本の目には、好奇心と、どこか状況を見極めるような色が混じっている。赤司は鞄から手を離し、まだ空席のままの後方へ視線を送った。
「姫さん? ああ、坂柳か。少なくとも橋本が期待するようなことは何もなかったよ」
「そりゃ残念。昨日は二人で教室出て行ったからさ。みんな気になってソワソワしてたんだぜ」
赤司は肩をすくめるでもなく、ただ穏やかに言った。
「自己紹介の時に彼女が語った通り、チェスで対戦しただけさ」
「へー」
橋本は曖昧に頷いたが、その顔は妙に楽しげだった。浮ついた話題への興味よりも、もっと本質的なものを嗅ぎ取っている顔だ。
「それで、どっちが勝ったんだ?」
「それは――」
赤司が答えようとした、その時だった。
「おはようございます、赤司君」
鈴を転がしたような声と共に、坂柳有栖が現れた。笑顔だ。だが、その笑顔は柔らかいだけではない。丁寧に磨かれた刃のように、相手の喉元へも容易に届きそうな圧がある。
「おはよう、坂柳」
赤司が圧に屈する事なくそう返すと、坂柳はそのまま橋本へ顔を向けた。
「あら、橋本君もいらしたんですね。一体、何の話をされていたんですか?」
笑みは崩れない。だが、教室の空気がひとつだけ冷える。
「い、いや……何も」
橋本は、珍しく言葉を濁した。
「そうでしたか。それは何よりです」
坂柳は微笑んだまま、そう言った。
その笑みの前で橋本は反射的に背筋を伸ばし、それ以上何も聞けなくなった。
赤司はそのやり取りを眺めながら、内心で小さく笑う。
そこへ丁度、真嶋が教室へ入ってきた。
自然と会話が止み、各々が席へ戻る。真嶋は淡々と朝のホームルームを始め、連絡事項を伝え、授業時間割を確認し、必要最低限の事務だけを淡々と終えていく。その簡潔さは、昨日の説明と同様に、余計な感情を挟まないものだった。
橋本は赤司へ続きを求めるような目を向けたが、赤司は笑みのまま首を振った。暗に“諦めろ”と告げていた。
そのまま、朝の授業が始まる。
入学二日目の授業は、ほとんどが教師の自己紹介と今後の進行説明に費やされた。どの教科も、いきなり深い内容へ踏み込むわけではない。だが、各教師の表情や、生徒への視線の配り方には、それぞれの性格がよく出ていた。
赤司は半日を通してクラスメイト達を観察していた。
真面目にノートを取り、姿勢を崩さない者。授業内容よりも周囲の反応を気にしている者。まだ緊張が抜けず、端末を触る手が落ち着かない者。教室という狭い空間だけでも、性格は嫌でも滲み出る。
Aクラスの生徒たちは、良くも悪くも真面目な者がほとんどだった。
必要な情報は揃ったとばかりに、赤司は静かに瞳を閉じた。
昼休み。
クラスメイトのほとんどが学食へ向かった。入学二日目ということもあり、集団で行動する者が多い。橋本も赤司へ声をかけた。
「赤司、学食行かないか。初日だし、顔合わせも兼ねてさ」
「すまない、少し校舎を見て回りたくてね。食事はまたの機会に」
「見て回る?」
赤司はそれ以上は答えなかった。橋本も、そこから先を無理に聞き出す性格ではないらしく、肩をすくめて出て行った。
教室を出た赤司は、まっすぐ廊下へ向かう。
ちょうどその頃、館内放送が流れた。
『本日、午後五時より第一体育館にて部活動の説明会を開催いたします。繰り返します――』
どの生徒にも届く音量で、淡々と予定が告げられる。赤司は足を止めたまま、その放送を聞いた。部活動。入学前から考えていた通り、午後にはそこへ足を運ぶ必要がある。
だが、その前に確かめるべきことがあった。
赤司は廊下の窓際へ移動し、まず一学年の別クラスを見た。そこには、ざわつきの中にもまだ幼さの残る顔が並んでいる。視線の泳ぎ方、机の周辺の散らかり方、会話の熱量。クラス毎に特徴はあるが、概ね新入生らしい雰囲気であった。
次に、二年生のフロアへ向かう。
ここから空気が変わった。
教室内の静けさが一段深い。席に着いている者の数、学食へ向かう者の足取り、教室に残る少数派の配置。そのひとつひとつが、赤司の観察対象になった。制服の着こなし方。首元や手元の小さなアクセサリー。昼食の内容。教室を出る時の視線の向け方。机に残る荷物の置き方。
さらに三年生のフロアへ。
二年生よりも、空気は薄い。だが、薄いからこそ濃いものが目立つ。動きの少ない生徒、すでに統率の形が見える集団、端末を扱う姿勢に余裕のある者。何気ない昼食でさえ、そこには格の差が出る。
赤司は瞬きひとつの間に、それらを覚え込んでいった。
数、配置、食事、装飾、小物、視線。
情報としてはそれだけで十分だった。
赤司は心の中で小さく呟く。
――なるほど、やはり想像通りだな。
踵を返そうとした、その時だった。
「――そこで何をしている」
背後から、低く整った声がした。
赤司が振り向くと、眼鏡をかけた、背筋の真っ直ぐな生徒が立っていた。年上だと一目で分かる。無駄のない立ち姿に、ただならぬ緊張感がある。
「ここは三年生のフロアだ。入学したばかりの一年に用は無いはずだ」
「ええ。用件は済んだので、これで失礼するつもりですよ」
赤司は穏やかに答えた。だが相手はそれで終わらない。
「一年……名前は何と言う?」
赤司は一度だけ相手の顔を見てから、短く名乗る。
「赤司 征十郎」
それだけ言って、今度こそ背を向けた。
廊下に残された生徒会長――堀北 学は、しばし赤司の背中を見送ったあと、小さく息を吐いた。
「なるほど」
その声には、興味の温度がわずかに含まれていた。
「入試で筆記、面接ともに満点だった生徒がいたと聞くが――ふっ、あの様子なら、“Sシステム”についてもかなり正確に捉えている可能性があるな……面白い」
わずかに吊り上がる口元。
その笑みは、他者を見下ろすものではない。試す価値のある相手を見つけた者の、それだった。
♢
放課後。
赤司は第一体育館へ向かった。
部活動説明会。運動部、文化部を問わず、各部の代表が新入生へ勧誘を行う恒例行事だ。高度育成高等学校は学力重視の学校である一方、部活動でも一定以上の成果を残している。全国的な名門と比べれば一歩劣るとしても、地区レベルでは十分に競争力がある。
赤司にとっても、それは悪くない条件だった。
競技としての環境。練習設備。人数。指導者。どれも、バスケットボールを続けるうえで必要な要素だ。帝光ほどの熱量を期待するつもりはないが、最低限の質のある環境であって欲しいと考えていた。
第一体育館には、既に一年生がそれなりに集まっていた。赤司と同じAクラスの面々も何人か来ているのが分かった。
壇上には簡易のステージが設けられ、各部活の紹介が順番に進んでいく。司会の女子生徒がマイクを手にし、明るい声で案内を始めた。
「一年生の皆さん、お待たせしました。これより部活代表による入部説明を始めます――」
その後は、運動部、文化部、委員系の部まで、様々な代表が登壇した。盛り上げ方に長けた者もいれば、実直に活動内容を説明する者もいる。新入生の目当てを引くために皆が工夫しているのが分かる。
赤司は、いくつかの部活を聞き流しながら、すでにバスケ部へ入るつもりでいた。
バスケ部の説明に立った男子生徒は、いかにも部の中心らしい体格と声量を持っていた。だが、話す内容はどこか平板だった。練習方針、目標、仲間意識。悪くはない。だが、赤司の耳にはあまりにも一般的すぎる。
――退屈だな。
赤司は心の中で静かに切り捨てる。
先ほど邂逅した三年生の方がずっと面白みがあった。
そんなことを考えていた時だ。壇上の最後に、あの男が上がった。
堀北学。
彼はマイクの前に立ったまま、しばらく何も言わなかった。
体育館のざわめきが、少しずつ戸惑いへ変わっていく。新入生たちは笑ったり、冷やかしたり、何か言い合ったりしている。だが、堀北学は一切動かない。微動だにせず、ただ無言で一年生たちを見下ろしていた。
赤司は、その沈黙の意味を理解した。
ほう、と、彼は小さく漏らす。
これは、声量や演技ではない。あえて黙ることで、場の視線を奪っているのだ。言葉を発する前に空気を支配する。簡単そうでいて、並大抵ではない。
「私は生徒会長を務めている、堀北学と言います」
たった一言で、体育館の空気が静まり返った。
それまでのざわつきが嘘のように消える。新入生たちの多くが、反射的に背筋を正した。声を荒らげたわけでも、威圧したわけでもない。それでも場が従う。そこには、積み上げられた実績と統率があった。
「生徒会も、上級生の卒業に伴い、一年生から立候補者を募集することになっています。立候補することに資格などはありませんが、もし生徒会へ立候補することがあれば、部活への所属は避けてください。原則、生徒会と部活の両立は認められていません」
淡々とした説明だが、一語ごとに重みがあった。言葉の終わりには必ず結論があり、余計な感情がない。だからこそ、聞く者は逃げられない。
「それから――」
堀北学は、視線を体育館全体へ向けた。
「私たち生徒会は、甘い考えによる立候補を望まない。そのような人間は当選はおろか、学校に汚点を残すことになるだろう。我が校の生徒会には、規律を変えるだけの権利と使命が、学校側に認められ、期待されている。そのことを理解できる者のみ、生徒会の一員として歓迎しよう」
その言葉で、体育館は完全に沈黙した。
――なかなか悪くない。
威圧ではなく、秩序で黙らせる。自分の言葉に不必要な装飾を挟まず、それでも相手に「聞かなければならない」と思わせる。かなりの統率力だ。本質は違うが自分とは毛色が近い。面白い人物であるとの評は変わりなかった。
堀北学は、演説を終えると静かに壇上を降りた。生徒たちの多くが、畏敬とも緊張ともつかない表情でその背中を見送った。
説明会が終わる。司会の声が会場へ響いた。
「皆さまお疲れ様でした。説明会は以上となります。これより入部受付を開始しますので、入部希望者は申し込み用紙を各部活の顧問の先生に提出してください」
赤司はその案内に従い、バスケ部のブースへ向かった。
顧問の教師と、数人の部員がそこで待っている。赤司が用紙を受け取ると、教員は一瞬だけ目を見開いた。周囲の部員もまた、妙に落ち着かない視線を向けてくる。
無理もない。赤司征十郎の名前は、少なくともバスケットボール関係者の間では知られている。帝光中学のエースであり、全国三連覇を牽引した男。高校に進んだわけでもないのに、すでに「次代の日本バスケを担う選手」と言うのが赤司の立ち位置であったからだ。
赤司は気にせず、申込用紙を記入し始めた。
その時だった。
「テメェっ! 赤司ッ! なんでココにいやがる!?」
背後から荒い声が飛んだ。
赤司が振り向くと、そこには赤髪に剃り込みの入った長身の男子が立っていた。眉間に皺を寄せ、明らかに機嫌が悪い。だが、その怒りの奥には、別種の感情が混ざっている。驚きと、苛立ちと、対抗心。
須藤健。
赤司はすぐにその名前を思い出した。計三度、対戦したことがある。
印象としては荒っぽくて、真っ直ぐで、勝負事になると感情が表に出やすい男。帝光時代の赤司から見れば、腕は悪くないが粗が多いタイプだった。
赤司は立ち上がらず、ただ変わらない笑みを向ける。
「やあ、須藤。全中予選以来だね」
その穏やかすぎる反応が、かえって須藤の表情をさらに苦々しいものへ変える。
「テメェ……」
その一声には、以前の試合で味わわされた悔しさが、まだ生々しく残っていた。
久しぶりにぶつけられたその感情を、赤司は大いに歓迎した。