須藤 健は、父親の顔をまともに覚えていなかった。
いや、正確には覚えている。だが、それは温度のない記憶だった。いつも同じように無表情で、同じように沈黙していて、同じように家にいた。母は蒸発した。水商売をしていた女だったと、周囲は噂した。どこまで本当かも、須藤にはもうどうでもよかった。女が消えたあとに残ったのは、毎日同じ時間に帰ってきて、同じ時間に飯を食い、同じ時間に黙って酒を飲む男だけだった。
クズの親から生まれた自分は、やはりクズなのだろう。
そんな自嘲は、少年の頃の須藤にとって珍しいものではなかった。勉強は早々に諦めた。真面目に机へ向かう意味が分からなかったし、誰かに褒められる未来も想像できなかった。だが、だからといって何も持っていなかったわけではない。
バスケットボールと出会った時、須藤は初めて、自分の身体に価値があるかもしれないと感じた。
走る。跳ぶ。ぶつかる。奪う。押し込む。
そこには、余計な言葉がいらなかった。力で殴り合うような世界は、須藤にとって分かりやすかった。勝てばいい。点を取ればいい。相手を沈めればいい。ふざけた大人も、消えた母親も、無言の父親も、コートの中までは追ってこない。そう思えた。
中学一年。全中予選。
須藤は生まれ持った身体能力と、誰にも止められたくないという意地だけで、レギュラーをもぎ取った。練習は厳しかったが、苦ではなかった。むしろ嬉しかった。周囲の大人は「才能がある」と言った。先輩たちは「よく走る」と言った。
実際、チームは勝ち上がった。地区予選を突破し、勢いのまま進んでいく。
そして、決勝の相手が帝光中学校だと知った時、先輩たちの顔色が変わった。
帝光。
その名は、バスケットを少しでも知る者なら誰もが知っていた。全国常連校。だが、須藤は怯まなかった。どうせ当たるなら、ぶつかるしかない。そう思っていた。
試合が始まると、その考えは一瞬で打ち砕かれた。
帝光の中でもひときわ目立つ選手がいた。赤司征十郎。目が離せなかった。彼がボールに触れるたび、相手の動きが変わった。彼が視線を向けるだけで、味方の位置が整った。派手なダンクも豪快なドリブルもない。ただ、赤司がそこにいるだけで、試合の流れが帝光へ吸い込まれていく。
須藤は必死に食らいついた。だが、結果はトリプルスコアの大敗だった。
初めての挫折だった。
ベンチに戻ったあと、須藤は歯を食いしばった。悔しかった。腹が立った。だが、それ以上に、心のどこかで赤司というプレイヤーを見てしまった自分がいた。あいつは強い。悔しいが、それは認めざるを得なかった。
二年生になり、須藤はチームのエースになっていた。
相変わらず口は悪い。態度も荒い。だが、コートの上では誰よりも点を取り、誰よりも体を張った。ゴール下では負ける気がしなかった。自分は赤司にだって勝負できる。そう本気で思っていた。チームも強くなった。だからこそ、再び帝光との決勝が見えてきた時、須藤は高揚していた。
今度こそ、やれる。
そう思った。
だが、結果はまたもトリプルスコアの大敗だった。
第1クォーターは、まだ良かった。須藤が内と外を荒々しく行き来し、得点の取り合いを演じた。帝光も決して油断していない。だが、第2クォーターに入ると、赤司が須藤についた。
身長差はある。体格も違う。だが、それが何だというのか。そう思ったのは最初だけだった。
赤司は、須藤のプレーを完璧に止めた。
シュートのタイミングを奪う。ドリブルの角度を消す。踏み込みを読む。身体をぶつける前に、次の選択肢を潰す。須藤が感情で突っ込めば突っ込むほど、赤司はその先を見ていた。ゴール下で無双していたはずの須藤は、まるで自分の土俵を失ったように沈んでいった。
第3クォーターの終盤、須藤は5つ目のファウルを取られて退場した。
その瞬間、自分で自分が情けなくなった。
だが、ベンチに下がってからも、視線は自然と赤司へ吸い寄せられた。悔しい。腹が立つ。なのに、なぜか目を離せない。赤司のプレーは冷たく、正確で、どこか遠かった。まるで自分とは別の世界のバスケをしているように見えた。
それでも、須藤の胸の奥には奇妙な感情が残った。
憧れだった。
いつか同じ舞台でプレーしてみたい。そんな馬鹿みたいな願いが、敗北の直後に芽を出した。
三年になっても、須藤の粗暴さは変わらなかった。だが実力があった。だからこそキャプテンになった。責任という言葉の意味を、ようやく少しだけ理解し始めていた。中学最後の大会。帝光には勝てない。そんなことは分かっていた。だが、それでも全力で赤司に挑む。それだけは譲れなかった。
迎えた最後の試合。
帝光の4番、赤司はベンチにいた。
地区予選から一度も出ていないという。須藤のチームメイトは「ラッキーだ」と騒いだ。だが、須藤の胸には妙な不安が広がっていた。帝光のレギュラーは赤司だけではない。全員が全国級のプレイヤーだ。それだけでも十分脅威なのに、彼らはひとつの意志で動いていた。
派手さはない。だが、止まらない。
パスが通る。ポジションがずれる。守備が締まる。得点が積み上がる。気づけば点差が開いていく。
何より恐ろしかったのは、彼らの目だった。
自分の意志で動いていない。誰かに動かされている。そう思わせるほど、彼らの目には感情が薄かった。人形のようだった。
須藤はそれでも戦った。
4つ目のファウルを抱えても、点を取るために突っ込み続けた。だが、ベンチの赤司が笑っているのが見えた時、ふと脳裏を過ったものがあった。
“もし、ここで追いつけたとしても、まだ赤司が控えている”。
その事実が、須藤の足を一瞬だけ止めた。
――勝てるわけが、ない。
そう思った瞬間、終わりだった。
彼は5つ目のファウルを
逃げた。絶望したのだ。相手との距離を、あまりに突きつけられたから。
その後、帝光は当たり前のように全国へ進んでいく。
全国の舞台に立った帝光中学の試合で、赤司は先発だった。そして彼は圧倒的だった。試合を重ねるごとに強豪を薙ぎ払い、全国制覇を成し遂げた。
インタビューで「地区予選では一度も試合に出場していなかったのは故障ですか」と問われた時、赤司は淡々と答えた。
「いえ、チーム戦略です。全国を戦っていくためにはチームとしての成長が欠かせませんので」
その冷静さが、須藤にはどうしても許せなかった。
自分たちが全力でぶつかってきた三年間を、あっさりと戦略の一言で片づけられた気がした。
ふざけるな。何が十年に一人の天才だ。何が日本代表だ。何が三連覇だ。須藤の胸に黒い怒りが燃え上がった。
――俺は、てめぇをぜってぇ許さねぇ。
そう誓ったのを、彼は今も覚えている。
♢
入学してから最初の本格的な部活動練習の日、須藤は体育館の入口で足を止めた。
バスケ部の新入部員は五人いた。Aクラスの赤司 征十郎。Cクラスの小宮 叶吾、近藤 玲音。Dクラスの須藤 健、牧田 進。赤司以外の一年は皆、少し緊張していた。須藤は不機嫌そうに腕を組み、赤司はいつも通り落ち着いている。牧田は周囲を気にしており、小宮と近藤は一歩後ろで様子を窺っていた。
先輩たちの前で挨拶を終えると、案の定、先輩たちの視線は赤司にばかり向かった。
「よろしく、赤司君」
「君がウチに入ってくれるなんてホントに夢みたいだ」
「これなら今年のインターハイも夢じゃない!」
口々にそんな言葉が飛ぶ。
赤司のみに近づく先輩たち。明らかな扱いの差に、須藤は苦い顔を浮かべた。牧田も、小宮も、近藤も、同じような顔をしていた。
赤司はその空気を一度見回し、静かに口を開く。
「一つ提案があるのですが、自分達一年の実力を先輩達も知りたいと思います。それで一年対ニ、三年生で紅白戦を行えませんか?」
先輩たちの顔がわずかに引きつる。
「赤司君、君の実力は知ってるつもりだ。どうあっても君がいるチームが勝つ。練習にならないよ」
それはもっともだった。須藤もそう思った。だが、赤司はそこで終わらない。
「では、自分の得点は何点取ろうが無得点として扱うと言う特別ルールで行うのはどうでしょうか?」
それでも先輩たちは渋い顔をした。
「……無得点扱いでも、赤司君がいる時点で変わらないだろう」
「では自分は3秒以上、ボールには触りません。仮に3秒を過ぎた場合は、アンスポ*1を取っていただいて構いません」
体育館の空気が、そこで明確に変わった。
先輩たちは驚いた顔をする。須藤も一瞬、言葉を失った。赤司はいつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべたまま、さらに言う。
「――それともこれ以上の手心が必要でしょうか、先輩?」
その声音には、わずかな侮りが混じっていた。
先輩たちのプライドが刺激されたのが、須藤には見えた。
反発ではない。むしろ、勝負の土俵へ引きずり込まれた時の顔だった。
「……良いだろう。そこまで言われたらこちらも引き下がることはできない」
キャプテンがそう言った瞬間、須藤は心の中で舌打ちした。
こいつ、何考えてやがる。
コート脇へ移動する最中、須藤は赤司の胸ぐらを掴み、声を張り上げる。
「テメェ、何考えてやがる!今日あったばっかで連携もクソもねぇのに勝てるわけがねぇだろ!!」
だが赤司は、須藤の怒鳴り声に一切怯まなかった。
「今すぐ離せ、須藤」
「あぁ!?」
「離せと言っている」
次の瞬間、赤司は須藤の手首を掴み、あまりに滑らかな動きで体勢を崩させた。視界がひっくり返り、須藤は床に尻をついた。
「痛ッ……!!テメェ、何をしやがった!?」
見上げた先にいた赤司の目は、あまりにも冷たかった。須藤は思わず口をつぐむ。あの目だ。帝光で何度も見せられた、全てを見透かすような目。
「一つ問う。お前達はあのような中途半端な連中に侮られて不快ではないのか?」
その一言で、場の空気が変わった。
「……そりゃ、ふざけんなって思ったよ」
近藤が絞り出すように答える。牧田も、小宮も、頷いた。
「だろうな」
赤司は静かにうなずく。
「東京都予選ベスト8。これが高育バスケ部の最高成績だ。俺はそんな中途半端な成績に甘んじるつもりはない。高校タイトルは全て勝ち取る」
その瞳には、迷いがなかった。勝利だけを見据えている。
「だからこそ、俺はお前達に賭けた。今のバスケ部の方針では未来がない。確実な勝利はない。変革が必要だ。須藤、先ほどお前は、何故こんな提案をしたと聞いたな?」
須藤は、押さえつけられた怒りを飲み込むしかなかった。赤司は穏やかに、しかし獰猛に笑った。
「――この一戦を以って、このチームを俺たちが掌握する」
須藤は一瞬、言葉を失った。
掌握。支配。そんな大それた言葉が、なぜか嘘に聞こえなかった。
「……出来るわけねぇだろ」
絞り出すような声だった。
「不思議なものだな」
「あ?」
俯く須藤を見下ろす赤司が語る。
「俺の知っている須藤 健というバスケットプレイヤーは出来るか出来ないかでものを語るようには思えなかったがな」
奮い立たせようとする赤司の言葉に、感情のままに立ち上がる須藤。その顔は怒りや屈辱で歪んでいる。
「テメェのせいでッ!!俺は――」
その先の言葉を須藤は吐き出すことができなかった。それを述べてしまえば、唯一持つプライドすら失ってしまう気がした。
「それとも
「ッ――!?」
それは須藤に対する核心を突く言葉であった。何も語ることのできない須藤に赤司は言葉を重ねる。
「コートに立て。それだけで俺がお前達を勝利に導く」
赤司の雰囲気が、表情が、実績が、その言葉に重みを持たせる。
「お前達もよく知っているだろう? 俺が率いたチームは一度たりとも敗北などしなかった。それは今日も同じだ」
いつもと変わらない確信の笑みだった。
渋々ながら、一年生たちはビブスを着てコートへ向かう。
「……クソ、最悪だ」
須藤がそう漏らした時、横に立つ赤司の姿が視界に入った。
その横顔は、かつて憧れた赤司征十郎そのものだった。腹立たしいほど静かで、腹立たしいほど自信に満ちていて、腹立たしいほど勝利を前提としていた。
須藤の胸には、苛立ちと困惑が九割近くを占めていた。だが、残りの一割は、どうしようもなく高揚していた。あの時、ただ見上げるしかなかったプレイヤーと、今、同じコートに立っている。
ジャンプボールに立った須藤は、叫んだ。
「やってやるよッ!!」
力いっぱい跳び、ボールを弾く。ボールは赤司のもとへ向かった。
「よく取った、須藤!」
赤司にそう褒められた瞬間、須藤の顔は妙なものになった。
ムカつく。だが、悪くないと思ってしまっている。
試合が始まると、赤司の言葉はすぐに現実になった。
ディフェンスでは、赤司が全体を束ねた。誰がどこへ戻るか、誰が誰を見るか、どこで仕掛けるか。須藤が前で暴れ、他の一年生が確実に穴を埋める。三年生は最初こそ個の力で押し返そうとしたが、赤司の指示はそのたびに隙を潰した。
オフェンスでは、3秒という縛りでなお赤司を縛ることはできなかった。
赤司は、ボールを持てば一瞬で最適解を出す。自分で得点出来ないなら、他人が取ればいい。自分で触れないなら、触れるべき者に渡せばいい。須藤はゴール下へ切り込み、牧田は外を支え、小宮と近藤もそれぞれの役割を果たした。
そして須藤は、思い知ることになる。
自分が思っていた以上に、この一年チームは強かった。
いや、違う。強いのは赤司だ。
彼がいると、全員のポテンシャルが限界まで引き上がる。一年生4人の表情はこれまでにないほどの充実感のあるものとなっていた。
結果は、一年生チームの圧勝だった。
点差は、試合が進むほど広がった。
先輩たちは最初、赤司だけを見ていた。だが、赤司が本当に見ていたのは須藤だった。帝光との記憶を持つ男の力を、彼は最初から計算に入れていたのだろう。須藤は、かつて自分を絶望させたプレイヤーと、今度は味方として同じ空間にいるという事実に、どうしようもない震えを覚えた。
試合終了のブザーが鳴った時、体育館には一瞬の静寂が落ちた。
赤司は額の汗をぬぐい、淡々とコートの外へ目を向けた。その視線の先には――――。
その日を境に、バスケ部の空気は変わった。
先輩たちは、一年生達を――いや正確には赤司を無視できなくなった。
赤司を中心としたバスケ部。練習方針もメンバー選考も彼の意見が反映される。そんなバスケ部の変容に嫌気が差して退部する者もいた。
それから程なくして、四月末。
赤司征十郎は、バスケ部のキャプテンに任命されることになった。