入学式から二週間が過ぎた月曜日の朝、Aクラスの空気は最初の頃とは明らかに変わっていた。
まだ完全に打ち解けたわけではない。だが、互いの名前と立ち位置を把握し、誰と誰がよく話し、誰が一人でいるのか、そのあたりの輪郭は自然に見え始めている。以前は教室のあちこちで散発的に起きていた会話が、今ではいくつかの小さな輪にまとまり、そこにはそれぞれの温度があった。
窓際で静かに話す者たち。廊下側で休日の出来事を笑い合う者たち。机を寄せて、課題の話をしている者たち。さらに、土日に誰かと外へ出かけたらしいグループもあるようで、そこには先日までにはなかった親しさが混じっている。
赤司征十郎は、その光景を自席から眺めていた。
表面上は和やかだ。だが、和やかさの内側で、各々が自分の居場所を作り始めている。つまり、この教室にもようやく“組織”の輪郭が生まれ始めたということだ。赤司はそれを、無駄だとは思わない。むしろ当然の流れだと受け止めていた。
そこへ、二人の女子生徒が近づいてくる。
ひとりは白石 飛鳥。淡い色の髪にヘアバンドを付けた、柔らかな印象の少女だった。視線を合わせるたび、こちらを急かさない穏やかさがある。もうひとりは西川亮子。落ち着いた色合いの長い髪を軽くまとめ、口元にはいたずらっぽい笑みを浮かべている。雰囲気は対照的だが、並ぶと妙にバランスが良い。
「おはようございます、赤司君」
「おはよー、征ちゃん」
白石の丁寧な挨拶と、西川の砕けた声が同時に届く。
「おはよう、二人とも」
赤司がそう返しただけで、教室の空気が一度止まった。
男子も女子も、視線だけでこちらを見る。赤司はその反応を不思議には思わない。むしろ、この二人が自分に声をかけることの意味を、周囲が即座に察したのだろうと考える。
白石は小さく頭を下げた。
「金曜日はとても楽しかったです、ありがとうございました」
その一言に、数人の男子が露骨に目を見開いた。
「えっ」と、そんな顔をした者までいる。
西川はそれを見て、くつくつと笑った。
「いやー、征ちゃんのカラオケ。面白すぎて帰ったあとも思い出して笑っちゃったよ」
赤司は二人の反応に、薄く目を細める。
思い返すは先週の金曜日の出来事であった。
その経緯を、赤司は自然と脳裏に戻していた。
♢
最初に橋本からその話を持ちかけられたのは、入学して間もない頃だった。
「前に話した女子達と出掛けようって件、覚えてるか?」
そう訊かれた赤司は、確かに覚えていたと答えた。だが、当初の彼にとって、それは半ば社交辞令のようなものだった。入学直後の挨拶代わりの約束。橋本自身への興味と、高育という施設を一度見定めておきたいという理由で受けた話である。
しかし、二週間もすれば状況は変わる。
校内の構造は大体把握した。教室、廊下、学食、図書室、体育館、ケヤキモール。生活に必要なものはひと通りそろっている。赤司の中では、高育という舞台の輪郭が少しずつ固まっていた。ならば、わざわざ休日に無理をしてまで出かける理由は薄くなる。
何より赤司も、
そう考えていた矢先、橋本が机越しに少し声を落とした。
「実はさ、何人かの女子達から赤司と遊びたいって話が出ててな。簡単にリスト作ったから、興味ある子いたら教えてくれ」
そう言って差し出された紙には、確かに多数の名前が並んでいた。
同じAクラスの者もいれば、他クラス、さらに上級生の名前まである。所属クラスまで丁寧に書かれているあたり、橋本なりの気遣いなのだろう。だが、赤司の目は、名前の並べ方の妙に自然と向かった。
一見すると雑然としている。だが、よく見ると、特定の名前の周辺だけ、妙に余白がある。視線が止まりやすいように配置されている名前もあれば、逆に流されやすい置き方をされているものもある。まるで、橋本自身が何らかの意図で“見せたい相手”を選んでいるようだった。
なるほど、と赤司は思う。
橋本は単に女子を紹介したいわけではない。そこには、自分にとって都合のいい人物、あるいは利害のある人物を赤司と繋げたいという思惑があるのだろう。
赤司は、リストの中央付近にある二つの名前を指で示した。
「この二人が気になるな」
白石飛鳥と、西川亮子。
橋本は少しだけ眉を上げた。彼の中ではそこまで高く評価していない二人だったのだろう。だが赤司にとっては、こういう“中間層”の人物のほうが見極めに向いている。派手すぎず、地味すぎず、周囲との距離感も分かりやすい。
それに――白石 飛鳥のほうは、見ておく必要があると赤司は感じていた。
理由を言葉にするほどではないが、視線の置き方が妙に整っている。目立たないようで、観察はしている。そういう類の人間は、後から効いてくることがある。
赤司の選択に、橋本は一瞬だけ微妙な表情を見せた。
それを見て、赤司は小さく笑う。
やはり、何かしらのメリットがある人物が混ざっていたのだろう。
結果として、その日の放課後に橋本を経由して約束が取り付けられた。
♢
金曜日の放課後、赤司は教室で合流することを避けた。目立つのを避けたかったからだ。女子達とはケヤキモールで合流する手筈になっており、赤司は橋本と並んで指定の場所へ向かった。
「そういや、バスケ部の方は良かったのか? 本当は今日も練習だろ」
歩きながら、橋本が思い出したように尋ねた。
赤司は、橋本がこのタイミングまでそれを言わなかったことに気づいていた。おそらく、練習を理由に断られるのを避けたかったのだろう。橋本らしさが透けて見えた。
「今日のメニューは元より自主練だ。参加の是非も一人一人に任せている。橋本こそテニス部の方はどうなんだ?」
「幽霊部員みたいなものだ。特に問題はないさ」
それから二人は、世間話を交わしながらケヤキモールへ向かった。橋本は軽口を叩き、赤司はそれに時折淡く返す。気の置けない会話というほどではないが、少なくとも居心地は悪くなかった。
やがて、ケヤキモールの一角に女子二人が待っていた。
橋本は赤司と彼女たちの間に立ち、紹介するように手を広げる。
「赤司なら分かってると思うが、白石と西川だ」
「今日はよろしくお願いします」
白石が丁寧にお辞儀をする。
「よろしくねー、赤司君」
西川は片手を軽く上げただけだったが、その気安さは嫌味ではなかった。
「ああ、よろしく」
赤司は短く応える。
その後、西川の提案で四人はカラオケへ向かうことになった。移動の途中、西川が何気ない調子で言う。
「この間、飛鳥がね、赤司君の“声”が好きって言ってたんだよ」
赤司は少しだけ意外そうに、白石へ目を向けた。
「声?」
白石は、いつものほわりとした雰囲気のまま頷く。
「はい。赤司君の声はとても魅力的ですから」
「へー」
橋本が面白そうに口を挟む。
「声フェチってやつか。ちなみに俺は?」
白石は一瞬の間も置かず、穏やかに答えた。
「橋本君の声は普通ですね」
橋本は、その回答に一瞬だけ黙ったあと、苦笑した。
そのやりとりを見て、西川が吹き出す。
赤司は、彼女たちがなぜそこまで気安く距離を詰めてくるのか、完全には把握していなかった。だが、少なくとも悪意はない。白石は白石で、赤司を観察している気配がある。西川は西川で、会話を転がすのが上手い。橋本はそれをうまく繋ぐ。
四人で部屋に入ると、橋本が最初に歌うことになった。
赤司はカラオケに来るのが初めてだった。手渡されたタブレットをしばらく見つめ、選曲欄を真剣に眺める。だが、表示される曲は知らないものばかりで、判断材料が少ない。
「自分で提案しといてなんだけど、赤司君がカラオケってなんか似合わないよね」
西川がケラケラ笑う。
白石は赤司の隣に座った。太ももが触れるか触れないかという距離だった。さらに、赤司がタブレットを持つ手に、自分の手をそっと重ねる。
「そんなことないですよ。私、赤司君の歌聞いてみたいですし」
白石の声は相変わらず柔らかい。だが、そこに含まれる親しさはあまりに自然であるが、その瞳は油断のならない色を孕んでいた。
赤司はその接触に特に反応することなく、タブレットを操作し続ける。
やがて橋本が歌い終わる。
その直後、赤司はひとつの曲を選んだ。自然に白石の手から距離を取り、立ち上がる。
そこで、空気が少しだけ変わった。
カラオケルームに似合わなすぎる男が、いったい何を歌うのか。西川も、白石も、橋本も、どこか期待と不安の混じった目で見ている。
だが、流れ始めたのは、あまりに壮大な前奏だった。
三人とも、そこで同時に首を傾げる。
画面に表示された曲名は、見慣れないものだった。英語ではない。イタリア語だ。歌詞の表示も、何となく只者ではない。
そして、赤司が歌い始めた瞬間、部屋にいた三人の思考は一致した。
――カラオケでオペラかよ。
しかも、かなり上手かった。
声がよく通る。張りがある。抑揚が滑らかで、妙に堂々としている。赤司自身は平然と立っているのに、なぜか部屋の空気だけが舞台のように見えてくる。西川は途中から笑いを堪えるのやめ、白石は目を丸くしたまま聞き入っていた。橋本は、最初の驚きを通り越して半ば感心している。
その後、一曲ずつ歌い終えると、四人は自然と雑談へ移った。
「ほんとオペラはまさか過ぎるよ……赤司君って思ってたより面白い人なんだね」
西川が、まだ思い出し笑いをしながら言う。
赤司は、自分が何を面白がられたのか、完全には分からなかった。だが、少なくとも彼女が悪い意味で言っていないことだけは分かる。
「ふふ、そうですね。ぜひクラスの皆さんにも赤司君の魅力を知ってほしいですが」
白石が静かに続ける。
「まあ、完璧過ぎて近寄りがたいとは思われるだろうしな」
橋本はそう言って肩をすくめた。
そこで西川が、ふと考え込む素振りを見せる。
「じゃあ、あだ名で呼ぶとかどう? 親近感湧きそうじゃない?」
赤司は少しだけ目を伏せた。
「あだ名か。今まであまり呼ばれたことは無いな」
西川は、さらに少し考えたあと、妙に楽しそうな顔をした。
「じゃあー、“赤司様”か“征ちゃん”だったらどっちが良いー?」
赤司は僅かな間を置いてから答える。
「……もし仮にその二択しかこの世に無いのなら“征ちゃん”だな」
「あ、だよね。ちなみに“赤司様”の方は女子の間で広まり始めてるやつね」
西川はあっけらかんとして言った。
ちなみに“征ちゃん”の方は今考えたとのこと。
「じゃ、改めてよろしくねー。“征ちゃん”」
ニヒッと笑う西川の横で隣で白石が穏やかに微笑む。
赤司は、静かに息を吐いた。
こうして、白石飛鳥と西川亮子とは、友人と呼べる程度には親しくなった。
♢
朝の教室に戻る。
赤司が彼女たちと軽く話を交わしている間に、男子たちの空気が少し重くなったような気はした。だが、それはひとまず脇へ置いておく。
事実としてこの二週間で、クラス内には明らかにいくつかの交友グループができた。だが同時にクラスの雰囲気は“緩み始めていた”。
――無駄な失点は避けるべき、か。
赤司は静かに席を立った。
向かった先は、男子数人のグループを形成している葛城康平のところだった。
葛城は、教室の中でも明確に存在感のある生徒だ。スキンヘッドに近い頭、がっしりとした体格、そして落ち着いた視線。派手さはないが、そこには確かな統率者の雰囲気がある。彼の周囲には自然と人が集まる。だが、同時に距離も生まれる。そういうタイプだ。
「葛城、後から少し話せるか」
赤司がそう声をかけると、葛城が振り向くより先に、その隣にいた戸塚弥彦が警戒心をあらわにした。
「葛城さんに何の用だ、赤司」
戸塚の声は、かなり尖っていた。周囲の取り巻きたちも似たような雰囲気を持っていたが、戸塚はその中でも特に露骨だった。
赤司は、まず彼を一度だけ見て、それから葛城へ視線を戻す。
「やめろ、弥彦」
葛城が短く制した。
それだけで、戸塚は不満そうに黙る。
葛城は赤司を見据えたあと、少し考えるように間を置き、それから口を開いた。
「俺もお前とは一度しっかり話してみたかった。昼休みはどうだ?」
赤司は、葛城の背後に控える取り巻きたちを一瞬だけ見た。そして、静かに言う。
「ああ、構わない……だが、可能であれば二人で話したい」
葛城もまた、わずかに黙考した。
「……承知した。問題はない」
約束は、それで決まった。
赤司が自席へ戻ると、前の席の橋本が意外そうな顔をする。
「急にどうしたんだ、赤司?」
橋本は視線の端で、さりげなく後方の席へと目を向ける。赤司はそれに気づきながら、はぐらかすように答える。
「大した話ではないさ」
その返答に、橋本は納得したのかしていないのか、曖昧な顔をした。