昼休みの学食へ向かう人波とは、明らかに逆の流れがあった。
赤司征十郎と葛城康平は、同じ速度で廊下を歩いていた。周囲の生徒たちは食事を求めて足早に去っていくが、二人だけはその流れに乗らず、無言のまま別方向へ進んでいく。会話はほとんどない。あるのは、互いに相手を測りながら歩幅を合わせる気配だけだった。
その行き先は、屋上だった。
五月に近づく空は澄んでおり、昼の光はすでに夏の気配を含んでいる。扉を抜けると、風が頬を撫でた。手すりの向こうには、遠くまで切り拓かれた高育の敷地が広がっている。まばらに生徒の姿が見え、他校ではありえないほど整備されたこの空間が、あらためて特殊な場所であることを示していた。
赤司も葛城も、各々が自販機で買った飲み物を一つずつ手にしていた。余計な身振りはない。二人とも、話す前にまず視線を外へ向ける。
やがて、葛城が口を開いた。
「――それで話とはなんだ」
屋上に着くまで大した会話はなかった。だが、ここから先はそうではないと分かっていたのだろう。葛城の声には、静かな警戒が混じっていた。
赤司は手すりに寄りかかり、飲み物の缶を指先で軽く回しながら答える。
「入学式の日。お前が真嶋先生にした質問を覚えているか?」
「ああ、勿論だ」
「では、ポイントについて今のお前の見解を聞きたい」
葛城は缶を握る手にわずかに力を込めた。
「……それを答えて俺に何の得がある?」
警戒を隠そうともしない返しだった。だが、赤司はその反応にむしろ好意を抱く。葛城は慎重だ。しかも、ただの慎重ではない。情報の価値を理解したうえで、交換条件を測っている。
赤司は薄く笑った。
「――そういえば、お前の仲間内に部活動に所属している者はいたか?」
「先に俺の質問に――」
葛城の言葉を遮るように、赤司は続ける。
「チームメイトと言う関係性は特殊なものだ。学年やクラスを問わずに信頼関係を築きやすい。だからこそ、“上”からの情報も滑り落ちてきやすい」
数秒、葛城はその意味を考え込んだ。
そして、はっとしたように視線を上げる。
「まさか……いや、だがしかし先輩方は全員口を噤んでいた」
「箝口令が敷かれているんだろう。特に関係性のない後輩の立場では、この件に関して口を割るのは容易ではない」
赤司は缶を開け、ひと口だけ飲んだ。冷たい液体が喉を通り過ぎる。葛城はその横顔を見ながら、今の一言だけではまだ終わらないことを察している。
「俺がバスケ部に所属していることは知っているか?」
「ああ、そして既にレギュラーであることも耳にしている」
入学から2週間で部内で相応の立場にある赤司。
葛城やその仲間達とは違い、この早い段階で一部の先輩と交友を持っている赤司なら葛城の欲している情報を持っている可能性があった。
「ッ……!」
葛城が知りたがっている情報。それは、この学校の評価基準だった。
入学式の日の質問で、ポイントが変動する制度があることまでは確信した。だが、その基準まではつかめていない。
先輩達に何度か聞き込みをしたようだが、確信に足る材料は得られなかったらしい。葛城の性格からすれば、そこに満足できるはずがない。見えていないものがある限り、立ち回りは決められない。
彼は先輩たちと接するうちに、ある違和感にも気づいていた。
声をかけた相手のほとんどが、同じクラスの生徒と行動を共にしていたことだ。クラス替えがないとはいえ、あまりにも同クラス同士の結びつきが強い。まるで、個人ではなく集団として動くことを前提にしているように見えた。
葛城の中で、その違和感は一つの可能性へつながっていた。
学校の評価はクラス単位ではないか。
もっと言えば、クラスが一蓮托生なのではないか。
一度そう思考が進んでしまえば、この学校の解像度は一気に上がる。自分はどう立ち回るべきか。クラスをどう導くべきか。そういう思考に自然と変わっていく。だが、確信がない。踏み込めない。だからこそ、葛城はまだ止まっていた。
その葛城へ、赤司は当たり前のように言う。
「――クラスポイント、と言うものがあるそうだ。さすがに名称を知ったのは最近だがな」
「なに……?」
葛城の喉が、かすかに鳴った。
「クラスに対する評価を示すポイントである、クラスポイントの数値によって所属生徒に支給されるプライベートポイントの額が決定する」
その説明は、あまりにも自然だった。赤司にとっては、もはや確定事項に近い情報であることが、声の温度から伝わる。
葛城は一瞬、息を止める。
「やはり……そう言う仕組みだったか。確実なんだな?」
「ああ。ちなみにこのルールについての正式な説明は、5月1日……つまり次のプライベートポイントの支給日にされるそうだ」
葛城の瞳が、わずかに熱を帯びた。
クラスポイント。クラスに対する評価。個人へ支給されるプライベートポイントが、その数値によって変わる。もしそうなら、すべての生徒は“個人”である前に“クラスの一員”として扱われることになる。葛城の読みは、ほぼ当たっていたことになる。
だが、彼の高揚はすぐに別の疑問へ変わる。
「なぜ俺にそのことを教えた?」
普通に考えれば、赤司がこの情報を公表すれば、それだけでクラス内での立場を上げられる。葛城はそういう利点も理解しているはずだと踏んでいた。実際、赤司は知略も存在感もある。クラスを導く人物として不自然ではない。むしろ、そういう資質があるからこそ疑問でもあった。
なぜ自分ではなく葛城に渡すのか。
赤司は、葛城の問いに対し、あくまで静かに答える。
「効率の問題さ。現状、俺がこの事を発言をしたところで聞く耳を持たない連中もいる。だからこそこの件は葛城に任せるべきだと考えた」
暗には言わない。だが、特に男子たちを指していることは明らかだった。
赤司は女子からは早い段階で注目を集めていた。しかも先日、白石飛鳥と西川亮子と出かけたという情報が、男子側のヘイトに拍車をかけている。赤司が何か言えば、まずは反発が立つ。ならば、今の段階で最も効率がいいのは、葛城に話させることだった。
「俺は誰がリーダーに相応しいかなんて話は心底どうでもいい。この学校の仕組みが分かった今、重要なのはこのクラスが勝者であり続けることだ。違うか?」
葛城は、短く首を振る。
「その通りだな……分かった。この件は俺からクラスに伝える、今後の立ち回りについても含めてな」
「ああ、よろしく頼む」
葛城はひと息置いてから、さらに言った。
「赤司。お前にはこれから頼ることが増えると思う。ぜひ連絡先を教えてはもらえないか」
「もちろん、構わない」
赤司が端末を取り出そうとした、その瞬間だった。
手が、一瞬止まる。
だが、次の動作は淀みがない。何事もなかったように端末を操作し、葛城と連絡先を交換する。葛城はその一瞬の停滞には気づかなかったらしい。赤司だけが、それを自覚していた。
連絡先の交換が終わると、葛城は屋上を去ろうとした。だが、その直前、彼は思い出したように振り返る。
「――赤司、坂柳についてどう考える?」
赤司は、しばし無言で葛城を見たあと、淡々と答える。
「特に何も。関わったのも初日にチェスをした程度だ。連絡先は後から交換はしたがな」
「そうか。なら――」
葛城が続けようとしたその言葉を、赤司は端末の画面を見せることで遮った。
「だが、今しがた“今日の放課後に話せないか?”と連絡が来たが」
赤司は穏やかに笑っていた。だが、その笑みは葛城にとって決して軽いものではない。
「……向こうに付く気か?」
「そんなつもりは毛頭無い」
葛城は、赤司の顔を見たまましばらく黙る。
「……ならいい」
そうだけ言い、背を向けた。
だが、その足が動き出す直前、赤司は呼び止める。
「――葛城。一つ提案がある」
葛城が止まり、半身だけ振り返る。
何を言うつもりかを測る目だった。赤司はその視線を受けながら、静かに口を開いた。
葛城が屋上を出たあと、赤司はしばらく風を受けながら手すりにもたれた。さきほど自分で口にした言葉が、頭の内側で反芻される。
――俺は誰がリーダーに相応しいかなんて話は心底どうでもいい。
赤司は、ふっと鼻で笑った。
どうでもいいと思うのは当然だ。何故なら、自分以外に適任がいるなど、はなから考えてすらいないのだから。
♢
放課後、葛城は約束通りクラスメイトたちを少しだけ残した。
何が起こるのかと、教室には軽い緊張が走る。だが葛城は、そこであえて断定的な単語を避けた。クラスポイントという名称も伏せる。代わりに、この学校が実力で評価すること、そしてクラス単位の評価軸が存在する可能性が高いことを伝える。
だからこそ、授業態度や生活態度に気をつけて欲しい。
そう説明する葛城の口調は、決して熱っぽくない。だが真面目だった。彼の言葉には、自分なりに把握した危険を共有しようとする姿勢があった。
そして最後に、葛城は補足する。
「この情報は赤司が手に入れて来てくれたものだ」
その一言は、場の空気に確かな影響を与えた。
葛城の言葉を普段から信頼している男子たちには、赤司への評価が上がる。女子たちには、元々注目の的だった赤司の格がさらに増す。橋本が驚いたように赤司を見たのも、その効果の一つだった。
赤司は、穏やかな笑みで橋本を見返すだけだった。
そこから先は速かった。
葛城はクラスメイトたちに対して、他クラスへ情報を漏らすなと念押ししたうえで、それぞれの立ち回りについても短く触れた。今このクラスに必要なのは、無駄な衝突ではなく、足場を固めることだと。誰かが突出するより、全体の評価を下げないことが重要だと。
葛城が説明を終えた後、赤司は一度体育館に寄った。チームメイト達に個別に練習メニューを渡してから、学校を後にした。
赤司はそのまま、彼女から指定された茶屋へ向かう。
その店は、完全個室の空間を備えた場所だった。密会にはもってこいだと、入った瞬間に分かる。高育の中で、ここほど人目や監視カメラを避けやすい場所はそう多くない。赤司は扉を開ける前に、わずかに目を細める。
立ち止まり、一瞬だけ後方へと視線を切った。
懐から自身の端末を取り出し、簡潔なメッセージを一つ送ってから扉を開けた。
個室に入ると、坂柳有栖がすでに綺麗な姿勢で座っていた。
小柄な体躯。杖。整えられた髪。どこから見ても華奢で可憐だが、その雰囲気の奥にあるものは決して柔らかくない。赤司はそれを知っている。
「待たせたな、坂柳」
「構いませんよ。お忙しい身ですもんね、赤司君は」
含みのある言い方だった。だが、赤司は動じない。
向かいに座ると、坂柳は早速、くすりと笑った。
「橋本君が嘆いてましたよ。毎回お昼に誘ってるのにまだ一度も一緒に昼食を共に出来ていないと」
「それは悪いことをしたな。だが――」
赤司はそこで一度言葉を切る。
「坂柳こそ橋本に負担を強いているように思うがな」
「はて? 何のことでしょうか」
とぼける声だった。
赤司は、言葉を返す代わりに一枚の紙を机へ置いた。
そこには、先週に橋本が作ったリストが記されていた。赤司と遊びたいと言っていた女子たちの名前が並んだものだ。白石飛鳥や西川亮子を含む、あの紙である。
赤司はそれを坂柳に見せながら、静かに言う。
「それなりに異性のウケが良い自覚はある。だが一、二週間という時間ではいくらなんでも多過ぎる」
ここでの“多過ぎる”は、好意を抱いている女子の人数のことではない。出かける話まで上がっている人数のことだ。しかもその件で、女子達から赤司本人には一切声がかかっていない。
白石と西川にしても、実質的な初対面はカラオケに出掛けた日だった。つまり、彼女達が赤司に声をかけるための経路そのものが、すでに別の力で制御されている。
赤司は結論へ至っていた。
「大方、橋本には俺と友人関係にあるという事を女子生徒達に話すよう指示を出した。そして仲をとり持つと約束させていた」
それが女子同士のコミュニティに浸透し、ひとつの刷り込みになる。
“赤司征十郎と親しくなるには、橋本正義に橋渡しをしてもらう必要がある”という刷り込み。
その構図ができあがれば、二週間という短くはない時間がたっても、クラス内で赤司に固定したグループはできにくい。
更に容易には関われないというブランド感は女子人気を加速させ、“赤司様”などという呼び名まで生んだ。しかも同時に、その人気の上昇は男子たちのヘイトも集めた。
橋本は赤司という存在を大きく高く見せることによって、結果的にクラス内での赤司の影響力を制限していた。
だが、赤司はその動きをまったく見逃していたわけではない。
バスケ部や他の案件があったから、都合がいいと判断して放置していた。それだけのことだ。
坂柳は、あっけらかんと述べた。
「そこまで分かっているなら、隠す意味もありませんね」
そして、ついでのように付け加える。
「橋本君。こんなに短期間で、ここまで女子と話したのはさすがに初めてだって疲れ切ってました」
クスクスと笑みを浮かべる坂柳。この計略を案じたのは自分だと明らかにする態度であった。
赤司は、この件に関するある疑問を口にする。
「だが、一つ気になるのは白石と西川と遊ぶことになった件だ。実際に俺に交友を持たせることはこの策の目的に反する」
「ああ、アレは橋本君の独断ですよ。何でも赤司君に勘付かれないためにバランスを取る必要があるとか何とか言ってましたけど」
坂柳は、肩をすくめるようにして答えた。
どうやら坂柳の陣営――もとい坂柳と橋本も一枚岩ではない。
「まあ、そんな点は些細な問題です。昼休み、葛城君と会っていたそうですね。大方、“クラスポイント”についての話をしていたのでしょ?」
その単語が、あまりにも自然に飛び出した瞬間、赤司は確信した。
この少女も、赤司と同じ結論に辿り着いている。
「Sシステムについて看破していたか」
「ええ、誰かさんがご丁寧にヒントをくださいましたしね」
入学初日に行ったチェスの前のやり取り。それが、彼女に疑問を与え、思考をさせるものとなった。
しかし結論が付いた話に興味が無いのか、話を切った。
「ですが今となってはその点も些事です」
坂柳の口元が、細く上がる。
まるで今思い出したかのような素振りを見せ、別の話題――いや、彼女にとっての本題に繋がる事を口にする。
「知ってましたか? 葛城君、生徒会の面接に落ちてしまったそうですよ」
「どうやら、そのようだね」
その話は、新入生の間ではすでに知られていた。葛城とBクラスの一之瀬という生徒が、生徒会への加入を希望し、認められなかったことは、噂として広がっていた。
うんうんと頷く坂柳。穏やかな笑みを浮かべる彼女であったが、その瞳は鋭さを増す。“絶対に逃さない”という意思、それがあった。
「ええ、そうでしょうね。ここ一週間、
赤司の目が、わずかに見開かれる。
個室の空気が、ほんの一瞬だけ止まった。
坂柳はその変化を逃さなかった。
「おや、ようやく、その涼しい顔が崩れるのを見ることが出来ましたね」
彼女は口の端を吊り上げた。
“やはり、ここが急所か”と言わんばかりの表情。
それは勝利を確信した者の笑みであった。