時は遡り、二週間ほど前。部活動説明会の翌日の昼休みの時間。
赤司征十郎は、二年生のエリアへ向かう廊下をひとり歩いていた。先ほど橋本から誘われた昼食は断りを入れ、歩みを進める。
そのまま階段を上がり、三年生のフロアへ出る。二年生の階と違い、空気が一段落ち着いている。視線の置き方、荷物の運び方、廊下を行き交う生徒の足取り。どれも、上級生であることを自然に示していた。
赤司は歩みを緩めず、そのまま視線だけを巡らせた。
一見すると不可解な動きだが、明確な意味のある行動だった。
一人の人物に会うための動き。
そして、案の定――。
「何をしている、赤司」
背後から、低く整った声がかかる。
赤司は足を止めずに、ただ口元をわずかに緩めた。
振り返ると、そこには堀北学が立っていた。眼鏡の奥にある視線は鋭い。だが、それはただの警戒ではない。相手を値踏みしている。
赤司は薄く笑って、静かに頭を下げる。
「こんにちは、堀北先輩。お会いできて何よりです」
その丁寧な挨拶に、堀北学の視線はさらに鋭くなる。だが赤司は怯まない。
「少し話すことは出来ますか」
堀北学は一瞬も迷わなかった。
「いいだろう。ついてこい」
その返答に、赤司は特に驚きもしなかった。むしろ、ここまでの流れは想定通りだった。
向かう場所は生徒会室であった。その道中、二人の間に会話はほとんどなかった。必要なこと以外は口にしない。どちらも、その方が速いと知っているからだ。
生徒会室に入ると、整然とした空間が広がっていた。堀北学は椅子に腰掛けるなり、単刀直入に切り出す。
「それで話とはなんだ」
赤司は迷わず答える。
「生徒会の人員を募集していると聞きました」
堀北学の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「ああ。だが昨日の説明会でも伝えたはずだ。原則として部活動との兼任は認められていない。お前はバスケ部への申請をしたはずだ。お前が如何に優秀であっても認められない」
「ええ。ですが“規則ではなく原則”という表現を使ったということは、例外はありうるということ」
「……ああ、確かにそうだ。だが、入学したばかりのお前がその例外として認められることはない」
赤司は、そこで素直に引く。
「そうですか。では残念ながらこの話はここまでですね」
あまりにもあっさり退くものだから、堀北の目に、かすかな興味が生まれた。それを赤司は見逃さない。
そこで思い出したように、赤司は話題を変えた。
「生徒会と言えば、副会長の南雲先輩。随分と面白い方のようですね。クラスだけでなく学年全体を掌握している様子。まあ、この学校の性質を考えるなら悪くない方法だと思いますね」
堀北学の視線が、明確に鋭くなる。
南雲雅。その名を、赤司が当然のように口にしたからだ。入学三日目の一年生が、そこまで知っていること自体が異様だった。
“この学校の性質”という赤司の言葉には、明確にこの学校の真の在り方を理解していることを示していた。それも入学から僅か三日ほどで。
赤司はさらに続ける。
「ですが手緩い。彼の方針で進むなら他クラスを再起不能にするまで退学者を出させるべきでしょう。手段を選ばないなら方法は幾らでもあるはずでしょう」
堀北学は、その言葉を聞いた瞬間、最悪のシナリオを思い浮かべた。
南雲雅と赤司征十郎が、もし組んだらというシナリオ。
南雲の能力は言うまでもない。そこに赤司が加わればどうなるか。入試での実力、Sシステムを看破しているであろう洞察、そして今この短いやり取りだけで分かる、人を惹きつける圧。危険だった。あまりにも危険だ。
さらに、今の二、三年が卒業した後、この男が学年を掌握した光景を想像して、堀北学は背筋が冷えるのを覚えた。
奇しくも、赤司の同級生には――彼の妹がいる。
これ以上、この男を放置する選択肢は堀北 学にはなかった。
「……一つ聞かせろ。生徒会に入る目的は何だ?」
赤司は、穏やかな笑みを崩さないまま答えた。
「完膚なきまでの勝利を得るためですよ」
その一言で、堀北学の中にあった疑念は、ほとんど確信に変わった。
赤司征十郎は、生徒会に入れる器だ。だが同時に、危険でもある。
ならば、利用するしかない。いや、利用という言葉は少し違うかもしれない。側に置いておく重要性を抱いた。
堀北学はしばらく黙ったあと、ひとつの密約を口にした。
赤司征十郎の生徒会加入を認める。ただし、バスケ部との兼任という例外的所属である以上、どちらの活動にも支障がないことを、堀北学へ示すこと。
加えて、
その一環として、バスケ部入部初日に行われた紅白戦を、堀北学は自ら見届けた。
赤司がバスケ部で地位を確立する瞬間を、目の前で確かめた。
そして放課後がバスケ部の練習に充てられる以上、昼休みの時間は生徒会としての実務を覚えるために使う。実際、堀北学は昼休みのたびに赤司を呼び出し、必要な仕事をひとつずつ叩き込んでいった。データの整理。書類の流れ。各学年との連携。表向きのルールと、実際の運用の差。
赤司は驚くほど早く吸収した。
生徒会の役員たちに存在を明かさないまま、必要な業務の大半は既に赤司の頭に入っていた。堀北学が想定していた時間よりも、ずっと早かった。
そして、赤司には別の条件も課された。
例外的な生徒会所属を認める代わりに、南雲 雅に対する抑止力となること。
このような経緯で、赤司は正式な生徒会役員となる目前にいた。
♢
坂柳 有栖は推察する。
赤司 征十郎は生徒会役員になろうとしている。だが
つまり、そこには明かせない事情があると言うこと。
ではそれは何か。彼は既にバスケ部に所属している。その状況での生徒会の掛け持ち。兼任という例外的措置のための時間を設けている状況だと推察できる。
彼はまだ、正式な生徒会役員ではない。
この状況で彼女がこの情報を流せばどうなるか。多くの者にとって彼はまだ新入生のうちの一人でしかない。そんな者が優遇された扱いを受ける事にどれほどの人間が納得するか。
そんな曖昧な立場にある彼。もしそこに悪評を広めるなりすれば、一気に生徒会加入は白紙に追い込める。
逆に部活動と生徒会の兼任ができると驕った生徒という烙印を付けることもできる。
坂柳は自身の有利を確信していた。
そこで、彼女は一枚の紙を取り出しテーブルに置く。
「赤司君、私に手を貸してくれませんか。そうすれば貴方が隠していたことは黙っていましょう」
机の上に置かれたそれは、誓約書と記された紙だった。
内容は単純だ。坂柳が秘密を保持する代わりに、赤司が彼女の指示に全面的に従うこと。
赤司はその用紙をしばらく眺め、それから静かに笑った。
「フッ。随分と必死だな、坂柳」
坂柳の笑みが消える。
「いったい何がおかしいんでしょうか?」
「“山村美紀”。彼女を利用した尾行は悪くないものだったよ。その一点だけは驚かされた」
山村美紀。赤司と同じAクラスの女子生徒だが、教室でも存在感が薄い。教室での様子からは、坂柳と山村に関係があるなど赤司にも分からなかった。
だが彼女の特異性を利用すれば、赤司に悟られず尾行することも不可能ではない。
そのような逆算的思考から坂柳の情報源を捉えた。
「俺も彼女の存在はこのクラスにおけるある種のジョーカーのように思っている。だが、どれほど強力な手札でも、切る人間によっては無価値な紙切れに終わることもあるものだ」
「……それは私が無能な人間と言いたいのでしょうか」
静かな声だった。だが、その奥には明確な憤りがある。
赤司は首を振る。
「いいや、君ほど優秀な人間には数えるほどしか会ったことはない」
否定したうえで、赤司は続ける。
「ただ、俺の“生徒会加入”というカード、そして“山村美紀”という鬼札。どちらも切るタイミングが中途半端だった」
坂柳はまだ、自分の側が有利だと判断している。だから、赤司に説明する余裕を与えていた。
「まず俺の生徒会加入というカード。これは時間経過とともに効力の落ちるカードだ。俺が周囲に認められる土壌を作りさえすれば無価値になる」
「ええ、ですからこのタイミングで切った。私の目算では五月一日、そこが目安だと思っていたので」
赤司は首を振る。
「いいや、君がこのタイミングでそのカードを切った理由。その本質は違う。君は俺と葛城が接触したタイミングで、俺と対話をする決断をした」
坂柳の顔色が、わずかに動く。
「それは何故か? 君は俺と葛城が協力をすることを恐れた。もっと言うなら、葛城のグループを俺が取り込むことを警戒した」
「いいえ。貴方と葛城君がどのような関係になろうと私には一向に構わない。ですが、葛城君が貴方に悪感情を向け、貴方との対立関係を煽ることは意図したことは認めましょう。結果的に葛城君の弱体化も図ることが出来る。そのような“付加価値”のついたタイミングかと判断したまでですよ」
赤司は、その言葉を受けて静かに言う。
「そう、その付加価値に君の目は眩んだわけだ。そもそも五月一日という期限。君の目算だと言ったが違うだろう? これは山村美紀が耳で拾った情報なんだろう?」
坂柳の眼差しが、ほんの一瞬だけ揺れた。
生徒会室でなされた赤司と堀北学の密談を、山村が密かに拾っていた。そう結論づけるには十分だった。
「だからこそ君は、五月一日が自分の持つ情報の消費期限だと決めつけた。二週間弱を残すこの状況なら充分に効力を発揮すると考えてね。そして自分の勝利を盲信してしまった」
赤司はそこで、自身の端末を取り出す。
画面に表示されていたのは、掲示板通知。生徒会公式からの情報が発信されていた。
“生徒会よりお知らせです。
1年Aクラス赤司征十郎を生徒会役員として任命したことをお知らせします”。
発表は、ほんの数分前。
坂柳の目が、大きく見開かれる。
「一つ補足しておくなら五月一日という期限。これは堀北学が余裕を持って俺が生徒会に相応しい人材となるために取り決めた期限だ。確定している日時でもなければ、俺自身はこの日を待つ必要性はそこまで感じてはいなかった」
実際、赤司は既に必要な業務のほとんどを覚えていた。過去数年分のデータも頭に入れた。堀北学の想定より、ずっと早い。昼休みだけの限られた時間で、引き継ぎは既に終えている。
坂柳は、そこまで聞いてもまだ動く。
「で、ですが……例外的な扱いである貴方が生徒会に迎えられること。上級生が歓迎するでしょうか。特に南雲雅は生徒会に入るためにサッカー部を辞めている。彼よりも優った扱いをされる新入生を全員が歓迎するはずがない」
赤司は、彼女の言葉に答えず、誓約書の下に置かれた橋本のリストを再び見せた。
「このリスト、なぜ上級生の名前まで書かれていると思う?」
坂柳は、その意図にようやく辿り着く。
「…………橋本君を利用したんですか」
赤司は頷いた。
「橋本から聞いているんだろう? 俺が毎日昼休みに堀北学をわざわざ出迎えに行っていたことを」
赤司は、昼休みのたびに堀北学を迎えに行っていた。しかも必ず二年生のエリアを通り、三年生のエリアを抜ける経路だ。三日目から続いていたその行動は、自然と上級生の関心を集めた。毎日違う学年のエリアに現れる、容姿の良い新入生。声をかけようとする女子もいた。
橋本はそのような上級生達の動きを牽制しようとした。
しかし同級生達を牽制するよりも強い理由がいる。そこで橋本の知っている情報で最上の言い分を用いた。
“あの赤司は、堀北 学が目をかけている生徒だ”、と。
そう言えば上級生達は自然と手を引く。
この学校で最も権威のある生徒の不興を買いたいとは誰も思わないからだ。
「まあ、橋本は利用されているなどとは考えてもいなかっただろうがな」
橋本の行動はあくまで坂柳の指示によるもの。その為に最善を尽くそうとしていただけ。
坂柳の指示のもとに成された牽制を赤司は利用した形に過ぎない。
「つまり俺や堀北学は既に準備を終えていたわけだ。だからこそ俺がすべきことは、お前に先んじて公式の情報としてこの事実を発表する事のみ。だからこそこの店に入る前に彼に連絡して発表をするよう頼んだ」
赤司は、誓約書を見下ろす。
「お前の敗因はただ一つ、中途半端だったこと。俺が生徒会室に行った初日にリークするなら、生徒会への加入を一旦は諦めざるを得なかっただろう。逆に静観を決め込むなら山村という手札が俺に曝け出されることもなかった」
坂柳は俯く。唇を噛む。初めて、完全に敗北を悟った顔だった。
赤司は静かに立ち上がる。
「何か他に聞きたいことはあるか?」
坂柳は目を閉じた。それを確認し、赤司は淡々と告げる。
「坂柳。俺を本気で潰したいのならクラス内での勝負に徹しろ。盤外では勝負にもならない」
そう言い残して、個室を出る。
♢
赤司は茶屋を出た後、静かに歩みを進めた。
そして建物と建物の間にある目立たない場所に入る。そしてそこで待っていた人物に声をかけた。
「――悪くない働きだったよ、橋本」
「褒められてもな。俺は別にお前のために動けた気はしないんだが……ったく“坂柳の走狗になれ”なんて、どんなオーダーだよ」
呆れた声だった。だが、赤司はそれに笑みを返す。
「だがお前の働きによって、想定よりも早く坂柳が仕掛けてきた」
その結果、返り討ちにできた。
「二度目の敗北。しかもどちらも自ら仕掛けた盤面でだ。彼女はしばらくは様子見に徹するだろう」
「もし、またすぐに勝負を仕掛けてきたらどうするんだ?」
赤司は、あまりにも冷たい目で答えた。
「愚行を繰り返すようなら、その程度の存在だったと言う事だ。見極める価値も無い。即刻、退学願おうか」
橋本は、その表情に思わず言葉を失った。今まで見てきた赤司とは、少し違う顔だった。
空気がわずかに重くなる前に、橋本が話題を変える。
「で、俺はこれからどう立ち回ればいい?」
赤司は即答する。
「好きにしろ。だが俺の下に就こうとはするな。自由に動け。裏切るのも構わない、鞍替えするのも構わない。それがお前が最も活きる方法だ」
「いいのか? 逆にそれでお前にマイナスとなることもあるだろ」
「その程度で失うものなど些細なものだ」
赤司は断言する。
橋本は、葛城のことを持ち出した。
「葛城との関係もか?」
例外的な生徒会加入により、赤司と葛城の間に亀裂が生じたのではないか。そう懸念しているのだろう。
赤司は首を横に振る。
「葛城の方は問題ない。屋上で話した時に既に伝えていた」
「マジか」
葛城には、生徒会に加入したことを事前に伝えていた。その上で、ある提案もしていた。
赤司は、少しだけ目を細める。
「お前も坂柳も葛城を侮り過ぎた。一定のラインでなら損得と感情を区別できる人間だ。昼に与えた助言で俺は葛城に益のある人間だと示し、その後に生徒会に加入したことを自ら明かした。葛城に思うところはあったとしても関係性は崩れない」
葛城は赤司を有益な存在だと判断した。だからこそ、まともに話すのが初めての状況でも、葛城の方から連絡先を交換する判断をした。
さらに、生徒会に入ったことを赤司が自ら明かしたことで、誠実な人物だと葛城は評価したのだ。
だからこそ放課後、クラスにポイントについて説明する際、葛城は赤司から得た情報だと告げた。それは葛城なりの信頼の証だった。
葛城とは信頼を築き関係性を深め、坂柳には敗北を刻み牽制をした。
Aクラスという盤面は、徐々に赤司に傾き始めている。
赤司は冗談めかして言う。
「ふっ。いっそあの二人が協力してくれれば、もう少々面白味はあったんだがな」
橋本は苦笑する。
赤司は、静かに空を見上げた。
「五月からは本格的にクラス間闘争が始まる。内輪揉めなど早期に終わらせるに越したことはない」
そして、赤司は微笑む。
「さあ、征こうか」
王は、一歩を踏み出した。