暁天
五月一日。
入学からおよそ一か月が過ぎた朝、赤司征十郎は、いつものように静かに目を開けた。
寮の部屋にはまだ薄い朝の光しか届いていない。季節は春の終わりへ向かっている。だが、学園の空気は気温とは別の意味で、徐々に熱を帯び始めていた。
坂柳と茶屋で対話してから二週間が経過した。
だが坂柳は赤司に対してアクションを起こすことはなかった。
あの日、茶屋の個室で見せた焦りと苛立ちは、確かに小さくない傷を彼女に残したはずだった。だが坂柳は、その後、表立って赤司へ絡んでくることはしなかった。いや、絡めなかった、という方が正しいのかもしれない。
これまでとは一転して静観を貫く彼女に、側仕えする橋本は不気味だと述べたが、赤司にとっては大きな問題ではなかった。
また、生徒会への加入も、堀北学の推薦という形で正式に通った。Aクラスの一生徒が、学校の上層に食い込んでいる。その事実に、表立って噛みつく者はいない。南雲雅との会話で軽く試されることはあったが、あの男もまた、赤司の実務能力を見てすぐに態度を変えた。
「使えるのなら使うべきだ」とでも言いたげな、実に生徒会らしい反応だった。
バスケ部においても、四月末に正式に赤司はキャプテンとなった。一部、退部した者こそいたが、実力とカリスマ性を持つ赤司がキャプテンとなる事に明確に異を唱える者もいなかった。
クラス内でこの二週間で起きたことは、外から見れば派手ではない。
気になる事と言えば、季節外れの水泳授業。妙に難易度が偏った小テストの二つ程度のもの。
赤司はベッドから起き上がると、着替えを済ませ、ランニングウェアへ身を包んだ。今日もまた、いつもと同じ朝が始まる。
寮の出口へ向かうと、すでにそこには一人、待つ姿があった。
「待たせたね、葛城」
「問題ない」
葛城康平は、汗を拭くためのタオルを首にかけて立っていた。
この朝のランニングが始まったきっかけは、二週間前の二つの出来事だった。
一つは、水泳の授業である。
授業の一環として男女別で行われた競争の場で、赤司は圧倒的だった。水を切るフォーム、スタートの反応、ターン後の加速。どれもが隙なく整っていた。もとより赤司はバスケットだけでなく、身体の使い方そのものが洗練されている。生徒たちの間でざわめきが起きるのも当然だった。だが、赤司にとってはそれすらも特別なことではなかった。
そしてもう一つは、真嶋によっておこなわれた小テストだ。
あのテストは、一科目四問、計二十問。各五点配当の百点満点という形式だったが、最後の三問だけが異様に難しかった。高校一年の範囲を明らかに逸脱している。赤司は当然のように対応したが、葛城が最後の三問の解き方について疑問を口にした時、赤司はあっさりと説明してみせた。
その瞬間、葛城は心底驚いた顔をした。
クラスポイントの仕組みを察し、学校の評価軸を追い始めた男。その上で、自分よりも先にその先を見ている生徒が、学力においても明確に上へいた。しかも、赤司はそれを鼻にかけるどころか、いつも通り穏やかだった。
そこで、葛城は赤司 征十郎があらゆる面で自分の先を歩く人物であると明確に認めた。
だからこそ、自分はAクラスの暫定的なリーダーとして、赤司というクラスメイトに相応しい存在にならなければならない。
そう考えた葛城は、赤司が毎朝ランニングをしていることを聞きつけると、迷わず同行を申し出た。
そして一週間が経過した。
そのメニューは、葛城の想像を超えていた。
赤司のランニングは、単なる長距離ではない。短い加速、間断のない切り返し、心肺を追い込む持久走、脚力の維持と回復を組み合わせた、バスケット選手向けの実戦的な強度だった。生徒会加入もあって、赤司はバスケ部の練習量を一部減らしている。だからこそ、その分を朝の時間で補っていたのだ。ランニングというよりランメニューであった。
結果として、初日から三日目までは、葛城は授業中に極限の睡魔と疲労と戦う羽目になった。その強面がまさに鬼の形相と化して授業を受けていた。
一週間が過ぎた現在も、息も絶え絶えに走り続けることになったが、それでもなお、彼は一度も脱落することはなかった。
そして何よりも、彼は赤司より先に寮の前へ到着し、準備を整えるようになっていた。
葛城のそういうところを、赤司は好ましく思っていた。
これは完全に余談だが、四月の中程。まだ葛城とこのような関係に赤司がなる前に、橋本 正義という男が赤司に媚を売るために参加した事があったのだが、初日の一回で完全に音を上げ、翌朝から姿を見せなくなった。
どうやら、朝のランメニューは社交辞令で参加するものでは無かったのだろう。
赤司と葛城は、寮を出て朝の敷地へ足を踏み入れた。
空はまだ少し冷たく、しかし光は確かに強くなっている。周囲では、同じように走る生徒もちらほらと見えるが、赤司たちのペースはそれより速い。いや、正確には赤司のペースが速い。葛城はそれに食らいつくようにして走っていた。
途中、何度か折り返しを挟みながら、二人は一時間近く走り続けた。赤司は呼吸を乱さず、葛城は汗を滝のように流しながらも、どうにかついてくる。
やがて、赤司が歩みを止めた。
葛城は少し遅れて膝をつき、そのまま地面へ伏せる。スキンヘッドから汗が滴り、朝の光を受けて小さく反射した。
そんな葛城の姿に、赤司は僅かに微笑む。
そして、近くの自販機へと向かった。
少しして戻ってきた赤司の手には、水のペットボトルが二本ある。一本を葛城へ渡すと、葛城はようやく上体を起こした。
「……すまない」
「気にするな。一応はテニス部に所属している橋本が音を上げる程のメニューだ。むしろ、よく着いて来れていると感心しているくらいだ」
赤司の言葉に嘘はない。葛城は何も言わず、水を一気に飲んだ。
少しだけ呼吸が落ち着く。
そこで、葛城は視線を上げて赤司を見る。
「橋本、か……仲が良いのか?」
赤司は、少しだけ首を傾げた。
「どうだろうね? 彼は坂柳の側にいる事が多いし、彼女の指示で動いていることも否めない」
曖昧な返答だった。だが、葛城はそれを自然に受け入れた。赤司の言い方には、橋本との距離がそこまで深くないことが滲んでいる。少なくとも、葛城にそう思わせるには十分だった。
「坂柳か……もし困っている事があれば俺から釘を刺すこともできるが」
葛城の言葉は、心からの気遣いだった。赤司はそれを否定もせず、ただ静かに返す。
「いや、特に何も無いよ」
「だが女子達とのことは聞き及んでいる。橋本によって交流を制限されているとな」
赤司は、一瞬だけ目を細めた。
あの橋本の動きは、確かに坂柳の策の一部であり、同時に赤司にとってもいくつかの点で都合が良かった。
現状の最たる点として、女子達の過剰な接触は、今の赤司には少しばかり面倒だった。断る手間を橋本が肩代わりしてくれている以上、少なくとも赤司が不利益を被ることはなかった。
「それこそ問題ないよ。むしろ……助かってはいる。あまり言い寄られるのも困りものだからな」
橋本の牽制というものがあっても、下駄箱や机に恋文などの古典的な方法で攻めてくる女子もいるほど。全てに対応していてはキリがない。
葛城は、その言葉に苦笑する。
「クラスの連中が聞いたら怒りを買いそうだな」
赤司の、半ば素での“モテ自慢”だった。本人に自覚があるのかないのか分からないほど、あまりに自然だったので、葛城も冗談として受け取るしかなかった。
ひと息入れたあと、二人は寮へ戻る。
寮の前が見えてきた頃、葛城はふと、ある話を思い出したように赤司へ問うた。
「赤司。端末は確認したか?」
赤司は、すぐに答える。
「ああ。今朝97,000ポイントが振り込まれていた」
「俺も同様だ。やはりお前の言っていた通りだったな……」
5月1日。ポイント支給日。
前回の10万ポイントから、今回は9万7000ポイントへ下がっている。3,000のマイナス。これが大きいか小さいかは、他クラスの様子を見なければ断定はできない。だが、二人には既にその意味が見えていた。
自クラスがマイナス評価を受けたという事実に、僅かに浮かない顔を見せる葛城に赤司は穏やかに語りかける。
「そんな顔をするな、お前は十分良くやっていた。それに他クラスの様子を観察していたが、俺たちのクラスほど授業態度や生活態度が良いとは言えない」
葛城の行動は、この二週間で確かにクラスへ影響を及ぼしていた。赤司によって学校の仕組みを知ったあと、彼は定期的にクラスメイトへ釘を刺していたのだ。授業中の居眠り、遅刻、私語、無断離席。細かなものでも、葛城は一つ一つ見逃さなかった。
当然、面白くない生徒もいた。だが、葛城自身が誰よりも真面目に生活していたため、彼を咎める者はほとんどいない。そこに赤司の存在もあった。自分だけが勝手に威張っているわけではない。明確な根拠を持って、葛城はクラス全体の利益を考えていた。
だからこそ、3,000ポイントの減少は、まだ許容範囲に収まっていると赤司は見ていた。
「他クラスはマイナスが俺たちより大きいという事か」
「おそらくな。まあ、そうした点も含めて学校側から説明があるはずだ」
「そうだな」
寮の前に着き、二人は軽く挨拶を交わし、それぞれの部屋へ戻った。
♢
赤司がAクラスの教室に着いたのは、かなり早い方だった。
案の定、教室内は支給ポイントの話題でもちきりだ。だが、葛城が事前に予告していたこともあり、昨日ほどの混乱はない。皆、手元の端末を見ながらも、冷静さを装っていた。
葛城もすでに来ており、数人の取り巻きに囲まれている。赤司と軽く目を合わせると、葛城は僅かに頷いた。赤司もまた、短く応じる。
席へ向かおうとしたところで、前方から橋本がやって来た。
「聞いたか、赤司。Dクラスの連中、ポイントの支給が無かったらしいぞ」
赤司は、淡々と答える。
「そうか」
橋本は、思わず苦笑した。
「その感じ、もしかして既に知ってたか?」
「いいや。今聞いたところだ。まあ、予想していた通りではあったかな」
他クラスの様子はある程度把握していた。その中で圧倒的に授業態度と生活態度の悪いクラスがDクラスであった。0という数字も十二分に予測できた。
その時、教室の入り口に坂柳が現れる。
橋本はさっと立ち上がる。
「じゃ、また何かあれば共有する」
「ああ」
それだけで、橋本は坂柳の方へ向かっていった。
少しして、担任の真嶋が教室に入ってくる。
手には、ポスターのような大きな用紙があった。朝礼の後、真嶋は静かにクラス全体を見渡す。そして、やや硬い空気を含ませながら告げた。
「――お前達が気になるであろう事について話そう。本日支給されたポイントについてだ」
真嶋は、用紙を広げ、黒板へ貼り付ける。
そこには、AクラスからDクラスまでが縦に並んでいた。
Aクラス 970
Bクラス 650
Cクラス 520
Dクラス 0
真嶋は続ける。
「これはクラスポイントというものだ。お前達Aクラスの評価値を表すもの。そしてお前達に毎月、支給されるプライベートポイントはこの数値によって算出される」
教室内で、僅かなざわめきが起こる。だが、赤司を含めた数名は、表情を変えなかった。赤司から事前に詳細を聞いていたからだ。
「普段の授業態度や生活態度、遅刻、欠席、授業中の居眠りなどが減点対象だ」
葛城が行っていたことは、正しかったのだ。赤司はそれを改めて確認する。
真嶋は、少しだけ言葉を切ってから、誇らしげに言った。
「――過去、初月にここまでクラスポイントを残せたクラスは存在しない。お前達は最高のスタートを切れたクラスだ。自信を持って欲しい」
その言葉に、誰よりも反応したのは葛城だった。
思わず彼は、赤司の方へ視線を向ける。
この二週間、彼なりに苦労していたのだろう。確実な根拠がない状況でクラスメイトの言動に釘を刺す行為は、並大抵ではない。しかも、彼の周囲にいるのは、葛城を盲信する連中だ。弱いところを見せるわけにはいかない。
だが、今の真嶋の言葉は、その苦労を少しだけ肯定した。
そして、赤司の存在も大きい。
葛城にとって、赤司は自分より先を歩く生徒だ。だが同時に、見限られる存在ではない。必要以上に期待をかけてくるわけでもなく、必要な時には手を差し伸べる。だからこそ、葛城のその一瞬の視線は、赤司との関係性を如実に表すものであった。
真嶋は続ける。
「次に、先日行った小テストの結果を見せる」
もう一枚の紙が貼り出された。
クラスメイト四十名分の名前と点数。最上位は赤司の九十五点。二位は坂柳と葛城の九十点。そこから下は団子のように続いている。八十五点を取っている者もそこそこいた。赤司は一瞬で全体を把握し、平均点を七十六点と算出する。最下位は五十五点ほどだった。
赤司は、あえて一問だけ落としている。
満点を取ることはできた。だが、最後の三問のうち一問を落とした。完全に高校一年の範囲を逸脱している問題を、意図的に一つ外すことで、小テストの真意を探ろうとした。
真嶋は、淡々と続けた。
「今回の小テストでは関係ないが、中間テストや期末テストで赤点を取った者は退学となる。今回のテストでいえば赤点は三十八点だ」
教室が、今度こそざわつく。
退学。
その単語が、あまりにも唐突に現実味を帯びたからだ。
今回の小テストでは、Aクラスに赤点者はいなかった。だが、今後のテストには一切気が抜けない。高育は、普通の学校とは違う。点数は、ただの点数では終わらないのだ。
真嶋は最後に、もう一つの紙を貼り出す。
「最後にもう一つ。国の管理下にあるこの学校は、高い進学率と就職率を誇っている。だが、全ての生徒にこの恩恵が与えられるわけではない。卒業時にAクラスに在籍していた者のみが進路を保証される」
教室内で、はっきりとした驚きが走った。
だが、赤司と坂柳だけは、ほとんど動じていない。
クラスポイントが一番多いクラスがAクラスである以上、現Aクラスは、他の三クラスから追われる立場になる。真嶋の説明は、そういう意味を含んでいた。
「だがお前達なら、必ずAクラスで卒業できると確信している。そのためにも、まずは三週間後の中間テストに向けて準備をすることだ。退学を防ぐためにも、な」
真嶋はそう言い残して、教室を出ていった。
ざわざわとした空気の中、赤司征十郎はひとり、静かに黒板に貼られたクラスポイントを眺めていた。
彼が見ていたものは――。