機動戦士ガンダム0092 サウス・ナポリの「キッカの家」 ホワイトベースの少女とシャングリラの孤児たちが、放課後のキッチンで幸せを盛り付ける話   作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった

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出会いとおにぎり

宇宙世紀0092年、4月。

 

地球の空は、どこまでも高く、そして残酷なほどに透き通っていた。

 

この学園都市サウス・ナポリに集まる学生たちは、誰もが太陽の光を当然の権利として享受している。最新のファッションに身を包み、手には高価な合成飲料のボトル。彼らにとって、この街は「輝かしい未来」への助走期間に過ぎないのだろう。

 

でも、私にとっては違う。

 

キャンパスの向こうにそびえ立つサナリィの巨大な建造物を見上げるたびに、私は自分の指先を確認する。ひび割れ、水仕事で少し厚くなったこの指が、かつてベルファストの泥の中で、生きるために必死に何かを掴もうとしていたことを忘れないために。

 

「……お腹、空いた」

 

独り言が、乾いた風に溶けて消えた。

学食から漂ってくるのは、合成肉を焼くケミカルな香ばしさと、贅沢にスパイスを使ったソースの匂い。そのどれもが、私の一ヶ月の食費を軽々と超えていく。奨学生としてこの「特権階級の揺りかご」に潜り込んだ私にとって、学食のゲートを潜ることは、戦場に丸腰で飛び込むのと同じくらい勇気のいることだった。

 

私は人混みを避けるように、キャンパスの北端、旧い学生寮の裏手にある楠の巨木の根元に逃げ込んだ。

 

ここなら、誰にも見られない。

私はカバンから、古びた布に包まれた「それ」を取り出した。

 

包みを解くと、ラップ越しに真っ白な塊が姿を現す。

三角形に握られた、ただの塩むすびだ。

 

本当は、地球産の米なんて買える身分じゃない。これはコロニー公社が安値で放出した備蓄用の古米だ。何年も前の、宇宙の暗闇で眠っていた米。袋を開けた瞬間、鼻を突くのは独特の糠臭さと、長い時間を経た乾燥した穀物の匂い。

 

私は昨夜、独り暮らしのアパートの台所で、その米と対峙した。

ボウルに米を入れ、重曹をひとつまみ。指の腹で丁寧に、けれど執拗に米を研ぐ。重曹は古米特有の酸化した油分を中和し、匂いを取り除いてくれる。その後、わずかな酒を加えて炊き上げる。

 

炊飯器――といっても、リサイクルショップで拾った二十年前の旧型だが――が蒸気を上げたとき、私はようやく息を吐いた。

 

一口、齧る。

重力の下で、一粒一粒が主張し合う米の感触。

味付けは、ほんの少しの塩だけだ。

でも、これが私の「戦い」の記録だった。

 

最新のフード・コンポジターが出力する最適化された栄養素には、決して真似できない、不器用な生の重み。咀嚼するたびに、米の甘みがじわりと舌の上に広がる。鼻から抜ける香りは、もう古米のそれではない。重曹の魔法と、私の執念が作り出した、純粋な「ごはん」の匂いだ。

 

美味しい。

そう思った瞬間、視界が少しだけ滲んだ。

 

13年前、冷たい雨の降るベルファスト。

姉さんが、どこからか工面してきたパサついたパンを、私と弟に押し付けてくれた。

自分は何も食べず、「お腹いっぱいだから」と笑いながら。

あのパンの味と、今のこのおにぎりの味。どちらも、生きるための味だ。

私は、姉さんが繋いでくれたこの命を、安っぽい合成食で誤魔化したくなかった。

 

「……あ」

 

ふと、頭上で影が動いた。

反射的に体が強張る。見つかった。

「うわ、あの子あんなもの食べてる」という冷ややかな視線が飛んでくるのを覚悟して、私はおにぎりを隠そうとした。

 

でも、そこにいたのは、嘲笑を浮かべた学生ではなかった。

 

オレンジ色の短い髪を、春の風に奔放に遊ばせ、好奇心でいっぱいの瞳をこちらに向けている女の子。

彼女は、まるで見たこともない珍しいモビルスーツの新型機でも見つけたような顔をして、私のおにぎりを見つめていた。

 

「ねえ。それ、自分で握ったの?」

 

声が、弾んでいた。

私が今までこの街で聞いてきた、どの冷ややかな話し声とも違う、圧倒的な熱を持った声。

 

「……あ、はい。そうですけど」

 

声が震えた。私は、自分のおにぎりが、この街の美学に反する「汚いもの」だと思われているに違いないと確信していた。

 

「やっぱり! コンポジターの成型品じゃないと思った。三角形の角がね、ちゃんと生きてるもん!」

 

彼女は、迷うことなく私の目の前にしゃがみ込んだ。

近い。その子の瞳の中に、戸惑い、怯えている私の無様な顔がはっきりと映っている。

 

「決めた!」

 

「……え?」

 

「君、私のサークルに入って! 一緒に、こういう『本物』を食べる場所を作るの!」

 

彼女の言葉は、論理を飛び越えて、私の胸の奥に土足で踏み込んできた。

 

「あの、私は……そんな、サークルなんて、お金もかかりますし」

 

「お金なんて、なんとかなるって! 私はキッカ。キッカ・コバヤシ。ねえ、君の名前は?」

 

キッカ。

その名前に、私の脳内にある、かつての戦争の記録が微かに反応した。

聞いたことがある。

一年戦争の末期、英雄と呼ばれた白い船に乗っていた、一人の少女。

あの日、ベルファストの空を裂いて飛んでいった、あの船に。

 

「……ミリー。ミリー・ラトキエ、です」

 

「ミリー! いい名前。じゃあ、これ、一口ちょうだい!」

 

「えっ、あ、はい……」

 

断る間もなく、彼女はおにぎりの角を大きく頬張った。

そして、目を見開いて、そのまま動かなくなった。

 

沈黙。

やっぱり、古米の匂いがしただろうか。重曹を入れすぎただろうか。

私は、今にも彼女が「まずい」と吐き出すのを待っていた。

 

「……最高」

 

キッカは、そう一言だけ漏らした。

その瞳に、ほんの一瞬だけ、切なさと懐かしさが混ざったような色が走る。

 

「私、知ってる。こういう、誰かが命をかけて守ってきた味。……ミリー、君は、この学校で一番大切なものを持ってるよ」

 

彼女が差し出してきた手は、迷いもなく私の赤らんだ指を包み込んだ。

その熱に、私は拒絶する言葉を完全に忘れてしまった。

 

宇宙世紀0092年。

宣戦布告まで、あと1年。

 

世界が再び、あのベルファストの雨のような絶望に飲み込まれ始めるその前に。

私はこの、強引な太陽のような女の子に、人生の舵を奪われることになったのだ。

 

楠の隙間から差し込む陽光が、キッカの笑顔を眩しく照らしていた。

私は、一口分だけ小さくなったおにぎりを、もう一度強く握りしめた。

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