機動戦士ガンダム 逆シャア前夜の子供食堂 ――キッカの家―― 〜宇宙世紀0092-0093、サイド1・ロンデニオン外縁区〜 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
――一年後ではない。三か月後でもない。あと数週間で、歴史は“シャアの反乱”と呼ばれる戦争へ転がり落ちる。その前に、ミリー・ラトキエたちは三十七人の子供の名前を帳面に書きつけていた。
宇宙世紀0092年12月22日。サイド1の難民コロニー、スウィートウォーターが新生ネオ・ジオンに占拠された――その報せは、ロンデニオン外縁区の食料配給所にも、乾いたノイズ混じりのニュースとして届いた。
その日から、食料はさらに消え、子供も消え始めた。
お腹が空く、という感覚には段階がある。
少し物足りない、という可愛いものから。
胃の奥がきりきりと痛み、視界の端から世界が薄くなっていくものまで。
そして最後には、何も感じなくなる。
ミリー・ラトキエは、その最後の段階を知っていた。
宇宙世紀0092年12月。サイド1、ロンデニオン外縁区。スウィートウォーター占拠から数日後、12月25日にはロンド・ベルの増強と再編が報じられ、街の物流は目に見えて軍需へ傾き始めていた。
大学の芝生広場は昼下がりの人工陽光に満ちていたが、その明るさが彼女には腹立たしかった。こんなに穏やかな空の下で、今日も食べるものに困る学生がいて、住民登録から漏れた子供たちがいて、港湾区の裏路地では配給の残りを漁る手がある。ロンデニオンは連邦政府と軍の影が濃いコロニーだ。だからこそ、表向きの秩序からこぼれた者は、誰よりも見えなくなる。
彼女は膝の上の布包みを開いた。中には、不格好な塩むすびがふたつ。古米に麦を混ぜ、塩だけで握ったものだ。貧しい奨学生の昼食としては充分で、ベルファストの雨に濡れて飢えたあの頃に比べれば、贅沢ですらあった。
「ねえ。それ、自分で握ったの?」
不意に声が落ちてきた。顔を上げると、オレンジ色の短い髪の少女が、興味津々といった顔で立っている。日に焼けた頬、やたらと距離の近い笑み。学内で知らない者はいないキッカ・コバヤシだった。
「……そうですけど」
「いい顔してる。食べ物を大事にする人の顔だ」
返答に困るミリーの隣へ、キッカは勝手に腰を下ろした。
「ひとつ、もらっていい?」
普通なら断るところだった。だが、その目の奥にある妙な真剣さに押されて、ミリーは小さい方の塩むすびを差し出した。キッカはひと口かじり、しばらく咀嚼し、それから目を見開いた。
「……うわ。すご」
大げさだ、と思った。塩と米だけだ。だがキッカは本気で驚いていた。
「これ、『生きるための味』がする」
その言葉に、ミリーの指先がぴくりと震えた。
そんな言い方をした人間は、初めてだった。
「君、名前は?」
「ミリー・ラトキエ」
「よしミリー。君、今日からうちに来て。子供が腹いっぱい食べられる場所、今ここに作る」
「……はい?」
「放課後、旧実習棟のキッチン。空いてるの。名前はまだないけど、これから家にする」
家。
その単語に、ミリーの喉の奥がかすかに痛んだ。ベルファストで失って以来、自分には縁のない言葉だと思っていた。
「断ります」
即答したつもりだった。だがキッカは動じなかった。
「じゃあ聞くけど、ミリー。今の学内で、正規の学生証も保護者の後ろ盾もない下宿の子たちが、夜に腹いっぱい食べられる場所ってどこ?」
ミリーは答えられない。
キッカは鞄から紙袋を取り出した。中には、形の悪いパンがいくつか入っていた。
「最近、子供用の配給だけごっそり消えてるの。帳簿の数字が合わない。港の保税倉庫から大学福祉課に届くはずの分が、途中で“別の受け取り先”に流れてる。スウィートウォーター占拠とロンド・ベル再編で軍需優先になったから、誰かがその混乱に乗じてる」
声は軽いのに、内容だけが重かった。
「戦争が来る前ってね、こういうところから壊れるんだよ」
ミリーは息をのんだ。
スウィートウォーター占拠、新生ネオ・ジオン、ロンド・ベルの警戒態勢。ニュースで聞く不穏は遠い政治の話だった。だが食料の横流しは、彼女の知る現実そのものだ。
「君の料理が要る」
キッカはそう言って笑った。
「私は、もう二度と、子供が飢えるのを見たくない。ホワイトベースで散々見たから。だから今度は作る側に回る。君もそうでしょ?」
ベルファストの灰色の空が、ミリーの胸の内側で蘇った。
姉の背中。空腹で泣く子供。配給列。銃声。雨。
彼女は塩むすびを握り直す。
「名前を覚えます。名前を呼べる子は、まだ消えていないから」
「……もし、本当に子供の分が抜かれてるなら」
「うん」
「取り返します」
キッカはにやりと笑った。
「決まり。食文化研究部――じゃ弱いな。もっといい名前、あとで考えよう」
その日の放課後。
ミリーは旧実習棟へ向かった。
そして、それが彼女の戦争の始まりだった。
その夜、ミリーは初めて理解した。空腹の子供は、戦争より先に死ぬ。だから戦争が始まる前に、食卓を作らなければならないのだ。
――奪われた分を、取り返すための戦争の。その夜、リィナが帳面を開くと、昨日まであったはずの子供の名前が一行だけ、最初から存在しなかったみたいに消えていた。