機動戦士ガンダム0092 サウス・ナポリの「キッカの家」 ホワイトベースの少女とシャングリラの孤児たちが、放課後のキッチンで幸せを盛り付ける話   作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった

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怪談と真夜中の夜食

八月の夜は、重力に縛られた熱気が沈殿して、逃げ場を失った湿気が肌にまとわりつく。

 

私たちは、大学の夏休みを利用した合宿と称して、キッカが借りてきた古い連邦軍保養施設のコテージにいた。

学園都市サウス・ナポリから少し離れた山間部にあるその建物は、宇宙世紀の合理的設計とは無縁の、石造りと木材を多用した前世紀の遺物のような場所だった。

 

「……それでね。ア・バオア・クーの最終決戦の後、放棄された残骸の中を漂う、白い影を見たっていうパイロットが後を絶たないんだって」

 

リビングの真ん中、一本のランタンを囲んで、キッカが声を潜めて語る。

彼女の背後には、闇に沈んだ森が窓越しに広がっていて、時折聞こえる枝の軋む音が、まるで何かがこちらを覗き込んでいるような錯覚を抱かせる。

 

「キ、キッカ……もうそのくらいにしませんか」

 

私は膝を抱えて、震える声を絞り出した。

ベルファストの戦火を生き延びた私だけれど、目に見えない「亡霊」の類は、どうしても克服できない弱点だった。

一年戦争。その言葉に付随する死者の数は、あまりに膨大だ。

宇宙の塵となった人々の思念が、今も虚空を彷徨っているという話は、戦災孤児である私にとって、あまりにリアルな恐怖として響く。

 

「キッカ、ミリーが本気で青ざめているわよ。それに、ソロモンの亡霊なんて、今更な怪談だわ」

 

リィナが冷静に指摘するが、隣のエルは面白がって身を乗り出している。

「いいじゃない、夏っぽくて。ねえ、ステファニーはどう思う? ルオ商会の情報網なら、もっとエグいニュータイプ幽霊の話とか知ってるんじゃないの?」

 

ステファニーは、ランタンの灯りに照らされた青白い顔で、静かに首を振った。

「……幽霊、ですか。私は、死んだ人間がこの世に留まることよりも、生きている人間の妄執の方が、よほど恐ろしいと感じますわ。宇宙から届く、あの重苦しいプレッシャーのように」

 

ステファニーの言葉に、一瞬だけ、場が凍りついたような沈黙が流れた。

彼女たちのような、何らかの感応能力を持つ者にとって、闇は単なる視覚情報の欠如ではないのかもしれない。

宇宙の彼方から漂ってくる、不穏な胎動。

新生ネオ・ジオンの影、そしてシャア・アズナブルという存在が、彼女たちの鋭敏な感覚を絶えず削っているのだ。

 

「……なんだか、本当に寒くなってきたね」

 

キッカが、自分の腕をさすりながら呟いた。

恐怖による冷え。そして、不穏な時代予感。

私たちは、誰からともなく立ち上がり、キッチンの明かりを求めた。

暗闇に怯える子供のように、温かさと、光と、匂いを。

 

「……何か、作りましょうか。夜食」

 

私の提案に、四人の瞳に小さな灯りが宿った。

夜の台所は、昼間の喧騒とは違う、特別な静寂に包まれている。

私はアナログな加熱器に火を入れ、鍋にたっぷりの水を入れた。

 

「ミリー、にゅうめんにするの? こんな時間に、出汁の匂いがしたら、本当に亡霊が寄ってきちゃうかもよ」

 

エルが冗談めかして笑う。

私は、棚から取り出した「乾燥椎茸」と「煮干し」を水に入れた。

最新のフード・コンポジターなら、栄養素と風味成分を完璧に配合したスープを数秒で出力するだろう。

けれど、私はあえて、時間をかけて出汁を引く。

 

鍋の中で、乾燥していた椎茸がゆっくりと水分を吸い、宇宙世紀の保存技術が封じ込めていた「山の滋味」を解放していく。

煮干しから出る、わずかな銀色の脂。

それは、地球の海が育んだ生命の記憶だ。

 

「……いい匂い。なんだか、ホッとする」

 

キッカが、私の隣で深呼吸をした。

一年戦争の時、ホワイトベースの食堂で嗅いだ、あの粉末スープの匂いとは違う。

もっと深く、重力の下で根を張って生きていくための、重みのある香り。

 

私は、茹で上げた細い麺――素麺を、冷水で締めてから温かい出汁の中へ泳がせた。

具材はシンプルに、薄焼きにした卵と、刻んだネギ。

そして、ステファニーが「夜食に」と持たせてくれた、最高級の「地球産梅干し」を一つ、中央に添えた。

 

「できました。特製、真夜中のにゅうめんです」

 

五つの器から、白い湯気が立ち上る。

私たちは、リビングのテーブルに戻り、今度はランタンではなく、湯気の向こう側にあるお互いの顔を見つめ合った。

 

「……いただきます」

 

リィナが、繊細な手つきで箸を動かす。

熱い出汁が、夜の冷気にさらされた胃壁を優しく撫でていく。

 

「美味しい……。出汁の味が、体の隅々まで染み渡るわね。……ミリー、あなたの作る料理は、どうしてこんなに優しいのかしら」

 

「ベルファストでは、温かいものを食べるだけで、明日も生きていける気がしたんです。……ミハル姉さんは、いつも言っていました。お腹が空いていると、悪いことばかり考えてしまうからって」

 

私の言葉に、キッカが静かに頷いた。

「わかるよ。……ハヤトも言ってた。戦場にいる時こそ、食事の時間を大切にしろって。それは、自分がまだ人間だってことを忘れないための儀式なんだろうね」

 

出汁の温かさが、恐怖を溶かしていく。

梅干しの酸味が、ぼんやりとしていた意識を鮮明にする。

さっきまで、ソロモンの亡霊や宇宙の不穏なプレッシャーに怯えていた私たちは、今、この一杯の麺を通じて、等身大の自分たちを取り戻していた。

 

「ねえ、リィナ。……ジュドーさんには、いつ会えるのかしら」

 

ステファニーが、不意に問いかけた。

リィナは、器を見つめたまま、少しだけ寂しげに微笑んだ。

「……あの子は、木星の彼方で、自分なりの戦いをしているわ。……でも、大丈夫。あの子もきっと、美味しいものを食べているはずよ。シャングリラの連中が、空腹に耐えられるはずがないもの」

 

エルの笑い声が、夜の森に響いた。

「違いない! ジュドーのことだ、今頃木星(ジュピトリス)の厨房を占拠して、特大の肉料理でも作らせてるんじゃない?」

 

その笑い声を聞いて、私もようやく息を吐くことができた。

亡霊なんて、いない。

あるいは、いたとしても、この温かい出汁の匂いの中までは入ってこれない。

私たちは、生きている。

今日を、この瞬間を、確かに味わっている。

 

窓の外では、月明かりが森を照らし出していた。

宇宙世紀0092年。

明日のニュースでは、また連邦軍の軍拡や、サイド四での小競り合いが報じられるかもしれない。

けれど、今夜の私たちは、ただの腹ペコな大学生だ。

 

「……ミリー、もう一杯、いいかな?」

 

キッカの催促に、私は笑顔で応えた。

「はい。出汁はまだ、たっぷりとありますから」

 

深夜のコテージに、お玉が鍋の底を叩く、カチカチというアナログな音が響く。

それは、私たちがこの過酷な時代を生き抜くための、小さな、けれど確かな足音のように聞こえた。

 

このにゅうめんの熱さが、いつか来る極寒の戦場を、ほんの少しでも遠ざけてくれるように。

私は、最後の一滴まで丁寧に、出汁を器に注いだ。

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