機動戦士ガンダム 美味しんぼ ロンド・ベルの究極、ネオ・ジオンの至高 逆襲のシャア前夜、ロンド・ベル寄港中の補給食堂 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
食文化研究部の申請は、また却下された。
理由は4つ。
責任者名がない。
利用人数を出せない。
食材の出所が不明瞭。
記録閲覧規定が厳しすぎる。
最後の1つで、私は怒った。
「そこ?」
声が思ったより低く出た。
リィナ・アーシタは申請書を端から端まで読んでいた。
腹が立っている時ほど、彼女は字を丁寧に追う。
「そこも制度」
「制度って、便利な悪口みたい」
「便利に使うと、制度に負ける」
またいいことを言った。
私は悔しいので書かなかった。
エル・ビアンノが横から申請書をのぞき込む。
「記録閲覧規定が厳しすぎるって、どういうこと?」
リィナが答える。
「本人に見せる。本人の許可なく公開しない。見せられない時は理由を書く。そこが厳しすぎるって」
「ゆるくしたら?」
私が言う前に、リィナが言った。
「駄目です」
「即答」
「ここをゆるくしたら、キッカが危ない」
私は顔を上げた。
「私?」
「記録したい人が、自分の欲に負ける」
リィナは私を見なかった。
申請書を見たまま言った。
「だから規定が要る」
反論できなかった。
反論できないことばかり増える。
手帳が重くなるのは、紙のせいだけではない。
責任者名には、ファ・ユイリィが署名した。
旧実習棟の古い机の上に申請書を置き、ペンを持った。
その手は震えなかった。
震えなかったことを、私は少し怖いと思った。
「本当にいいの?」
私が聞く。
ファはペン先を紙から離した。
「本当によくはない」
それから、署名欄に自分の名前を書いた。
「でも、誰かが名前を書く必要はある」
「かっこいい」
エルが言った。
ファは顔を上げない。
「かっこよくない。名前を書くと、責任が寄ってくる」
「じゃあ、半分持つ」
「持てない責任もある」
「じゃあ、4分の1」
「そういう割り算じゃない」
「8分の1でも?」
リィナが横から言う。
「エルさん、責任を分数にしないでください」
「じゃあ何にすればいいの」
「手伝いです」
エルは少し黙った。
それから、うなずいた。
「じゃあ手伝う。責任じゃなくて、手伝い」
ファの口元が少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。
笑わなかったのかもしれない。
私はそれを書こうとして、本人に見せる前に書くのは違うと思い直した。
このところ、そういう止まり方が増えた。
いいことなのか、ただ臆病になっただけなのかは分からない。
ファは申請書をリィナに渡した。
「責任者名、入った」
リィナは小さくうなずいた。
「次、利用人数」
その欄は、まだ空欄だった。
空欄。
私はその白さを見るたび、手帳を開きたくなる。
埋めたいわけではない。
いや、嘘だ。
埋めたい。
名前を知りたい。
人数を数えたい。
どこから来たのか、どこへ行くのか、どうして照合不能になったのか、全部知りたい。
知って、書きたい。
そして書けば、少し安心する。
その安心が、嫌だ。
リィナは利用人数の欄に、空欄、と小さく書いた。
ただの未記入ではない。
空欄と書かれた空欄。
「それ、怒られない?」
エルが聞く。
「怒られると思います」
「じゃあ何で書くの」
「未記入ではなく、意図して空欄だから」
リィナは言った。
「名前を言えない子を、こちらの都合で人数に入れるのは違う。でも、いないことにもできない」
私はその言葉を聞いて、手帳の角を指で押さえた。
昔の私なら、たぶんすぐ書いた。
今の私は、少し待った。
待てるようになったのか。
ただ、怖いだけなのか。
ブライト・ノアが来たのは、その午後だった。
軍服ではなかった。
でも、廊下の空気は少し硬くなった。
ブライトはいつもの古い椅子に座った。
座面が軋む。
彼は一度腰を上げ、椅子の脚を確かめ、また座った。
戻す前提で座る人だと思った。
「再申請か」
「はい」
リィナが申請書を出した。
ブライトは順に見ていく。
責任者名。
ファ・ユイリィ。
利用人数。
空欄。
食材出所。
軍需余剰、民間端数、大学試料、避難者支援物資。
記録閲覧規定。
本人確認、本人開示、未開示理由の記録。
ブライトの眉が少し動いた。
「利用人数の欄が埋まっていない」
「埋めません」
リィナが言った。
声は少し震えていた。
でも、逃げなかった。
ブライトは赤ペンを取った。
空欄の横に、管理不能、と書いた。
リィナがその横に、別の鉛筆で書いた。
未確定。
ブライトが手を止める。
部屋の空気も止まった。
「未確定は、いつまでも未確定ではいられない」
ブライトが言った。
私はその言葉を見ていた。
正しい。
また正しい。
正しい言葉は、どうしてこうも痛いのだろう。
「でも」
私は言った。
思ったより声が出た。
「埋めさせると嘘になる子がいる」
ブライトはこちらを見た。
私は逃げなかった。
逃げない代わりに、手帳を強く握った。
「名前も人数も、書く側が勝手に安心するために使えるから」
エルが小さく言った。
「キッカ、今ちょっと自分を刺してない?」
「刺してる」
「痛くない?」
「痛い」
「じゃあ、ちょっと休めば?」
リィナが言った。
「今は休まないでください。刺したまま言い切ってください」
「リィナ、厳しい」
「必要です」
ファは何も言わなかった。
ただ、鍋の蓋に手を置いていた。
火はついていない。
それでも、あの人は鍋のそばにいる。
ブライトは名簿を閉じた。
「なら、空欄に責任を持て」
「持ちます」
私は言った。
言ってから、怖くなった。
私が責任を持つ。
その言葉は、手帳に書くより重かった。
書くより重い言葉がある。
今さら知った。
ブライトはファを見た。
「食材出所は、毎回記録すること」
「はい」
「食べた量だけでなく、残った量も記録すること。それも単に数字で残すのではないわ。なぜ食が進まなかったのか、素材の持ち味を引き出しきれなかったのか、あるいは食べる側の環境や体調によるものなのか、その真因をまで掘り下げて記録しなければ意味がないのよ」
ファが少しだけ目を細めた。
「それは、こちらも必要だと思っています。愚かな料理人は、自分の作ったものが美味しく完食された時しか直視しようとしませんが、本物の料理人を目指すなら、残された皿にこそ究極の教訓と至高の真実が隠されていることを知るべきですから」
「食べられた報告だけでは、判断を誤る」
ブライトが言った。
その言い方は、現場を見ている人の言い方だった。
第3話で見たアデナウアー・パラヤとは違う。
アデナウアーは、伝票の責任を見る人だった。
ブライトは、椅子の軋みも、残った器も、見てしまう人だった。
どちらも制度の側にいる。
でも、見ているものが違う。
私はそれを書きたくなった。
今は書かなかった。
ブライトは申請書の最後に赤で書いた。
条件付き受理。
部屋の空気が一瞬だけ軽くなった。
でも、喜んでいい軽さではなかった。
条件付き。
正式な食堂ではない。
配給数は増えない。
監査は続く。
食材出所の記録は毎回必要。
利用者名簿の空欄は、理由つきで残すこと。
記録閲覧規定は、厳しすぎるまま運用すること。
つまり、勝ったわけではなかった。
でも、止められもしなかった。
エルが申請書をのぞき込む。
「これ、喜んでいいやつ?」
リィナが答える。
「半分」
「残り半分は?」
「面倒」
「じゃあ、私の担当だ」
「あなたに面倒を任せると増えます」
「信用ないなあ」
「実績があります」
「実績って便利な悪口だよね」
「便利に使うと、制度に負けます」
「それ、さっきも聞いた!」
少しだけ笑いが起きた。
ブライトは笑わなかった。
でも、椅子を戻す時、いつもより少しだけずれていた。
彼はそれに気づいた。
直そうとして、やめた。
私はその動きを見ていた。
きっちり戻さないことにも、意味がある日があるのかもしれない。
そう思った。
でも、書くと格好よすぎる。
だから今は書かなかった。
掲示板の下に、エルが落書きした。
あったかいもの、あります。うまいとは限らない。
リィナはすぐ消そうとした。
手が止まった。
「間違ってはいない」
「正しい落書きってこと?」
エルが得意げに言う。
「調子に乗ると消します」
「はい」
「はい、が軽い」
「重いはいって難しくない?」
「責任者名を書いたファを見て学んでください」
エルはファを見た。
ファは鍋を洗っていた。
今日はまだ何も作っていない。
でも、鍋を洗っていた。
「ファのはい、重そう」
「重いわよ」
ファは振り向かずに言った。
「だから、軽いはいが必要な時もある」
エルの顔が少し明るくなった。
「じゃあ私、軽いはい担当で」
「軽すぎる時は止めます」
リィナが言う。
「リィナ、私の重り?」
「そうです」
「今の、なんかいい」
「よくありません」
私は笑った。
笑ってから、これは書いてもいいかもしれないと思った。
でも、書かなかった。
今日の手帳は、まだ申請書の重さでいっぱいだった。
ファは条件付き受理の紙を見た。
「これで、作れる」
「勝った?」
エルが聞く。
ファは首を横に振った。
「勝ったわけじゃない」
「じゃあ?」
「火をつけてもいいことになった」
その言い方が、とてもファらしかった。
勝利でも、許可でも、救済でもない。
火をつけてもいい。
それだけ。
でも、それだけが必要な日もある。
その日の最初の料理は、塩むすびだった。
古米と麦。
水分は少なめ。
塩は強くしない。
小さく、同じ形にする。
第1話と同じ。
でも、第1話とは違う。
あの時は、ただ置いた。
今日は、条件付きで置く。
出所を書き、残量を書き、食べなかった理由を勝手に埋めず、本人に見せられる範囲で記録する。
手渡さない。
でも遠くもしない。
机の端に、丸い塩むすびを並べた。
エルがのぞき込む。
「最初に戻ったみたい」
ファが言う。
「戻ったんじゃない。もう一度作ってる」
「違う?」
「違うわ。ただ米を握っただけの代物と一緒にしないでちょうだい。一見素朴なこの塩むすびも、米の持つ本質的な甘みを引き出す精妙な塩加減と、掌の熱をかけすぎず優しくふんわりと結ぶ職人技があってこそ、初めて素材の良さが真に咲き誇るのよ。単に形を整えただけの真似事とは、口に含んだ時の解け方がまるで違うわ」
リィナが表を見る。
「食材出所、古米、麦、塩。搬入元、大学保管分。水、旧実習棟。調理責任者、ファ。記録確認、キッカ」
「私も入るの?」
「記録係でしょう」
「そうだけど」
「逃げない」
リィナの声は柔らかくなかった。
でも、それがありがたい時もある。
私は手帳を開いた。
今日は、書いた。
塩むすび。
強く握らない。
塩を強くしない。
小さく、同じ形。
手渡さない。
遠くもしない。
条件付き受理後、最初の一皿。
配給所で照合不能だった子が、旧実習棟の扉の近くに来ていた。
第1話で、塩むすびを見ただけの子だ。
今日も、すぐには近づかない。
赤い腕章の職員が廊下を通ると、肩が少し上がる。
ファは塩むすびを置いた。
前よりも少しだけ遠い。
でも、その子の視線からは外していない。
「遠くない?」
エルが小声で聞く。
ファは答えた。
「今日は、許可された日だから」
「許可された日だと、遠くするの?」
「許可された側が近づきすぎると、圧になる」
エルは黙った。
その子はしばらく見ていた。
それから、近づいた。
手を伸ばした。
触れた。
持ち上げた。
口には入れなかった。
でも、持った。
エルの肩が上がりかけた。
止まった。
リィナは表に、取得、と書きかけた。
止まった。
私も、手帳に食べた、と書きかけた。
止まった。
ファだけが、鍋を見ていた。
いや、鍋ではない。
火を見ていた。
小さな火。
消えていない火。
塩むすびを持った子は、結局その日は食べなかった。
でも、持ったまま、部屋の隅にいた。
それだけだった。
それだけなのに、部屋の空気は少し変わった。
エルが小さく言った。
「これ、勝ち?」
リィナが即座に言う。
「勝ち負けで言わない」
「分かってる。言ってみただけ」
「言ってみる前に考えて」
「考えたら、エルじゃなくなる」
リィナは少しだけ笑った。
「少しはなってください」
そのやり取りが、前にもあった気がした。
でも、前と全く同じではなかった。
同じ言葉でも、少しずつ違う場所に置かれている。
料理と同じだと思った。
夜、旧実習棟の掲示板には、何枚も紙が貼られていた。
条件付き受理。
食材出所表。
利用者記録規定。
本人開示の確認欄。
表より先に本人に聞く。
あったかいもの、あります。うまいとは限らない。
その中に、私は黒板の3番を見た。
食べさせたら勝ち、とは考えない。
その横に、新しい言葉を書きたくなった。
約束は、終わらせるためのものじゃない。
続けるためのものだ。
いい言葉だった。
いい言葉すぎた。
だから、黒板には書かなかった。
代わりに、手帳の最後のページに書いた。
約束中。
失敗中。
記録中。
食堂中。
エルがくしゃみをした。
リィナが掲示の傾きを直した。
ファが米粒を拾った。
チェーンが残していった電源の紙は、まだ貼ってある。
ブライトの赤字は、申請書の控えに残っている。
ナナイの香辛料は、棚の上にある。
クェスの椀は、棚の奥にしまわれている。
私はそれを毎日見るわけではない。
でも、場所は覚えている。
私は主人公らしいことをしたいわけではない。
本当は、知りたいだけなのかもしかもしれない。
記録したいだけなのかもしれない。
人の空欄を見つけて、自分の手帳にしまいたいだけなのかもしれない。
それでも、鍋の火を見ていると、少しだけ違う気もする。
ロンド・ベルの究極。
ネオ・ジオンの至高。
そんな大きな言葉の真ん中に、私たちの塩むすびはない。
たぶん、端っこにある。
補給線の端。
配給表の外。
名前を書く前の空欄。
でも、端っこにも火はある。
火は、まだ消えていない。
だから私は、今日の空欄を開いたままにする。