機動戦士ガンダム0092 サウス・ナポリの「キッカの家」 ホワイトベースの少女とシャングリラの孤児たちが、放課後のキッチンで幸せを盛り付ける話   作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった

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海の幸、シャングリラの思い出

潮騒の音が、規則正しく鼓膜を叩く。

サウス・ナポリの市街地から少し離れた海岸線。八月の陽光を反射して、地中海は不自然なほど青く輝いていた。

 

「海だー! 宇宙の海とは開放感が違うね!」

 

キッカが砂浜を駆け出し、波打ち際で声を上げた。

かつてホワイトベースで地球の海を見た彼女にとっても、こうして平和な学生として訪れる砂浜は格別のものらしい。

 

私たちは今日、食文化研究部の特別活動として、海辺でのバーベキューを企画していた。

ステファニーが手配したルオ商会名義のプライベート・ビーチ。一般市民が立ち入ることのできないこの場所には、戦争の傷跡も、連邦政府の喧伝するプロパガンダの喧騒も届かない。

 

「ミリー、火の準備はいい? 火力なら任せてよ」

 

エルが、使い込まれたアナログなコンロの前に陣取った。

彼女の隣では、リィナが手際よく野菜を串に刺している。

私は、クーラーボックスから今日の主役を取り出した。

 

「これ……ステファニーさんが持ってきてくれた魚ですか?」

 

「ええ。地元の漁師から直接買い付けたものですわ。フード・コンポジターで生成されるフィッシュ・プロテインとは、鱗の輝きからして違いますでしょう?」

 

ステファニーが誇らしげに指し示したのは、獲れたばかりの銀色の魚たちだった。

それは、特定の富裕層や地球居住者にしか許されない、本物の「海の幸」。

 

私は包丁を握る。

ベルファストで、泥にまみれたジャガイモを削っていた頃には想像もできなかった贅沢だ。

魚の腹を裂き、内臓を取り除く。アナログな刃先が骨に当たる感触。

命を捌いている、という確かな手応えが、指先から伝わってくる。

 

「……ねえ、リィナ。シャングリラにいた頃、こんな大きな魚、見たことあった?」

 

エルが、網の上で弾ける魚の脂を見つめながら、ふと問いかけた。

リィナは、串を動かす手を止め、遠い空を見上げた。

その視線の先にあるのは、ここからは見えない、宇宙に浮かぶコロニーの残骸……彼女たちの故郷。

 

「いいえ。……ジャンク屋の仕事で、たまに居住区の廃液ダクトに迷い込んだ小さな魚を拾うのが精一杯だったわ。ジュドーと一緒に、泥臭いその魚を半分こにして焼いて食べたっけ。……あれが、私たちの知る『海の幸』だったのよ」

 

リィナの言葉には、悲壮感はなかった。

ただ、冷徹なまでに現実を見つめてきた者だけが持つ、静かな響きがあった。

 

「でも、あの時の魚、世界で一番美味しかったよね」

 

エルが笑いながら付け加える。

「飢えてたからかな。それとも、自分たちの手で捕まえた『生きた証』だったからかな」

 

二人の会話を、ステファニーは黙って聞いていた。

ルオ商会の令嬢として、何不自由なく最高級の食材に囲まれて育った彼女にとって、そのエピソードは宇宙世紀の「格差」を象徴する物語に聞こえたのかもしれない。

でも、一口、こんがりと焼けた魚の身を口にした瞬間、彼女の表情が変わった。

 

「……美味しい。……けれど、なんだか胸が締め付けられますわ。私が食べてきた贅沢品よりも、今のリィナさんたちの話に出てきた魚の方が、ずっと価値があるように思えて」

 

「それは、ステファニーが『飢え』を知らないからじゃないよ」

 

キッカが、焼けたトウモロコシを頬張りながら言った。

「あたしたちは、みんな何かを失って、何かに飢えてる。ミリーは家族を、リィナは平穏を。……でも、だからこそ、こうして五人で囲む火が、こんなに温かいんだと思う」

 

私は、ベルファストの灰色の海を思い出した。

ミハル姉さんの背中を追って、冷たい波打ち際で拾った貝殻。

それを小さな鍋で煮て、弟たちと分け合った、薄い、けれど温かいスープの味。

 

「……ミリー、味付けはどうする?」

 

エルの声に、私は現実に引き戻された。

私は、持参した自家製のハーブソルトを取り出した。

宇宙生活で発達した高度な真空乾燥技術を応用し、学園の屋上で育てたハーブを粉末にしたものだ。

 

「これを振ってください。地球の香りと、私たちの工夫を混ぜた味です」

 

パラパラと、銀色の魚の肌に緑の粒が散る。

脂が落ち、炭に当たって香ばしい煙が舞い上がる。

その煙の匂いは、かつて戦場で見た、モビルスーツの爆散する黒煙とは正反対の、生命を肯定する匂いだった。

 

私たちは、波の音をBGMに、夢中で魚を貪った。

本物の魚の、弾力のある身。

皮のパリッとした食感と、ハーブの爽やかな香り。

「……生きてる。あたしたち、今、ちゃんと地球で生きてるね」

 

キッカが、海の青に溶け込むような笑顔で言った。

その笑顔の裏側に、一年戦争を生き延びた一八歳の少女が抱える「明日への不安」が透けて見える。

ニュースでは、新生ネオ・ジオンの旗印であるシャア・アズナブルの動向が、日に日に騒がしくなっている。

この穏やかな地中海の向こう側で、誰かが新しい戦争の準備をしている。

そのことを、私たちは肌で感じ取っていた。

 

ニュータイプ的な感応……と呼ぶには大袈裟かもしれないけれど、戦場を知る者たちだけが共有する、嵐の前夜の静けさ。

それを鎮めてくれるのは、ルオ商会の財力でも、連邦の軍事力でもない。

ただ、目の前の網の上でジュウジュウと音を立てる、この魚の熱さだけだ。

 

「リィナさん、エルさん。……シャングリラの話、もっと聞かせてください。……私が知らない、本当の宇宙の話を」

 

ステファニーが、少しだけ真剣な瞳で言った。

リィナは頷き、ポツリポツリと語り始めた。

太陽光パネルの隙間から差し込む光のこと。

ジャンク屋の過酷な日常と、それでも絶えなかった少年たちの笑い声。

兄ジュドーが、重力に縛られずに駆け抜けた空の色のこと。

 

私は、彼女たちの言葉を、魚の味と一緒に飲み込んだ。

食材の背景にある、それぞれの人生。

血縁よりも強い、同じ釜の飯を食った絆。

ミリーにとってのミハル。キッカにとってのホワイトベース。リィナにとってのアーガマ。

過去の擬似家族たちの記憶が、今、この海辺の食卓に重なり、新しい形を作っていく。

 

太陽が傾き、海面が黄金色に染まり始めた。

 

「……世界がどう変わっても、あたしたちが今日食べたこの味だけは、誰も奪えない。……そうでしょ、ミリー?」

 

キッカが、遠く水平線を見つめて言った。その瞳には、かつての戦友たち……ハヤトさんや、もう会えない人たちの面影が宿っているようだった。

 

「はい、部長」

 

私は、最後の一枚の身を口に運んだ。

少しだけ苦い、魚のわたの味。

それは、私たちが大人になった証であり、この過酷な宇宙世紀を生き抜くための、祈りの味だった。

 

波は、全てを洗い流すように寄せては返す。

明日、何が起ころうとも。

私たちは、この海の幸の味を忘れない。

それが、戦火を潜り抜けてきた少女たちが、平和な地球に刻む唯一の抵抗なのだから。

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