機動戦士ガンダム0092 サウス・ナポリの「キッカの家」 ホワイトベースの少女とシャングリラの孤児たちが、放課後のキッチンで幸せを盛り付ける話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
「右! もっと右だよ、キッカ! あ、行き過ぎ、左!」
エルの騒がしい指示が、波の音に混じって砂浜に響く。
目隠しをされたキッカは、古びたモップの柄を構えたまま、まるで地雷原を歩くモビルスーツのような慎重な足取りで砂を蹴っていた。
ターゲットは、砂浜の真ん中に鎮座する一個のスイカ。
ステファニーが「ルオ商会の温室で、音楽を聴かせて育てた」と豪語する、地球産の高級品だ。
「……静かに。キッカ、外の音をシャットアウトして。そこに『ある』ものを感じるのよ」
リィナが静かに、けれど鋭い声で言った。
その言葉は、単なる遊びのアドバイスにしては、少しだけ重い意味を含んでいるように聞こえた。
キッカの動きが止まる。
彼女は深く息を吐き、目隠しの奥で何かを見据えるように、ゆっくりと柄を振り上げた。
「――そこ!」
鋭い呼気と共に振り下ろされた一撃は、吸い込まれるようにスイカの真ん中を捉えた。
パカッ、という、小気味よい音が響く。
鮮やかな赤色が、夏の陽光の下で弾けた。
「やったぁ! ね、今の見た? 完璧だったでしょ!」
目隠しを外したキッカが、子供のように無邪気に笑う。
その笑顔は、かつて一年戦争の戦火の中で、ホワイトベースの廊下を走り回っていた幼い彼女の面影を強く残していた。
「お見事ですわ。……ですが、今のタイミング。計算上の音の反響や足場の傾斜を超えた、何か別の力が働いたように見えましたけれど?」
ステファニーが、半分に割れたスイカを凝視しながら、分析的な口調で言った。
彼女の問いに、キッカは少しだけ困ったように眉を下げ、私の隣に座り込んだ。
「……なんだろうね。ただ、割らなきゃって思った瞬間に、スイカの『鼓動』みたいなのが聞こえた気がしたんだ。……変かな?」
「変じゃないわよ。……私たちには、そういう時があるもの」
リィナが、スイカの果肉を包丁で切り分けながら、淡々と応えた。
彼女の手元には、私が研いであげたアナログな包丁。
一切の無駄がないその動きは、彼女がかつて生き延びるために身につけた、冷徹なまでの生存本能の現れのようにも見える。
「ニュータイプ、か。……ステファニー、あんたはそっち側の人間だろ? ルオ商会が必死に追いかけてる、未来の可能性ってやつさ」
エルの言葉に、ステファニーは視線を落とした。
「……私は、父たちが期待するような特別な力なんて持っていませんわ。ですが、時折感じるのです。宇宙(そら)の彼方から届く、刺すような、冷たいプレッシャーを。……まるでもうすぐ、大きな何かが壊れてしまうような、そんな予感」
その言葉に、砂浜の空気が一瞬で張り詰めた。
0092年。
シャア・アズナブルがどこかで息を潜め、連邦政府がその影に怯えながら、武装を強化し続けている時代。
平和な大学生活という「薄い氷」の上に立っている自分たちの危うさを、彼女たちは知っている。
「……ねえ、みんな。難しい話は、このスイカを食べてからにしない?」
私は、切り分けられたスイカの切れ端を、一枚ずつ手渡した。
真っ赤な果肉に、点々と並ぶ黒い種。
冷蔵庫なんてない砂浜で、海水と氷で冷やされただけの、原始的な「冷たさ」。
キッカが、大きな口でスイカに食らいついた。
「……っ、甘い! 冷たくて、すごく甘いよ!」
「本当ですわね……。……不思議。この甘さを感じている間だけは、あの嫌なプレッシャーが消えていくようですわ」
ステファニーが、驚いたように呟いた。
リィナも、種を器用に飛ばしながら、穏やかな表情を見せる。
「……癒やされるのよ。ニュータイプだろうとオールドタイプだろうと、私たちの体は地球の恵みを求めているんだわ。……ミリー、このスイカ、宇宙の合成食には絶対に出せない味ね」
私は、自分の分を一口齧った。
瑞々しい果汁が口いっぱいに広がり、鼻から抜けるのは、夏の草いきれと潮の香り。
ベルファストの貧民街では、スイカなんて「本物の果物」は、ショーウィンドウの向こう側の景色でしかなかった。
ミハル姉さんと、いつか二人で、一切れを分け合って食べたいと願っていた、贅沢の象徴。
「……どんなに優れた能力を持っていても、お腹は空くし、美味しいものは美味しい。……それだけで、いいじゃない」
私が小さく言うと、キッカが私の肩を叩いた。
「そうだね、ミリー。……あたしたちが、どんなに鋭敏な感覚を持っていても、このスイカの甘さに救われる。……それが、今を生きてるってことなんだと思う」
太陽が、ジリジリと砂浜を焼く。
遠くの水平線では、連邦軍の哨戒艇が白い波紋を描いて走っていた。
宇宙では、サイコ・フレームとかいう新しい技術が、人の意志を戦争の道具に変えようとしているらしい。
けれど、今の私たちの世界は、この一切れのスイカの中にあった。
シャク、という咀嚼音。
種を飛ばして笑い合う、エルの声。
スイカの汁で汚れた手を、波打ち際で洗うリィナの後ろ姿。
「日々は……いえ、どんなに時代が変わっても、この味だけは変わらないでいてほしいね」
キッカの言葉に、私は深く頷いた。
スイカの赤色は、夕陽に染まる海の色に似ていた。
明日からまた、私たちは不穏なニュースが流れる大学へと戻る。
重力に引かれ、歴史の濁流に呑み込まれそうになりながらも。
「……ミリー、もう一個割っちゃう? あたし、次は目隠しなしで全力で行くよ!」
「エル、それはただの破壊活動よ」
リィナの冷静なツッコミに、また笑い声が弾ける。
0092年、夏。
スイカを割る瞬間の「感応」は、戦うための力ではなく、今日を笑って終えるための、優しい魔法として使われた。
私たちは、最後の果肉まで綺麗に平らげた。
皮に残った薄い緑色が、夏の終わりの予感のように、少しだけ寂しく見えた。