機動戦士ガンダム0092 サウス・ナポリの「キッカの家」 ホワイトベースの少女とシャングリラの孤児たちが、放課後のキッチンで幸せを盛り付ける話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
サウス・ナポリの秋は、風の中にわずかな潮の香りと、冬を予感させる冷たさが混じり始める。
大学の図書館は、高い天井から差し込む午後の光が、無数の埃の粒子を黄金色に染め上げていた。
この時代、情報はすべてデジタル化され、端末一つで宇宙の果てのデータまで閲覧できる。
それでも、リィナ・アーシタはあえて、紙の束を綴じた旧世紀風の蔵書が並ぶ、この静謐な空間を好んでいた。
「……また、あそこにいますのね」
ステファニーが、図書室の奥にある個人用ブースを指差して、小さく溜息をついた。
そこには、分厚い経済学の専門書と、宇宙世紀の歴史資料の山に埋もれるようにして、ペンを走らせるリィナの姿があった。
彼女は、まるで自分を過酷な試練に課す修行僧のように、一度集中すると食事を摂ることさえ忘れてしまう。
「リィナさん、もう三時間もあそこにいますよ。……エントランスのニュース端末では、サイド一の不穏な動静ばかり流れてますし、彼女、きっと根を詰めすぎてるんだと思います」
私は、手に持ったバスケットをぎゅっと抱え直した。
中には、さっきまでククルス・アパートのキッチンで作っていた、差し入れのサンドイッチが入っている。
私たちは足音を忍ばせて、リィナのブースに近づいた。
彼女は私たちの気配に気づくと、眼鏡を指先で押し上げ、少しだけ疲れたような、けれど穏やかな微笑を浮かべた。
「……ミリー、ステファニー。……ごめんなさい、もうこんな時間だったのね」
「リィナ、あんたの集中力には恐れ入るけど、脳のエネルギー切れは判断を鈍らせるわよ。……ミリーが、すごいの一種、作ってくれたから」
いつの間にか背後にいたエルが、リィナの肩を叩く。
私たちは、図書館のテラス席へと移動した。
ここは、学生たちの憩いの場であり、同時に情報の死角でもある。
私はバスケットを開け、ワックスペーパーに包まれたサンドイッチを取り出した。
今日のメニューは、カツサンドだ。
「……カツサンド、ですか。この香ばしい匂い、食欲を直接刺激しますわね」
ステファニーが鼻をくすぐらせる。
このカツは、ルオ商会が提供してくれた豚肉……ではなく、私が市場で見つけた「大豆由来の代替肉」を、宇宙食のノウハウで加工したものだ。
そこに、ベルファストの知恵を加えた。
代替肉を、乾燥させたマッシュポテトと少量の牛脂で練り直し、本物の肉に近い繊維感とコクを持たせる。
衣は、細かく砕いた乾パン。
それを、アナログな加熱器でじっくりと、キツネ色になるまで揚げ焼きにした。
「……食べてみてください。耳まで柔らかいパンを選びましたから」
リィナが、一切れを手に取った。
断面には、濃厚なウスターソースが染み込んだ分厚いカツと、千切りのキャベツがぎっしりと詰まっている。
サクッ。
静かなテラスに、衣が砕ける音が響く。
「……っ、おいしい」
リィナの瞳に、パッと光が戻った。
「大豆だって言われなければ、気づかないわ。……この、噛みしめるたびに溢れる旨味。……ミリー、あなたは魔法使いね」
「魔法じゃありません。……生き抜くための、ただの工夫です」
私は照れくさくて、視線を海の方へ向けた。
ベルファストで、ミハル姉さんと弟たちが、配給のパンを少しでも美味しく食べようと、道端に生えたハーブを挟んだり、焦がした砂糖を塗ったりしていた、あの頃の延長線上に、今の私はいる。
リィナは、二口目をゆっくりと咀嚼しながら、遠くの空を見つめた。
その視線は、地球の空を越え、さらに遠い木星圏へと向けられているようだった。
「……兄さんも、今頃何かを食べているかしら。……シャングリラにいた頃、ジュドーはいつも私のために、どこからか食べ物を見つけてきてくれた。……あの子が空腹で、寂しい思いをしていないことだけが、今の私の、一番の願いなの」
「大丈夫だよ、リィナ。……ジュドーなら、宇宙の果てでも、たくましく魚でも釣って食べてるって」
エルの励ましに、リィナは小さく笑った。
「……そうね。あの子は、そういう人だったわ」
カツサンドのソースの味は、少しだけ甘くて、少しだけ酸っぱかった。
それは、今の私たちが享受している、この限定的な「平和」の味に似ている。
最新のジェガンが配備され、シャア・アズナブルの帰還が囁かれる中、私たちはこうして、一冊の本と一切れのパンを共有している。
「……リィナさん。あなたが読んでいるその古い資料には、未来を救うヒントが書かれているのですか?」
ステファニーの問いに、リィナは静かに首を振った。
「いいえ。……過去の失敗を、どうやって繰り返さないかを探しているだけよ。……私たちは、もう二度と、あんな悲劇の中に子供たちを放り込んではいけないから」
リィナの眼鏡の奥にある瞳は、冷徹なほどに理性的だった。
けれど、その手に握られたサンドイッチを口にする時だけは、十九歳の少女らしい、柔らかい表情に戻る。
温かさと、匂い。
それが、彼女たちの鋭すぎる感覚を鎮める、唯一の癒やし。
「……さあ、食べ終わったら、少し運動しましょう。……キッカが、裏の農園でサツマイモの様子を見てくるって言ってたわよ」
エルの言葉に、私たちは立ち上がった。
図書館のブースに戻るリィナの背中は、心なしかさっきよりも軽やかに見えた。
カツサンドの包み紙を片付けながら、私は思う。
一四年前、ミハル姉さんが私に託したものは、情報でも力でもなかった。
「今日を生き抜くための、温かい一口」だったのだと。
秋の風が、テラスを吹き抜けていく。
宇宙世紀0092年。
世界がどれほど不穏な影に覆われようとも。
私たちは、このサンドイッチの味を武器に、明日という日を読み進めていく。