機動戦士ガンダム 美味しんぼ ロンド・ベルの究極、ネオ・ジオンの至高 逆襲のシャア前夜、ロンド・ベル寄港中の補給食堂 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
その人が来たのは、3月の終わりだった。
地球連邦政府の整理担当官だという。手には1枚の照会書があった。申請者の欄には、アデナウアー・パラヤと記されていた。
「食文化研究部の責任者は」
「私です」
ファ・ユイリィが前へ出た。
担当官は部屋を見渡した。黒板。棚。鍋。そして棚の奥に置かれた、1つの椀。
「あの椀は」
「娘さんが使ったものです」
担当官は照会書を開いた。
「パラヤ参謀次官は生前、娘がこちらで食事をした可能性があるとして、利用記録を照会していました」
私は、あの日を思い出した。
クェス・パラヤは、雑穀と豆のスープを1度だけ飲んだ。
ファが乾煎りした豆を半分だけ潰し、麦の煮汁へ戻した料理だった。最初の1口は薄い。噛むと豆の甘味が現れ、最後に焼いた根菜の香りが残る。
クェスは椀を空にすると、こう言った。
普通。
「普通、と言っていました」
私が答えた。
担当官は書類から顔を上げた。
「それだけですか」
「はい」
ファは、あの日と同じスープを小椀へよそった。
「召し上がりますか」
担当官は戸惑いながら受け取った。
1口目で、わずかに眉を寄せた。
「ずいぶん薄い」
「もう1口、豆を噛んでみてください」
2口目。
潰さずに残した豆の皮が割れ、淡い甘味が広がった。その後から、乾煎りした麦の香りが鼻へ抜けた。
担当官は3口目を飲んだ。
「後から味が出る」
「最初から強い味をつけると、それ以外の味を探さなくなる人がいます。あの子には、自分で見つけられる余地を残しました」
「それが、普通だったのですか」
「たぶん」
ファは答えた。
「特別扱いされず、自分で味を決められる。そのことを、普通と言ったのだと思います」
担当官は椀を置いた。
「参謀次官は、娘の消息を確認する前に亡くなりました。この照会へ回答を返す相手も、もういません」
その言葉には、確定した死と、確定していない消息が並んでいた。
リィナ・アーシタは何も書かなかった。
「その椀は、どうしますか」
担当官が棚を見た。
「まだ決めていません」
ファが答えた。
担当官は椀へ近づいた。手に取ろうとして、途中で止めた。
「政府の整理品として回収することはできます」
「回収したら、どうなりますか」
「所有者不明の遺留品として保管されます。一定期間後、処分される可能性もあります」
ファは棚から椀を出した。
内側には、豆の薄い色がわずかに残っていた。
「この染みは、洗い残しではありません」
ファは言った。
「豆を乾煎りした時に出た色です。強く磨けば落ちます。でも、器の表面まで削ってしまう」
担当官が、空の椀を見た。
「汚れを落とすために、器まで削るのですか」
「きれいにすることだけを目的にすれば」
ファは椀を棚へ戻した。
「でも、使われた跡まで消す必要はありません」
担当官は、しばらく黙っていた。
「そのまま置いてください。私が回収すれば、この椀は処理を待つ物になる。ここにあれば、少なくとも、食事に使われた椀でいられる」
「置きます」
ファは即答した。
「あなたに頼まれたからではありません。私たちが、まだ片付けるべきではないと思うから置きます」
担当官は頷いた。
「それで結構です」
彼は照会書へ、回収せず、と記した。
扉の前で1度だけ振り返った。
「普通という言葉が、これほど難しいとは思いませんでした」
「普通の味というものはありません」
ファが言った。
「誰にも邪魔されず、自分の舌で味を決められる。その時間が普通なのだと思います」
担当官は深く一礼し、帰っていった。
その夜、鍋にはいつも通り火が入った。
昼と同じスープだったが、ファは塩を足さなかった。冷えて失われた香りを戻すため、乾煎りした麦だけを少し加えた。
味が足りない時、何でも塩で埋めてはいけない。
足りないものが香りなら、戻すべきなのは香りだった。
私は手帳を開いた。
普通、と言った人がいた。
その普通が何を意味したのか、今も分からない。
椀は置いたままにする。
理由は、まだ分からないからではない。
そこで1人が、自分の舌で味を決めたことだけは、分かっているから。