機動戦士ガンダム0092 サウス・ナポリの「キッカの家」 ホワイトベースの少女とシャングリラの孤児たちが、放課後のキッチンで幸せを盛り付ける話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
11月の風は、サウス・ナポリの街に容赦なく冬の気配を運んでくる。
ククルス・アパートの屋上で、私は火のついた七輪を囲んでいた。
最新の住宅ユニットなら、スイッチ一つで25℃に保たれるはずのこの世界で、私たちはあえて凍えるような夜気に身を晒している。
「……焼けたかな」
私は、網の上で身をよじらせる細長い魚を見つめた。
サンマ。
ステファニーが「ルオ商会の息がかかった極東の漁場から、最新の急速冷凍便で届かせた」という、今や地球でも一握りの特権階級しか口にできない秋の至宝だ。
ジウ、と脂の落ちる音がして、白く濃い煙が立ち上る。
その煙を、エルが器用に団扇で扇ぎ、空へと逃がした。
「いい匂い。……でも、サンマなんて食べるの、シャングリラ以来かも。あの頃は、もっと痩せてて、脂なんてちっとも乗ってない、出所不明の干物ばっかりだったけどね」
エルの言葉に、隣で温かいお茶を啜っていたリィナが、眼鏡の奥の瞳を和らげた。
「そうね。……あの頃の私たちは、魚の形をしているだけで御馳走だと思っていたわ。……ミリー、焼き加減はどう?」
「もう少しです。……皮が少し焦げて、そこから脂が弾けるくらいが一番美味しいですから」
私は、竹の菜箸で慎重にサンマを裏返した。
ベルファストの極貧生活で、私が学んだ唯一の贅沢は「火の魔法」だった。
どんなに見窄らしい食材でも、火の通し方一つで、それは凍えた体を生に繋ぎ止める糧に変わる。
ミハル姉さんが最後に残してくれたのは、そんな「生き抜くための知恵」だった。
「……お待たせしました。熱いうちにどうぞ」
私は、大根おろしを添えた小皿に、黄金色に焼き上がったサンマを乗せて皆に配った。
ステファニーは、慣れない手つきで割り箸を割り、その魚体を不思議そうに見つめている。
「……ミリーさん。このお腹のあたり、少し黒ずんでいますけれど、これは取り除かなくてよろしいの?」
「そこが一番の『大人』の味なんです、ステファニーさん。……内臓の苦味を、美味しいと思えるかどうか」
私は先に、自分のサンマの腹に箸を入れた。
独特の香ばしさと、内臓特有の苦味が口の中に広がる。
それは、ただ甘いだけの合成食では決して味わえない、複雑で重厚な、生命の味だった。
「……苦い。……けれど、なんだか後を引きますわね」
ステファニーが、小さく唇を窄めながら呟いた。
その隣で、キッカは豪快に身を解し、大根おろしをたっぷりと乗せて口に運んでいる。
「……っ、これこれ! この苦さがいいんだよね。……ねえ、リィナさん。あたしたち、いつの間にかこういう味が分かるようになっちゃったんだね」
キッカの言葉に、リィナは静かに頷いた。
「そうね。……子供の頃は、ただお腹を満たすことだけで精一杯だった。……でも、戦場を渡り歩いて、色んな人の死や、割り切れない想いを見てきて……。いつの間にか、純粋な甘さだけじゃ、満足できなくなったのかもしれない」
屋上の端に設置された古い情報端末からは、今日も不穏なニュースが流れている。
「新生ネオ・ジオン、スウィート・ウォーターを占拠か」
「地球連邦政府、治安維持活動を強化」
画面の向こう側では、最新鋭機ジェガンのシルエットが、青白いバーニアの光を引いて暗黒の宇宙を駆けている。
18歳のキッカや、19歳のリィナ。
彼女たちは、そのニュースを「当たり前の日常」として聞き流しながらも、時折、その瞳に深い哀しみを宿す。
かつて自分が立っていた場所。
かつて自分が失ったもの。
その延長線上に、今、このサンマを焼く火がある。
「……あたしたち、少しは大人になったのかね」
エルが、焦げた皮を噛み締めながら、独り言のように言った。
「戦うことしか知らなかった頃より、今のあたしたちの方が、ずっと世界を複雑に見てる。……このサンマの苦味みたいにさ」
「大人は、苦味を知る者……。……ルオ商会の大人たちは、もっとどろどろとした苦味の中で生きていますわ。……でも、今私が感じているこの苦味は、それとは違う。……もっと、誇らしいものです」
ステファニーが、お茶で口を潤しながら、力強く言った。
彼女は、家業の重圧や、ニュータイプという言葉に翻弄される日々に、自分なりの折り合いをつけようとしていた。
私は、七輪の中で静かに燃える炭を見つめた。
赤く、けれど静かに熱を放つ炭火。
それは、14年前のあの日、ベルファストを焼き尽くした火炎とは違う。
人を温め、食卓を囲ませ、明日への活力を与えるための、慈愛の火だ。
「……ねえ、ミリー。もう1匹、焼いてもいいかな?」
キッカが、おどけたように空のお皿を差し出した。
「もちろん。……まだ、特売の冷凍サンマが残っていますから」
私は2匹目のサンマを網に乗せた。
パチッ、と炭が爆ぜる。
その音は、まるで小さな宣戦布告のように聞こえた。
世界がどれほど不条理な苦味に満たされようとも、私たちはこの食卓の火を絶やさない。
サンマの苦味を「美味しい」と言い合える、このささやかな平和を、全力で肯定し続ける。
「……明日は、何を作りましょうか」
私の問いに、4人が同時に顔を上げた。
「温かいものがいいな!」
「私は、少し甘いデザートを所望しますわ」
「エル、あんた食べ過ぎよ」
「いいじゃない、動けるうちに食べとかないとさ!」
笑い声が、11月の冷たい夜風に乗って、サウス・ナポリの空へと吸い込まれていく。
屋上に流れるニュースは、依然として暗い未来を予感させていたけれど。
私たちの胃袋を満たすサンマの温かさは、何よりも確かな「今」を刻んでいた。
宇宙世紀0092。
アクシズが落ちるその日まで。
私たちは、この苦味を噛み締めながら、1歩ずつ大人になっていく。