機動戦士ガンダム0092 サウス・ナポリの「キッカの家」 ホワイトベースの少女とシャングリラの孤児たちが、放課後のキッチンで幸せを盛り付ける話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
12月のサウス・ナポリは、地中海からの湿った風が骨の芯まで冷やすような寒さをもたらす。
街の広場には巨大なホログラムのツリーが輝き、人々は束の間の平和を謳歌しているように見える。けれど、ククルス・アパートの共用スペースに設置された古いモニターから流れるニュースは、その華やかさを冷酷に否定していた。
「スウィート・ウォーターにおける難民の流入が加速……連邦政府はネオ・ジオン残党の動向を注視……」
無機質なアナウンサーの声が、誰もいない食堂に響く。
私は、その声を遮るように、厚手の木製まな板の上にカボチャを置いた。
「……硬い」
思わず独り言が漏れる。
今日の食材は、ステファニーが持ち込んできた地球産のカボチャだ。
ルオ商会が保有するバイオ農園で、あえて旧来の農法を用いて育てられたというそれは、皮が岩のように頑丈で、私のアナログな包丁を跳ね返そうとする。
「手伝いましょうか、ミリーさん」
背後から声をかけてきたのは、ステファニーだった。
いつもならルオ商会の令嬢として凛とした佇まいの彼女だが、今日はどこか肩の線が沈んでいるように見える。
「大丈夫です。コツさえ掴めば、重力に任せて切れますから」
私は包丁の背に左手を添え、18歳の体重を乗せて一気に刃を沈めた。
パキン、という小気味よい音とともに、鮮やかな橙色の果肉が姿を現す。
その瑞々しい断面から、冬の太陽を閉じ込めたような甘い香りが立ち上がった。
「……父から、連絡がありました」
ステファニーが、調理台の隅に置かれた1個のカボチャを見つめながらポツリと言った。
「サウス・ナポリを離れ、香港へ戻れと。……ネオ・ジオンの総帥となったシャア・アズナブルが、いつ本格的な行動に出るか分からない。地球連邦の直轄地であるここは、ターゲットになりやすいのだそうです」
私は包丁を動かす手を止めなかった。
宇宙世紀0092年。
シャア・アズナブルの帰還。
その名前が持つ重圧を、一年戦争やグリプス戦役を直接知らない私でも、肌で感じ取ることができる。
世界が再び、巨大な火の渦に巻き込まれようとしている。
「ステファニーさんは、帰るんですか?」
「……分かりません。ルオ商会の人間として、大局を見るべきなのは理解しています。けれど……」
ステファニーの視線が、調理室の壁に貼られた「食文化研究部」の集合写真に向いた。
キッカ、リィナ、エル。そして私。
バラバラの過去を持ち、バラバラの飢えを知る5人が、たった1つの鍋を囲んで笑っている写真。
「この場所で食べる食事が、私に教えてくれたんです。……情報の数字や、商売の損得よりも、もっと切実なものがこの世界にはあるのだと」
私は、切り分けたカボチャを古い型の電磁調理器にかけた。
少量の水と、保存の効く粉末の出汁。
そして、ミリー特製の「隠し味」を加える。
ベルファストでミハル姉さんと弟たちが、凍える夜に少しでも元気が出るようにと工夫した、乾燥ハーブと少量の岩塩。
「今日は冬至ですから。カボチャを食べて、身体を温めて、運を呼び込むんです。……これは、この星に古くから伝わる知恵だそうですよ」
コトコトと、鍋の中でカボチャが躍り始める。
甘い匂いが、冷え切った調理室をゆっくりと満たしていく。
その匂いは、どんなニュータイプ的な予感や、高度な政治的分析よりも、力強く「今、ここに生きていること」を肯定してくれた。
「……いい匂い」
いつの間にか、キッカとリィナ、エルも集まってきた。
彼女たちはモニターのニュースを消し、自然とテーブルを囲む。
「ステファニー、あんたのパパが何て言おうと、あたしたちはあんたを離さないよ」
エルが、ステファニーの背中をバシッと叩く。
「そうね。……もし宇宙が戦場になるのなら、せめてこの地球にいる間くらいは、美味しいものを食べて、意地を張っていてもいいんじゃないかしら」
リィナが、優しく、けれど断固とした口調で続けた。
私は、煮上がったカボチャを5つの小鉢に盛り付けた。
湯気が立ち上り、ステファニーの眼鏡を白く曇らせる。
「……いただきます」
5人の声が重なる。
カボチャを口に運んだステファニーが、ハフハフと熱さを堪えながら、ゆっくりと咀嚼した。
その瞳に、じわりと涙が浮かぶ。
「……甘い。……そして、少しだけ、土の味がします」
「それが地球の味ですよ、ステファニーさん。……フード・コンポジターでは再現できない、不純で、温かい味です」
私たちは、静かにカボチャを完食した。
外では冷たい雨が降り始め、冬の夜が深まっていく。
100キロメートル、1000キロメートル先では、新しい戦争のための歯車が確実に回り始めている。
けれど、この「ククルス・アパート」の一角だけは、カボチャの甘い匂いに守られていた。
血縁ではない。組織でもない。
ただ同じ鍋を囲み、同じ苦味や甘味を共有する。
その絆こそが、嵐の前夜を生き抜くための、私たちの唯一のモビルスーツだった。
「……ミリーさん。私、もう少しだけここにいます。……父には、カボチャが煮えるまでは動けないと伝えますわ」
ステファニーの冗談に、皆が笑った。
その笑い声が、ニュースキャスターの深刻な警告を、今は遠くへと追いやってくれる。
12月の冬至。
14年目の祈りを込めて。
私たちは、明日という日を生き抜くための熱を、身体の芯に蓄えていく。