機動戦士ガンダム0092 サウス・ナポリの「キッカの家」 ホワイトベースの少女とシャングリラの孤児たちが、放課後のキッチンで幸せを盛り付ける話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
サウス・ナポリの夜空は、不自然なほどに澄み渡っていた。
地中海の冷たい空気が街を包み、ホログラムの雪がデジタルな輝きを振りまいている。
12月24日。
地球連邦政府が推奨する「平和の祭典」の喧騒を遠くに聞きながら、私たちはククルス・アパートの狭いキッチンに集まっていた。
「……よし。温度は180℃で固定。あとはじっくり火を通すだけ」
私は古い型の電磁オーブンの設定を確認し、小さく息を吐いた。
オーブンの中には、ステファニーが「ルオ商会の息がかかった特別農場」から調達してきた、本物の鶏が鎮座している。
合成タンパク質で成形された「チキン風ブロック」ではない。
骨があり、皮があり、命の重みを感じさせる本物の肉体だ。
「ミリー、あとどれくらい? もうお腹と背中がくっつきそうだよ」
エルが、リビングのソファから身を乗り出して聞いてくる。
彼女の手には、シャンメリーのボトルが握られていた。
「焦らないでください、エルさん。ローストチキンは、皮がパリッと焼き上がるまでの時間が一番の御馳走なんですから」
私は、キッカの隣に座って、下準備に使ったアナログな包丁を丁寧に拭いた。
キッカは、窓の外の夜空をじっと見つめている。
その瞳の奥には、18年前のあの日、ア・バオア・クーの炎上を見つめていた3歳の子供の面影はなかった。
けれど、彼女が抱える「予感」の鋭さは、年を追うごとに増しているように見える。
「……ねえ、リィナ。宇宙は、今頃どうなっているのかな」
キッカが、不意に隣のリィナへ問いかけた。
リィナは、膝の上に置いた本を閉じ、静かに答える。
「……サイコ・フレーム。最近、技術系のニュースでよく耳にする言葉よ。……それが何をもたらすのか、私には分からない。けれど、兄さんたちが戦っていた頃よりも、もっと複雑で、もっと鋭利な何かが、暗闇の中で研がれているような気がするの」
リィナの言葉に、キッカは黙って頷いた。
彼女たちの感覚は、連邦政府が流すプロパガンダを易々と突き抜け、宇宙の端っこで火花を散らすモビルスーツの熱量を感じ取っている。
新生ネオ・ジオンの胎動。
シャア・アズナブルという男が、再びその名を歴史の表舞台に刻もうとしている。
ジウ、ジウ、と。
オーブンの中から、脂の弾ける音が聞こえ始めた。
ハーブとニンニク、そして鶏肉が焼き上がる香ばしい匂いが、狭いキッチンをゆっくりと満たしていく。
それは、かつてフラウ・ボゥが、ホワイトベースのキッチンで子供たちのために作ってくれたという、家庭の味の記憶。
「……いい匂い。……ねえ、ミリーさん。どうして、ただ焼くだけの料理が、こんなに心を鎮めるのでしょう」
ステファニーが、ワイングラスに注がれたノンアルコールのシードルを見つめながら呟いた。
「ルオ商会のパーティーで出される、最高級のフルコースよりも。……今、このオーブンの前で待っている時間の方が、ずっと満たされている気がします」
「……それは、私たちが『命』を食べているからだと思います」
私は、オーブンのタイマーが鳴るのを待ちながら答えた。
「フード・コンポジターが出力する食事には、死の匂いがありません。……でも、この鶏には、かつて生きていた跡がある。それを私たちが、手間をかけて熱を加えて、自分たちの血肉に変える。……その儀式こそが、私たちが今を生きているっていう、唯一の証明になるから」
ピー、という乾いた電子音が響いた。
私は耐熱グローブをはめ、慎重にオーブンの扉を開ける。
熱気とともに、黄金色に輝くローストチキンが姿を現した。
立ち上る湯気。
弾ける脂。
それは、嵐の前夜という冷たい現実に抗うような、圧倒的な「生命」の輝きだった。
「わあ……すごい!」
エルが歓声を上げ、リィナが微笑み、ステファニーが感嘆の息を漏らす。
キッカもまた、窓の外から視線を戻し、食卓の中央に置かれたチキンを愛おしそうに見つめた。
「……いただきます」
5人の声が、小さな部屋に重なる。
私は、包丁で丁寧に肉を切り分けた。
一番柔らかい腿の肉を、キッカのお皿へ。
皮のパリパリした部分を、エルとステファニーへ。
そして、リィナには香草の香りが一番染み込んだ部分を。
一口、口に運ぶ。
口の中に広がるのは、単なる栄養素の集合体ではない。
地球の土が育んだ穀物の味。
それを食べた鶏の命。
そして、ミハル姉さんから受け継いだ、火の通し方の知恵。
「……美味しい。……明日も、頑張れる味がする」
キッカが、噛み締めるように言った。
その言葉は、連邦軍のプロパガンダよりもずっと、私たちの心に深く刺さった。
外では、最新鋭機ジェガンの配備を知らせるニュースが、虚空に向かって繰り返し流されている。
世界が再び戦争へ向かって加速し、多くの命が数字として処理される日々が、すぐそこまで来ている。
けれど。
今、この瞬間、このローストチキンの温かさを共有している私たちの絆だけは、誰にも奪えない。
「……メリー・クリスマス」
私が小さく言うと、4人が顔を上げて笑った。
「メリー・クリスマス!」
笑い声が重なり、味噌汁の匂いとはまた違う、特別な夜の香りがククルス・アパートを包み込む。
宇宙世紀0092年。
アクシズが落ちるその日まで、あと少し。
私たちは、この食卓の記憶を、明日への祈りとして胸に刻んでいく。