機動戦士ガンダム0092 サウス・ナポリの「キッカの家」 ホワイトベースの少女とシャングリラの孤児たちが、放課後のキッチンで幸せを盛り付ける話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
宇宙世紀0092年、大晦日。
サウス・ナポリの空は、吸い込まれるような深い藍色に染まっていた。
街の至る所にある情報端末のモニターは、除夜の鐘を中継する準備を整えつつも、その下部には常に「ネオ・ジオンの軍備増強を非難する地球連邦政府の声明」といった不穏な文字を躍らせている。
私は、ククルス・アパートの古びた流し台の前に立っていた。
「……よし。粘りが出てきた」
ボウルの中で、私は自分の手で蕎麦を打っていた。
といっても、本物の蕎麦粉100パーセントなんて代物は、ステファニーの実家であるルオ商会の倉庫にすら滅多に並ばない超高級品だ。
私が用意したのは、宇宙移民者たちがコロニー内で開発した「蕎麦風プロテイン」に、ほんの少しだけ本物の蕎麦の実を挽いた粉を混ぜたもの。
「ミリー、まだこねてるの? もうすぐ年が変わっちゃうよ」
背後からキッカが声をかけてくる。
彼女の手には、少し煤けたアナログな出汁取り用の鍋が握られていた。
ホワイトベースで過ごした幼い頃、彼女はフラウ・ボゥが大きな鍋を振るう姿をずっと見ていたという。
「キッカさん、蕎麦は『練り』が命なんです。……これが、一年を締めくくる大切な儀式なんですから」
私は体重を乗せて、粘り強い生地を押し込む。
14年前。
0079年の一年戦争。
ベルファストの極貧層で、ミハル姉さんと過ごした最後の大晦日は、凍えるような寒さだった。
あの時、私たちはまともな麺なんて持っていなくて、配給の乾パンを砕いて、お湯でふやかしただけの「お粥のようなもの」を食べて笑い合った。
「来年は、もっと美味しいものを食べようね」
ミハル姉さんが優しく微笑んで言った、その「来年」は、彼女には訪れなかった。
「……ミリー、少し交代しよう。私、力だけはあるからさ」
エルが、腕捲りをして割って入ってきた。
彼女の豪快な力で練られた生地は、見る見るうちに滑らかな質感へと変わっていく。
エルの強さは、シャングリラの荒っぽい日々を生き抜いてきた自負から来ている。
リィナとステファニーも、慣れない手つきで薬味のネギを刻み始めていた。
宇宙世紀の最新テクノロジーが詰まった「フード・コンポジター」に命令すれば、完璧な長さと太さの蕎麦が、わずか5秒で出力されるだろう。
けれど、私たちはそれをしない。
不揃いな麺。
少しだけ焦げた出汁の匂い。
包丁でネギを切る時の、トントントンという乾いた音。
それらすべてが、私たちが「今、ここに生きている」という、血の通った証明になる。
「……ねえ、みんな。13年前、あの戦争が終わった時、世界はもう二度と戦わないって信じていたよね」
キッカが、鍋の中の琥珀色のつゆを見つめながらポツリと言った。
ハヤト・コバヤシ。彼女が父と慕った人も、今はもういない。
一年戦争、グリプス戦役、第一次ネオ・ジオン抗争。
私たちは常に、誰かの犠牲の上に積み上げられた、この「偽りの平和」を食べて生きている。
「シャア・アズナブルが何をしようとしているのか、私には分かりません。……でも、もしまた嵐が来るのなら、私はこの5人で食べた味を、一番の守り神にしたいんです」
私は、打ち上がった蕎麦を包丁で細く切り分けていく。
18歳の私の手が、少しだけ震えていた。
リィナがそっと、私の肩に手を置く。
彼女の兄、ジュドー・アーシタは今、木星圏で何を思っているのだろう。
遠く離れた家族を想い、祈るような気持ちで蕎麦を啜る。
それが、宇宙世紀という残酷な海に浮かぶ、私たちのささやかな錨だった。
「……ゆで上がったわ! みんな、座って!」
エルの合図で、私たちは食卓を囲んだ。
湯気が立ち上る5つの器。
本物の鰹節から取った贅沢な出汁の香りが、私たちの鼻腔をくすぐる。
ステファニーが、静かにワイングラス……ではなく、お茶の入った湯呑みを掲げた。
「宇宙世紀0092年の終わりに。……そして、私たちの食卓が、明日も絶えないことを願って」
「「「いただきます」」」
5人の声が重なった。
蕎麦を啜る音が、静かなアパートに響く。
少し無骨で、けれど噛むほどに蕎麦の香りが広がる。
温かいつゆが、喉を通って胃の腑に落ち、冷え切っていた全身に熱を送り届けていく。
「……美味しい」
キッカが、器を抱えるようにして言った。
その頬を、一筋の涙が伝う。
それは悲しみではなく、温かいものを温かいと感じられる、今この瞬間への感謝のようだった。
窓の外では、24時を告げるカウントダウンが始まった。
デジタルな光がサウス・ナポリを昼間のように照らし出し、人々が歓声を上げる。
モニターの中では、新生ネオ・ジオンを糾弾する高官の顔が、祝福の花火にかき消されていた。
世界は、1年前よりも確実に壊れ始めている。
14年前、ミハル姉さんが命を懸けて守ろうとした平和は、今もまだ脆いままだ。
けれど。
私たちの胃袋を満たした、この年越し蕎麦の温かさだけは本物だ。
「……ごちそうさまでした」
私が言うと、皆が満足そうに頷いた。
宇宙世紀0093年。
激動の年が、幕を開ける。
アクシズが落ちるその日まで、私たちは食べ続けるだろう。
生き延びるために。
そして、この温かさを忘れないために。
14年目のおにぎりは、ベルファストの味がしたけれど。
今日の蕎麦は、新しい家族の、希望の味がした。