機動戦士ガンダム 逆シャア前夜の子供食堂 ――キッカの家―― 〜宇宙世紀0092-0093、サイド1・ロンデニオン外縁区〜 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
年末が近づくにつれ、ロンデニオン外縁区の空気は目に見えて悪くなった。
大学は一見いつも通りでも、街では検問が増え、配給列は長くなり、噂話の中に「徴用」「避難」「宇宙へ戻る最終便」という単語が混ざるようになっていた。
保税倉庫の外では、商店が早めにシャッターを下ろすようになっていた。買い占めを恐れる店主、配給券を握りしめて並ぶ家族、港へ向かう荷物を抱えた学生。誰も大声では言わないが、皆、同じことを考えている。年が明けたら、今より悪くなる。
倉庫の片隅で、ミリーはそばを打っていた。
「本当にやるんだ」
エルが半ば感心し、半ば呆れた声を出す。
「やる」
「細いの、無理じゃない?」
「太くてもそばです」
「開き直った!」
粉の配合は理想にはほど遠い。
小麦が多く、蕎麦粉は少ない。それでも、年越しに麺を啜るという行為そのものに意味がある。
ミリーは少ない蕎麦粉をふるい、つなぎの小麦粉を足し、ぬるい水を少しずつ回しかけた。粉はすぐにはまとまらない。焦ると割れ、力任せに押すと硬くなる。手のひらで温度を確かめながら、彼女はゆっくり生地を寄せていく。まるで、この家に集まった子供たちを一人ずつ抱え直すみたいに。
リィナが生地を押さえながら、静かに言った。
「十四年前も、こんなふうに年を越せた子ばかりじゃなかったわね」
誰もすぐには答えない。
一年戦争。ベルファスト。ホワイトベース。シャングリラ。
それぞれに、思い出したくない年越しがある。
キッカは、粉のついた指を見ながら少しだけ黙った。ホワイトベースで迎えた年越しを、正確に覚えているわけではない。けれど、誰かの足音、子供を寝かせるために抑えた声、非常灯の色、食堂に残った温いスープの匂いは覚えている。大きな戦争の年表には載らない、そういう細部ばかりが残っていた。
ミリーは麺棒を止めずに言う。
「だからこそ、今年は越します」
キッカが彼女を見る。
「全員で?」
「はい。できるだけ」
その言葉に、願い以上の意志がこもっていた。
「できるだけ、じゃなくて全部って言えたらいいのにね」とエルが言う。誰も笑わなかった。全部を救う、と口にするのは簡単だ。けれどこの数か月で、彼女たちはもう知ってしまった。食材にも寝床にも便にも限りがあり、限りがある場所では、願いはいつも順番をつけられる。
茹で上がったそばは不揃いで、太さも長さもまちまちだった。
けれど湯気の上がる椀に入れてしまえば、それはちゃんと“年越しそば”の顔をする。
ミリーは人数分の椀を並べる時、名前をひとつずつ確認した。サラ、トーマ、ミナ、ロウ。熱のある双子、まだ夜泣きをする小さな子、パン屋の裏から移ってきた兄妹。椀の数を数えることは、命の数を数えることだった。足りない椀があれば、足りない誰かがいる。
「いただきます」
小さな声が重なり、倉庫の冷たい空気が少しだけやわらぐ。
「おいしい」
「ちょっと太い」
「切るなそこは!」
笑いが起きる。
そのささやかな笑いが、ミリーには何より尊かった。
キッカはその笑い声を聞きながら、手帳の余白に短く書いた。『太いそば。年を越すための麺。笑った子三人、泣かなかった子二人』。書いてから、自分でも少し驚く。出来事ではなく、表情や匂いや食べたものを残したくなる。誰かを英雄として飾るためではなく、そこにいたことを消さないために。
食後、子供たちに寝かしつけの絵本を読んでいたキッカが、ふいに言った。
「ミリー。来年、もっと悪くなるよ」
「はい」
「それでも、続ける?」
ミリーは迷わなかった。
「続けます」
「どうして?」
彼女は少し考えてから答えた。
「誰かが待ってるからです。温かいものを。帰れる場所を。……あと、私自身も、ここがないと困るから」
言ってから、ミリーは少しだけ恥ずかしくなった。ここがないと困る。そんな身勝手な理由を口にしてしまったと思ったからだ。けれどキッカは笑わない。むしろ、その答えを待っていたみたいに頷いた。「うん。家って、守ってあげる場所じゃなくて、自分も帰りたい場所だからね」
キッカは、やわらかく笑った。
「そっか。じゃあ来年も一緒だ」
深夜、年が変わる少し前。
ステファニーが通信端末を持って近づいてくる。
「移送便の枠、三人分取れましたわ」
端末の画面には、荷物枠を偽装した通過許可が三つだけ表示されていた。年齢、体格、健康状態、次の受け入れ先。項目は冷たい。けれどそのひとつひとつの裏に、泣き声や好き嫌いや眠る時の癖があることを、ここにいる全員が知っていた。
「三人……」
少ない。だが、ゼロではない。
「小さい子を優先」とリィナが即座に言う。
「健康状態も見ますわ」とステファニーが低く言った。「長距離移動に耐えられない子を乗せても、途中で危険になりますもの」彼女の声は冷静だったが、指先は震えている。数字で選ぶことに慣れていたはずの令嬢が、今は数字の向こうに顔を見てしまっていた。
「それで」
選ばれなかった子供たちにも、そばは配られた。むしろ、ミリーはその子たちの椀を少しだけ温かく保つことに必死だった。行ける子がいる。残る子がいる。その事実は変えられない。けれど、残る子の食卓まで冷たくしてしまったら、それはもう家ではない。
年越しの祈りは、
次の選別の苦さと一緒に喉を通っていった。キッカは手帳を閉じ、表紙を撫でる。新しい年が来る。その年に、誰の名前を残せるのか。誰の名前を、どうしても守れなかったと書くことになるのか。除夜の鐘の代わりに、遠い港の警報音が小さく鳴っていた。