機動戦士ガンダム 美味しんぼ ロンド・ベルの究極、ネオ・ジオンの至高 逆襲のシャア前夜、ロンド・ベル寄港中の補給食堂 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
翌朝、旧実習棟の流し台は早くも初日から完全にキャパオーバーを起こしていた。
蛇口をひねると、配管の奥から「ごぼっ、ごぼごぼっ」という破滅的な異音が響き渡る。
……その嫌すぎる音を聞いた瞬間、私の手帳を開く指がピタリと止まった。
『旧実習棟:水道、不安定。排水、詰まり。調理施設として不適合』
そうやって客観的な事実を手帳に書き連ねてしまえば、現実から一歩引いた「記録係」の立場に逃げ込んで安心できる。……だけど、そんな風に自分を甘やかすのが嫌で、私は開こうとした手帳をぎゅっと閉じた。
流し台の下へ潜り込み、パイプを覗き込んでいたエルが声を張り上げる。
「ねぇこれ、完全に逆流してきてない!?」
「見れば誰でも分かるような惨状を、いちいち声に出して確認しないでちょうだい」
リィナが呆れ顔で腕まくりをした。
「配管図はどこ? 構造を確認するわ」
「そんな高級品、このオンボロ建築にあると思う?」
「じゃあ何? 根拠もない『勘』で修理するつもり?」
「甘く見ないでよ! エルちゃんの野性の勘は打率高いんだから!」
「当たった時の記憶だけを都合よく覚えているからでしょう」
「ちょっとリィナ、朝からキレッキレすぎない!?」
「排水と一緒に私のストレスまで詰まりそうだからです!」
リィナは不機嫌になればなるほど、言葉のナイフの切れ味が増す。反対にエルは、テンパればテンパるほど余計な軽口が増えていく。
テンポの良すぎる2人のやり取りを見ていると、緊迫した空気が少しだけ和らいで心が楽になる。……そんな風に他人の掛け合いで勝手に癒やされている自分が、またちょっとだけ嫌になるのだけれど。
そこへ、重そうな工具箱を抱えたチェーン・アギさんがやってきた。
ラー・カイラムの補給便が入港を控えているこの過密スケジュールの中、本来ならこんな廃建物の流し台の修理なんて付き合っている暇はないはずだ。
けれど、彼女がわざわざ足を運んでくれた理由は、単なるお人好しだからではない。
この旧実習棟は、ロンド・ベル補給線の『臨時仕分け拠点』として正式に書類へ記載されてしまっているのだ。つまりインフラの停止は、単なるボランティア食堂の休業ではなく『軍の補給手続き上のトラブル』として処理されてしまう。
この殺伐とした港においては、人間の善意なんかよりも1枚の伝票の方がはるかに強大な効力を持つ日があるのだ。
チェーンさんは手際よく流し台の下の配管を取り外した。
「……原因は油汚れじゃないわね。大量の錆と、固まった麦殻だわ」
「麦殻……?」
エルが不思議そうに首を傾げる。
「昨日、古米と麦を洗い流したでしょ。その時に網をすり抜けた殻がパイプの曲がり角に引っかかって、蓄積していた錆と結合して固まっちゃったのね」
リィナが一瞬、気まずそうに私を見た。私も思わずリィナと目を合わせる。
昨日、私たちは何の疑いもなく麦を洗って水を流した。悪気なんて微塵もなかった。
けれど——『悪気がなかったこと』と『パイプを詰まらせた事実』は、何の関係もないのだ。
チェーンさんはレンチを巧みに回しながら、静かに告げた。
「料理をするなら、排水の処理までが料理の一部よ。食材を口に入れることだけじゃなく、排出したものがどこへ流れていくのか……その行き着く先まで責任を持たなきゃ」
その淡々としつつも核心を突いた言い回しは、どこかファさんの料理観に似ていた。
(……『排水も料理の一部』……)
手帳に書き留めたくなるような、あまりにも素晴らしい言葉。……そう、素晴らしすぎるのだ。
だから私は手帳の隅っこに、米粒みたいな小さな文字でこっそり書き残した。大きな文字で朗々と書いてしまったら、まるでこの深い言葉を自分が一から思いついたみたいで、図々しい気がしたから。
昼前、現場に小ぶりな木箱が届いた。中には卵がたったの3個。
添えられた伝票には『軍需余剰』『殻割れ』『大学試料』という3つの分類名が雑に併記されている。
正規の流通ルートに乗った物資ではない。かといって盗品でもない。……一番扱いに困る、灰色の大人の事情が詰まった代物だ。
「ラー・カイラムの補給搬入時に、衝撃で殻にヒビが入ってしまった分よ」
チェーンさんが伝票を指でなぞりながら説明する。
「軍の正規の艦内食として出すには衛生基準を満たさない。かといって市場に戻して再検査を受けさせればコスト倒れになる。だから『大学の研究試料』という名目で、こちらに払い下げられたの」
「え、ちょっと待って? 『試料』って食べて大丈夫なやつなの!?」
エルが恐る恐る尋ねる。
チェーンさんはほんの少しだけ視線を泳がせた。
「……『食用試料』よ」
「ねぇ、その分類いま思いつきで作ったでしょ!」
「半分ね」
「半分は本当なんだ……」
「ええ、だからこそタチが悪い現場判断なのよ」
チェーンさんの口調はどこまでもクールだったけれど、その眉間にはうっすらと困惑のシワが刻まれていた。
数値化できるデータには絶大な強さを発揮する彼女だけれど、そのデータから溢れ出た『誰の責任とも言えないグレーゾーン』を処理するとなると、途端に脆さを見せる。
リィナは眉をひそめながら伝票を見比べていた。
「『軍需余剰』『大学試料』『食用試料』……たった3個の卵に、3つも名前がついています」
「なになに? その卵、そんなに人気者なの?」
エルがおどけてみせるが、リィナの表情は固い。
「違います。大人たちが責任を押し付け合った結果の、醜い言葉のたらい回しです」
「リィナってば、卵に対して容赦なさすぎない!?」
「卵に怒っている訳ではありません。無責任な伝票の不透明さに腹を立てているのです」
私は木箱の中の卵を見つめた。
3個のうち1個は、表面にうっすらと髪の毛ほどの細い亀裂が入っている。もう1個は、栄養状態が偏っているのか殻の色が極端に薄い。
そして最後の1個だけが、完璧に美しく滑らかな殻を保っていた。
……けれど。『完璧に見えるからといって、中身まで安全とは限らない』。
それもまた、この過酷な港で私が学んだ現実だった。
ファさんは美しく見える卵を1個持ち上げると、耳元で軽く揺らして音を確かめた。さらに鼻腔へ近づけ、微かな匂いを嗅ぎ取る。
そして、間髪入れずに言い放った。
「……こんな劣悪な管理状態の卵を出そうだなんて、あなたたち本気なの!?」
「えっ、だって今日届いたばかりだし、見た目は綺麗だよ?」
エルが慌てて反論する。
「目先の表面にとらわれて本質を見抜けないなんて、浅はかにも程があるわ!」
ファさんの眼光が突如として鋭さを増した。
「いい!? 卵の殻には微細な気孔が無数に存在し、内部の水分蒸発とガス交換を行っているのよ! ヒビが入ったものは論外としても、この一見完璧に見える卵……内部の気室が肥大化し、水っぽく劣化している証拠の音が響いているわ! こんな足の早い卵を明日に回すなんて、食べる者へのテロ行為と同義だわ!」
「ひっ……!」
ファの圧倒的な威圧感に、エルが震え上がる。
「明日に回して避難者の子が腹でも壊したら、それこそ取り返しのつかない大罪よ! どんなに希少な食材であろうと、鮮度と安全のピークを見極められない者は調理台に立つ資格なんてないわ!」
冷徹なまでの食の哲学。危険な食べ物を「大丈夫」と誤魔化す生半可な優しさより、この容赦のない厳しさが私は好きだった。
ファさんはボウルを取り出し、卵を1個ずつ割り落とした。
1個目。黄身はプリッと盛り上がり、鮮やかなオレンジ色を描いている。良好だ。
2個目。白身の粘度が低く、水のようにシャバシャバと広がってしまう。
そして3個目——パカッと割れた瞬間、膜が破れて黄身がドロリと崩れてしまった。
「終わったー!」
エルが頭を抱えて叫ぶ。
「オムレツ人生、完全に終了のお知らせ……!」
「たかだか卵1個の崩れに、自分の人生まで背負わせないでちょうだい」
リィナが即座に冷ややかなツッコミを入れる。
「だってさぁ! 黄身が崩れちゃったら、綺麗でふわふわなオムレツなんて焼けないじゃん!」
ファさんは崩れた黄身を凝視したまま、静かに、しかし絶対的な確信を込めて言い放った。
「……愚か者め! 形の崩れた黄身を見て『失敗』と決めつけるとは、どこまで無知なの!」
「ええっ!?」
エルが目を丸くする。
「綺麗なオムレツを作ることしか頭にないなんて、料理の真理がまるで分かっていないわ! 私たちが向き合っているのは、パサついた古米と固い麦飯よ! 表面の水分が飛びやすく、嚥下力の落ちた人間にとっては苦痛でしかない食材……! これを形通りのオムレツで包んでどうするの!? 固い卵の膜とパサつく米粒が口内で四分五裂し、不快感しか残らないわ!」
ファさんは迷いのない手つきで、崩れた黄身をそのまま麦飯の鍋へと投下した。
「崩れた黄身の持つ濃厚な脂質と乳化作用を、あらかじめ米粒全体に直接コーティングさせる! そうすることでパサつきは完璧に抑え込まれ、舌滑らかな極上の口当たりへと昇華するのよ! 崩れたからこそ到達できる、究極の親和性……これこそが素材のポテンシャルを極限まで引き出す真実の調理法よ!」
「……っ! 『崩れた方がいい』ってこと!?」
エルが圧倒されて呟く。
「崩れたという事実に甘えるのではないわ! 崩れてしまった素材の落差を埋め、それ以上の至高の境地へ引き上げる……それが調理を担当する者の絶対的義務なのよ!」
ファさんの言葉が、旧実習棟の空気感を完全に支配した。
ファさんはフライパンを握らなかった。当然、豪華な蒸し器もない。
大きな鍋の底に薄く水を張り、布巾を敷いて、麦飯を盛った小鉢を並べていく。
直火でカリッと焼き上げるのではなく、蒸気でじっくりと温め直すスタイルだ。
卵の香ばしい匂いを主張させすぎない。食欲をそそる焦げ目で「勝ち」を取りにいかない。
「……ねぇファさん、美味しそうな匂いをさせちゃ駄目なんですか?」
私が尋ねると、ファさんは静かに振り返った。
「当然でしょう。嗅覚を直接刺激する過度な芳香は、極限状態にある人間の警戒心を無駄に煽るわ。今の彼らに必要なのは、押しつけがましいご馳走の主張ではなく、細胞へ優しく浸透する繊細な温もりよ。過剰な香りで惹きつけるのは浅はかな素人技。適度な温度と圧倒的な舌触りの良さで、自然と『二口目』へ誘導する……それこそが食べる者への至高のケアなのよ!」
香りをあえて抑える。焦げ目という武器を捨てる。勝ちにいく姿勢を一切見せない。
けれどそれこそが、今日この傷ついた避難所で差し出される一皿として、何よりも強く、優しい「完璧な答え」だったのだ。
その時、重厚な足音が響き、ブライト・ノア艦長が姿を現した。
軍服姿ではない。私服であるにもかかわらず、彼が踏み込んだ瞬間に廊下の空気がピシッと緊張で張り詰める。
部屋に入ってきたブライトさんは、まず真っ先に備え付けの椅子に視線を落とした。
古びた木製の椅子だ。4本脚のうち1本がわずかに削れ、グラつきがある。
彼は無言でその椅子に腰掛け、ギーッと軋む音とグラつきの程度を確かめると、すぐに立ち上がって元の位置へ正確に戻した。
誰も「座ってください」と言っていないし、「元に戻してください」とも頼んでいない。
けれど、彼はごく自然な動作でそれを行った。その無駄のない几帳面な所作に、私は妙に目を奪われてしまった。
「旧実習棟の占有状況、および調理活動の実態を確認しに来た」
ブライトさんが重厚な声で切り出す。
リィナがすかさず、準備していた書類を差し出した。
「『食文化研究部』の仮申請書です」
「仮申請の段階で、不特定多数への給食活動を行うことは許可できない」
「給食ではありません。研究目的の『試食』です」
リィナは至って真面目な顔で言い放った。
エルが私の隣で「うわっ……リィナってば、こういう理屈っぽい言い換えする時だけ凄く悪代官みたいな顔してる……」と小声で囁く。
「……聞こえていますよ。静かにしなさい」
ブライトさんは申請書に視線を落とした。
責任者名:空欄。
予想利用人数:未確定。
食材調達ルート:混在(軍需・大学・民間)。
食品衛生責任者:未記入。
頭では分かっていたことけれど、こうして白い紙に黒々と欠陥が並べ立てられると、あまりにも惨状だった。
「連邦の制度に基づく正規配給は、個人の事情には一切配慮しない」
ブライトさんは感情を交えずに告げる。
「特定の個人に配慮すれば、必ず不公平と不満が生じるからだ。全員を等しく『同じ制度の皿』に載せることこそが、混乱を防ぐ唯一の手段だ」
ファさんは鍋から目を離さず、静かに、けれど力強く言い返した。
「ですが……同じ皿に載せられたからといって、全員が同じように喉を通せるわけではありません」
「制度とは巨大なシステムだ。個別の事情をいちいち拾い上げるような柔軟性は持ち合わせていない」
「制度に拾えなくても……『料理』なら、拾えます」
部屋の中が静まり返った。
ファさんの声は決して高くも大きくもなかった。けれど、グツグツと湯気を立てる鍋の音よりもはっきりと、部屋中に響き渡った。
ブライトさんは小鉢に視線を移した。
崩れた黄身が優しく染み込んだ麦飯。
香ばしい焼き目もなければ、絢爛な飾りもない。食欲をそそる派手な湯気すら抑え込まれている。
「……これは、何だ」
「崩れた黄身を染み込ませた麦飯です」
ファさんが答える。
「オムレツではないのか」
「今日のこの場所には、オムレツよりもこちらの一皿が向いています」
「見栄えは極めて悪い」
「ええ」
「配給食としての均一性も皆無だ」
「はい」
「……それを承知の上で、出すというのか」
「今日、この温もりと口当たりなら……諦めかけていた子どもが『二口目』を食べてくれるかもしれないからです」
ブライトさんはしばらく無言で小鉢を見つめていた。
やがてゆっくりと手を伸ばし、器を取って一口、口に運んだ。
……表情一つ変わらない。
「……美味いか不味いかで評価するなら、決して美味いものではないな」
エルが思わず拳を握りしめる。
「で、でも……!?」
ブライトさんは鋭い視線でエルを射抜いた。
「軽々に感想を催促するな」
「っ……すみません!」
あのエルが即座に縮み上がって謝った。それだけでブライトさんの持つ圧の凄まじさが伝わってくる。
ブライトさんは、2口目を口にすることはなかった。けれど、その器を突っぱねるように突き返すこともしなかった。
「……なぜ崩れた黄身を捨てずに活かしたのか、その意図は理解した」
ファさんは何も言わず、ただ静かに佇んでいる。
リィナが緊張を孕んだ声で尋ねた。
「……それは、私たちの取り組みを肯定していただけたということでしょうか?」
「私は監査のためにここへ来たのではない」
「では……?」
「『警告』だ」
ブライトさんは1枚の公式文書をテーブルの上に置いた。
『旧実習棟におけるすべての調理・給食活動の即時停止命令』。
理由は4点。
1、消防設備の未点検。
2、食品衛生責任者の不在。
3、利用対象者数の未確定。
4、食材調達履歴の不備。
エルが耐えかねて声を荒げた。
「一口食べたのに活動停止にするの!? それじゃただの食べ逃げじゃん!」
「食べたからこそ、止めるのだ」
ブライトさんの厳格な表情は微塵も揺るがない。
「……中途半端に出来の良い『個人の善意』は、制度の欠陥や穴を覆い隠し、本質的な解決を遅らせる」
その一言が出た瞬間、ファさんが小鉢を拭く手がぴたりと止まった。
私はファさんの横顔を見つめた。
最高の技術と優しさで『料理の答え』を導き出した人が、冷徹な『制度論』によって一蹴される。
……そのあまりにも不条理な構図に、胸の奥が焼き切れるほど悔しかった。
けれど、ファさんは一切言い返さなかった。
その代わり……静かに小鉢の向きを数ミリだけ回転させた。小さな子どもが手を伸ばした時、一番箸を入れやすい絶妙な角度へ。
ブライトさんはその指先の動きを、じっと見つめていた。
「……君は、料理の力で制度の壁を乗り越えられるとでも思っているのか?」
「越えられるなんて、うぬぼれてはいません」
ファさんは毅然と顔を上げた。
「ですが……制度の用意した巨大な皿からこぼれ落ちてしまう子がいるなら、私はその子のために『別の一椀』を作り続けます」
「それは制度に対する明確な違反であり、暴走だ」
「ですから! 正式に『申請』を出しているのです!」
リィナが叫ぶように割り込んだ。
その声はかすかに震えていたけれど、彼女の瞳は決してブライトさんから逃げなかった。
「責任者名は未記入です! 利用人数も未確定で、食材の出所も不透明です! だからこそ、私たちは逃げずに申請書を提出したのです! 勝手にルールを破って活動を強行するためではありません! 私たちが止められる『本当の理由』を、大人の書類の上に可視化させるためです!」
ブライトさんはじっとリィナを見つめた。
リィナもまた、一切目を逸らさずにその視線を受け止めた。
……誇らしげで、どこか切ないその横顔を、今すぐ手帳に書き留めたくてたまらなかった。けれど、本人に確認も取らずに勝手に「美しい記録」にしてしまうのは絶対に違う気がした。
エルが隣でぽつりと呟く。
「……リィナってば、今めちゃくちゃ格好よかった……」
「……『格好いい』などという情緒的な話ではありません」
「照れ隠しかーい」
「違います!」
「ふふ、わかりやすいなぁ」
ブライトさんは置いたままの通達文書から視線を外すと、再びあの備え付けの椅子へと手を伸ばした。
すっと立ち上がり、椅子を引き、寸分の狂いもなく元の位置へ戻す。
……やはり、きっちりと完璧に。
「——3日間、旧実習棟での調理活動を全面的に停止する。その3日間の間に、責任者の選定、利用者の記録、食材の出所証明、衛生管理体制……最低限の書類をすべて完璧に整えろ」
「……整えたら、許可していただけるんですか!?」
私が思わず問い詰めると、ブライトさんは私を静かに見つめ返した。
「その時に、改めて『判断』する」
「……『認める』とは言わないんですね」
「言わない」
迷いのない即答だった。
けれど……それは決して、完全に扉を閉ざす冷酷な拒絶ではなかった。
(……この人は、私たちに『試練』を与えているんだ)
そう感じた。……けれど、確証のない直感を手帳に書くのはやめた。
ブライトさんが去っていくと、張り詰めていた室内の空気がふっと緩んだ。
エルが通達文書を睨みつけながら愚痴をこぼす。
「3日間かぁ……それって長いの?」
リィナが深々と溜め息をつく。
「書類を完璧に整える時間としては、絶望的に短いわ」
「……じゃあ、ご飯を食べられない子どもたちにとっては?」
誰も、すぐには答えることができなかった。
ファさんは静かに鍋の下の火を消した。
ボッと小さな音がして、温かな熱が失われていく。
私は黒板に書かれた文字を見つめた。
『食べさせたら勝ち、とは考えない。』
……今日、私たちは「食べさせること」すら制度によって阻まれた。
なら、今の私たちは「負け」なのだろうか?
そう手帳に書きかけて、ハッと踏みとどまった。
エルが覗き込んできた。
「キッカ、ノート書かないの?」
「……今書いたら、ただの『悔し紛れの愚痴』になっちゃうから」
「それだって立派な記録じゃん」
「そうかもしれないけど……今の惨めな感情を、未来の自分に見せたくないの」
エルは目を丸くして、くすりと笑った。
「うわぁ……キッカってば、ノートを書かない言い訳だけはどんどん高級になっていくねぇ」
「……うるさいな」
リィナが通達文書をバッと手に取り、眼鏡の位置を直した。
「まずは責任者の確保。次に利用者データの整理、食材ルートの特定、衛生管理マニュアルの作成……優先順位を決めて取りかかりますわよ!」
「あれ? リィナってば、停止命令出されて逆に元気になってない?」
「……やるべき課題が明確になると、心が落ち着く性分なのです!」
「うわぁ、わかりやすすぎるオタクの弱点だ」
「オタクとは失礼な!」
ファさんはポツンと残された、崩れ黄身の麦飯を見つめていた。
もう避難者の子どもたちに出すことは許されない。提供できる適温も過ぎてしまった。
……それでも、ファさんはそれをゴミ箱に捨てるような真似はしなかった。
「これは……私たちの賄いにしましょう」
「えっ、出さないの?」
エルが尋ねる。
「出さないわ。今の私たちには、この一皿を提供する資格がないもの」
「こんなに美味しく作ってあるのに!?」
「美味いかどうかと、食品として出して良いかどうかは……まったく別の問題よ」
ファさんはそう言うと、レンゲで麦飯をすくい、自分の口へと運んだ。
美味いと絶賛するわけでもなく、不味そうに顔をしかめるわけでもない。
ただ……粛々と、噛み締めるように食べた。
その真摯な姿が、私にはたまらなく眩しく、職人としての矜持に圧倒されて悔しかった。
『本物の料理で答えを出せる人は、答えを出せない状況に追い込まれても、逃げずにその現実を噛み締めるのだ』と知ったから。
その夜、旧実習棟の鍋に火が灯ることはなかった。
暗くなった廊下の曲がり角に、昨日見かけたあの『照合不能』の子どもがひっそりと姿を現していた。
けれど……部屋の中に人の気配がないことを察すると、中に入ることなく静かに引き返していった。
足音を立てないように、爪先だけで歩く独特の足取り。
『誰からも追われたくない』と全身で拒絶している人間の歩き方だ。
私は、その背中を追わなかった。
追わないことが「正しい選択」だなんて思えない。けれど……追うことで「助けてあげようとする自分」に酔いしれるのは、もっと嫌だったから。
私は月明かりの下で、ようやく手帳を開いた。
崩れた黄身。
パサついた麦飯。
冷徹な制度の皿。
3日間の活動停止命令。
ブライトさんは、グラつく椅子を完璧に元に戻した。
ファさんは反論せず、器の向きを丁寧に直した。
リィナは震える手で申請書を掲げ続けた。
エルは「食べ逃げだ」と怒りを露わにした。
そして、私は最後にこうペンを走らせた。
『食べたことは、許可を意味しない。
止められたことは、終わりを意味しない。』
……書き終えてから、なんだか自分でも「ちょっと調子に乗った偉そうな文章だな」と思った。
けれど、消さなかった。
偉そうな文章でも、わざわざ消したらもっと偉そうに見えてしまうから。
……昨日、エルが言っていた通りに。