機動戦士ガンダム0092 サウス・ナポリの「キッカの家」 ホワイトベースの少女とシャングリラの孤児たちが、放課後のキッチンで幸せを盛り付ける話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
宇宙世紀0092年、1月7日。
サウス・ナポリに差し込む朝の光は、冬の冷気を孕みながらも、どこか新しい季節の訪れを予感させる清冽さを持っていた。
ククルス・アパートの廊下を抜ける風は冷たいけれど、共有キッチンの窓は、内側からの熱気で白く曇っている。
「……リィナさん、これで全部ですか?」
私は、調理台に並べられた青々とした葉を見つめながら聞いた。
地球の、それも限られた地域でしか収穫されないはずの、本物の野草。
セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ。
今の時代、これらの名前を正確に言える若者がどれほどいるだろう。
「ええ、ステファニーが昨夜のうちに、ルオ商会のバイオ温室から直送させてくれたの。……お正月のご馳走で疲れた胃を休める、地球の古い知恵なんですって」
リィナが、白いエプロンの紐を凛と結び直しながら答える。
彼女の背筋はいつも伸びている。
シャングリラの過酷な環境を生き抜き、今はセイラ・マスの元で気品を身につけた彼女だけれど、その根底には「生きるための食べ物」に対する、鋭いまでの敬意がある。
私は、厚手の鍋にたっぷりの水と、洗った米を入れた。
フード・コンポジターがボタンひとつで生成する「おかゆ風ゼリー」ではない。
火の力で、米の芯をゆっくりと解きほぐしていく、時間のかかる調理。
「……ステファニー、まだ寝てるみたいですよ。昨日の夜、遅くまで実家からの通信に対応していたみたいで」
キッカが、欠伸を噛み殺しながらキッチンに入ってきた。
彼女の指先は、去年の暮れからずっと、見えない電波を拾おうとするかのように僅かに震えている。
地球に降りてきても、かつて宇宙で感じた「人の意志の衝突」の残響は、彼女の鋭敏すぎる感覚を離さないらしい。
「無理もないわ。ルオ商会にとって、新生ネオ・ジオンの動向は経営の根幹に関わる問題でしょうから」
リィナが冷静に言いながら、まな板に向かった。
トントントン、というリズムの良い音が響く。
瑞々しい春の七草が、アナログな包丁によって細かく刻まれていく。
その瞬間、キッチンに弾けるような青臭い、けれど命の躍動を感じさせる香りが広がった。
「……いい匂い。……なんだか、目が覚める気がします」
私は、鍋の中でお米が花開くのをじっと見守った。
電磁調理器の出力を微調整し、吹きこぼれないように注意を払う。
14年前。
ベルファストの路地裏で、ミハル姉さんが弟たちのために作ってくれたのは、ただの塩味のお湯に、古びたパンの耳を溶かしただけのものだった。
あの時の私にとって、それはどんなフルコースよりも「温かい味」だった。
今、目の前にあるのは、特権階級にしか許されないはずの貴重な青菜。
けれど、それを食べる私たちの身体は、14年前の私と何も変わらない。
空腹を感じ、温もりを求め、そして、明日への不安を抱えている。
「……リィナさん。ステファニーさんは、いつまでここにいられるんでしょうか」
私の問いに、リィナの手が僅かに止まった。
「……分からない。でも、彼女は言っていたわ。……この食卓で食べた粥の味を忘れない限り、自分は自分であれる、と。……例え、ルオ商会の歯車として、冷酷な決断を下さなければならない日が来ても」
鍋の中では、お米が柔らかくとろみを持っていた。
私は、リィナが刻んだ七草を、鮮やかな緑を損なわないように最後に入れる。
少量の塩。
それだけで、地球の土が育てた生命力が、白い粥の中に溶け込んでいく。
「……おはようございます」
ステファニーが、目をこすりながら現れた。
いつもの完璧な身なりではないけれど、その表情はどこか晴れやかだった。
「……素晴らしい香りね。……なんだか、宇宙から届く冷たいプレッシャーが、この匂いだけで消えていくみたい」
エルもドタドタと足音を立ててやってくる。
「おっ、できた? あたし、昨日の夜食のカップ麺で胃がもたれてたんだよね。助かるわー」
5人で、円卓を囲む。
湯気が立ち上る小鉢。
透き通るような白の中に、春の七草の鮮やかな緑が美しく映えている。
それは、宇宙世紀0092年という「嵐の前夜」において、私たちが手にした、最もささやかで、最も贅沢な武器だった。
「いただきます」
5人の声が、静かな朝の空気に溶ける。
一口、粥を啜る。
米の優しい甘みと、野草の僅かな苦味。
それが、お正月という浮かれた日々に麻痺していた身体を、優しく叩き起こしてくれる。
「……美味しい」
ステファニーが、噛み締めるように言った。
「……ルオ商会のデータベースには、栄養価としてのデータしかないけれど。……この『温かさ』と『安心感』は、どのアーカイブにも記録されていない。……ミリーさん、あなたが作る料理は、いつも私を現実に繋ぎ止めてくれるわ」
私は、自分の小鉢の中の、小さな葉を見つめた。
ミハル姉さん。
世界は相変わらず、力と力のぶつかり合いで動いています。
最新鋭のジェガンの配備数や、アナハイム・エレクトロニクスの株価や、スウィート・ウォーターに集まる人々の怒り。
そんな大きな数字の前で、この一杯の粥は何の役にも立たないかもしれない。
けれど。
今、この5人が「美味しい」と感じ、身体に熱を宿していること。
それだけが、この狂った時代の中で、私が信じられる唯一の真実だった。
「……ねえ、リィナ。……今年、私たちはどうなるのかな」
キッカが、空になった小鉢を見つめて言った。
リィナは、静かに窓の外を見据えた。
「……何が起きても。……私たちは、明日もご飯を食べる。……そうでしょ、ミリー?」
「はい。……何があっても、お腹は空きますから」
私は微笑んで、空になった5人の器を回収した。
地球の伝統文化。
失われた季節の記憶。
それは、ステファニーにとっての「根」となり、私たちを繋ぐ確かな地層となっていく。
宇宙世紀0092年。
平和という名の薄氷の上で、私たちは確かに、地球の春を味わっていた。