機動戦士ガンダム 逆シャア前夜の子供食堂 ――キッカの家―― 〜宇宙世紀0092-0093、サイド1・ロンデニオン外縁区〜 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
宇宙世紀0093年二月下旬。
街は表向きにはまだ平静を装っていたが、裏では物流も治安も確実に歪み始めていた。検問所の若い兵士たちは妙に殺気立ち、港の積み荷検査は軍需を優先し、民間への配給はさらに遅れる。
年明けから二月下旬までの間に、彼女たちはいくつもの避難先を失い、いくつかの新しい協力者を得た。古本屋の老人は一度尋問を受け、パン屋の夫婦は店を閉める日を増やし、修理工場主は部品の発注を装って子供用の毛布を運んだ。誰も英雄ではない。けれど、誰もが少しずつ危険を引き受けていた。
そんな中でも、キッカは言い切った。
「バレンタインやるよ」
「この状況で?」とリィナ。
「この状況だから」
ステファニーが深く頷く。
「同意ですわ。甘味は士気に直結しますもの」
「その言い方だと軍需物資みたいだな」とエル。
実際、その通りだった。
甘いものは貴重で、心を保つ力がある。だから今回は、“ありがとう”のためだけではなく、情報の運搬にも使うことになった。
チョコレートの中に、極小の耐水紙を封入する。
溶けにくいよう配合を調整し、受け取る協力者ごとに形を変える。丸は安全、四角は要注意、ハート型は緊急避難先変更。
「とんでもないバレンタインだね」
キッカが笑う。
「でも、ちょっと好き」
ミリーは黙々と湯煎を続けた。
チョコの艶を壊さず、薄く型に流し込む。中へ小さな紙を忍ばせ、さらに上から流して封じる。
紙片には地名をそのまま書かない。色と形、菓子の数、包み紙の折り方で意味を分ける。もし途中で奪われても、ただの贈り物に見えるように。ミリーは料理をしているはずなのに、いつの間にか暗号を作っていた。戦争前夜の台所は、作戦室でもあった。
その作業の合間、ステファニーがぽつりと漏らす。
「香港行きは、三日後ですわ」
場が静まる。
「ついにか」とエル。
「ええ。今度こそ、本決まりですの」
キッカが明るく振る舞おうとして、少しだけ失敗した笑みを浮かべる。
「じゃあ最後の令嬢バレンタインだ」
「最後かどうかは分かりませんわ。わたくし、しぶといので」
チョコが固まるまでの時間、皆は無駄口を叩きながらも、どこか別れの気配を意識していた。
完成したチョコは、見た目には素朴だった。
しかし受け取った協力者たちは、その“甘い謀略”を理解していた。
同時に、子供たちにも小さな欠片が配られた。彼らにとってはただのご褒美だ。
小さな男の子が、欠片を半分だけ残してポケットに入れようとした。明日の分だという。ミリーは何も言わず、もうひと欠片を包んで渡した。今日食べるものと、明日まで持っていたいもの。その両方が必要なのだと、彼女はこの家で何度も学んでいる。
「おいしい」
そう言って笑う子供の頬を見て、ミリーは思う。
この笑顔を守るためなら、どれだけ裏で手を汚してもいい、と。
その夜、キッカは配布先の名前と証言を別の手帳に書き写した。誰が、いつ、どこで、何を見たのか。感情ではなく事実を残す書き方を、彼女は少しずつ覚え始めていた。
彼女はその手帳の表紙に、小さく「人を英雄にしすぎないこと」と書いた。まだ誰にも見せるつもりのない、自分だけの約束だった。
だが、その夜。
最後の配送に出た協力者のひとりが戻らなかった。
机の上に残された、食べかけのチョコ。
それが、次の危機の始まりだった。
キッカは食べかけのチョコを紙に包み、匂いが移らないよう手帳とは別にしまった。証拠品としてではなく、戻らないかもしれない人が最後に口にしたものとして。彼女はその違いを、もう感覚で理解していた。