機動戦士ガンダム0092 サウス・ナポリの「キッカの家」 ホワイトベースの少女とシャングリラの孤児たちが、放課後のキッチンで幸せを盛り付ける話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
2月、サウス・ナポリの学園都市は、奇妙な熱気に包まれていた。
街角の情報端末には、地球連邦政府が推奨する消費拡大キャンペーン「ショコラ・ウィーク」の華やかな広告が躍り、その合間に「スウィート・ウォーター周辺での臨検強化」という不穏なテロップが流れる。
このチグハグな日常こそが、宇宙世紀0092年の正体だ。
「……ミリーさん。お願い、私に力を貸して」
放課後。食文化研究部の拠点であるククルス・アパートの一室で、ステファニー・ルオが深刻な顔で私に詰め寄った。
ルオ商会の令嬢として、常に政財界の動向を冷静に分析している彼女が、これほどまでに余裕を失っている姿を見るのは珍しい。
「ステファニーさん、落ち着いてください。……チョコなら、フード・コンポジターに最高級の設定を入力すれば、ルオ商会の息がかかった工場からいくらでも……」
「ダメなのよ! それじゃ意味がないの。……リィナには、リィナにだけは、データ上の最適解ではない『何か』を届けたいのよ」
ステファニーの瞳は真剣だった。
彼女の視線の先には、いつも凛として、それでいてどこか遠くを見つめているリィナ・アーシタがいる。
ステファニーにとって、リィナは単なる友人以上の、自らの魂を現実に繋ぎ止めてくれる特別な存在なのだろう。
「……分かりました。やりましょう。アナログな、本当のチョコレート作りを」
私が頷くと、ステファニーはパッと表情を明るくした。
けれど、その背後で不敵な笑みを浮かべる影があった。
「おっ、面白そうなことやってんじゃん。あたしも混ぜてよ!」
エル・ビアンノだ。
彼女はシャングリラでのジャンク屋稼業で培った、野生の勘と大胆な行動力の塊。
彼女が「混ぜて」と言う時、キッチンは往々にして戦場と化す。
「エル……。これは繊細な作業なのよ。あなたの『火力で解決』するような雑なアプローチは不要よ」
「硬いこと言いなさんなって、ステファニー。チョコだって結局はテンパリング……つまりは温度管理でしょ? そんなのモビルスーツの冷却制御に比べりゃ、朝飯前だって!」
こうして、私たちの「バレンタイン謀略戦」は幕を開けた。
まずは食材の調達。
ステファニーが用意したのは、ルオ商会の秘密ルートで確保された、赤道直下のバイオ農園産カカオ豆。
通常、私たちが口にするのは、宇宙産の合成油脂に香料を混ぜた「チョコ風ブロック」だが、目の前にあるのは、野性味溢れる香りを放つ本物の果実だ。
「……これを、まずは焙煎します。古い電磁加熱器を、140℃に設定して」
私はアナログな加熱器を操作し、豆を煎り始めた。
キッチンに、次第に重厚で、どこか焦げたような甘い香りが満ちていく。
それは、フード・コンポジターのクリーンな空気の中では決して味わえない、生命の焼ける匂いだ。
「さあ、次は皮剥き。そして……すり潰しです」
「えっ、手動なの!? 全自動のミルを使えばいいじゃない」
「ダメです、ステファニーさん。手で潰すことで、脂の溶け出し方や香りの変化を肌で感じるんです。ミハル姉さんも言っていました。……道具を信じるのはいいけれど、最後に頼れるのは自分の手の感覚だって」
私たちは石臼に近い形状の古い調理器具を使い、豆を執拗にすり潰していく。
最初はボソボソとしていた豆が、摩擦熱と脂質の分離によって、徐々にトロリとした漆黒の液体へと姿を変えていく。
「ふー、これ、結構くるね……。腕の筋肉がパンパンだよ」
エルが額の汗を拭いながら、力任せに棒を振り回す。
「エル、回しすぎよ! 熱が上がりすぎたら香りが飛んじゃうでしょ!」
「るっさいなあ。火力がなきゃ始まらないんだよ、料理は!」
ステファニーとエルの言い合いを聞きながら、私は静かに砂糖を投入する。
それも、宇宙産のスウィート・パウダーではなく、地球のキビから抽出された、少し茶色い粗糖だ。
カカオの苦味と、粗糖の力強い甘みが混ざり合い、複雑なハーモニーを奏で始める。
「……これが、本物のチョコの素」
ステファニーが、指先に付いた液を舐めて、目を見開いた。
「……苦い。でも、その後から来る熱量が、凄いわ」
ここからが最大の難所、テンパリングだ。
溶かしたチョコの温度を、一度下げてから、再び絶妙な温度まで上げる。
カカオバターの結晶を安定させ、口どけと艶を生むための精密作業。
「1℃の狂いも許されません。……電磁調理器の出力を絞って。……今です、エルさん! 冷やして!」
「了解! 急速冷却、入ります!」
エルが氷水の入ったボウルにチョコの鍋を叩きつける。
「ストップ! 冷やしすぎ! 再加熱して!」
「わ、分かったってば! リニア制御並みに難しいな、これ!」
キッチンの緊張感は、かつてのホワイトベースがミノフスキー粒子の中で敵影を追っていた時と同じくらい張り詰めていた。
ステファニーは息を呑み、温度計の数値を食い入るように見つめている。
彼女の手にあるのは、リィナへの想いという名の、高純度のエネルギーだ。
ようやく完成したチョコを、私たちはハート型……ではなく、あえて武骨なブロック型の型に流し込んだ。
ステファニーの希望だ。
「リィナには、着飾ったものよりも、本質的な強さがあるものが似合うから」
冷蔵ユニットで固める間、部長のキッカがふらりと入ってきた。
彼女の鼻は、美味しいものの気配を察知するレーダーとして機能している。
「……なんだか、すごい匂い。……14年前、フラウお母さんが時々、配給の貴重なチョコを分けてくれた時のことを思い出しちゃった」
キッカが目を細めて笑う。
「……あの頃は、甘いものがあるだけで、明日も爆弾が降ってこない気がしたんだよね」
キッカの言葉に、キッチンの騒がしさが一瞬、鎮まった。
宇宙世紀。
私たちが生きるこの時代において、食は単なる栄養補給ではない。
いつ壊れるか分からない日常を、繋ぎ止めるための祈りそのものだ。
「……できたわ」
ステファニーが、慎重に型からチョコを取り出した。
表面には美しい艶があり、光を当てると深い琥珀色に輝いている。
見た目は素朴だが、そこには三人の少女の汗と、精密な温度管理と、そして言葉にできない熱量が込められていた。
その夜。
帰宅したリィナに、ステファニーは震える手でそのチョコを差し出した。
エルのちゃかしも、私の見守りも、その瞬間だけは背景へと退いた。
リィナは少し驚いた顔をした後、静かにその一欠片を口に含んだ。
「……リィナ。……どう、かしら」
ステファニーの問いに、リィナはゆっくりと目を閉じた。
「……強い味。……ステファニー、あなたがどれだけこの『平和』を真剣に、そして必死に守ろうとしているか、伝わってきたわ」
リィナの瞳には、かつてシャングリラの暗闇で見たものとは違う、温かな光が宿っていた。
彼女たちの感覚――ニュータイプとしての残照かもしれない何かが、チョコの甘みを通じて、互いの魂を僅かに触れ合わせた。
「……良かった。……本当に、良かった」
ステファニーが、崩れ落ちるように椅子に座った。
その横で、エルが「あたしたちの取り分は!?」と叫び、私は苦笑しながら、ボウルに残ったチョコをパンに塗って彼女に渡した。
宇宙世紀0092年。
外では新しい戦争の足音が、刻一刻と大きくなっている。
けれど、このキッチンに漂う、少し苦くて、どうしようもなく甘い香りは、今だけは私たちを最強の盾で守ってくれているような気がした。
「日々は過ぎれど、飯うまし」
キッカが呟いたその言葉に、私たちは全員で頷いた。
明日のニュースが何を伝えようとも、私たちはこの味を糧に、再び立ち上がることができる。