機動戦士ガンダム0092 サウス・ナポリの「キッカの家」 ホワイトベースの少女とシャングリラの孤児たちが、放課後のキッチンで幸せを盛り付ける話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
三月の朝の光は、あまりにも透き通っていて、これから世界が泥沼の底へ沈んでいくなんて、とても信じられないくらいだった。
ククルス・アパートのキッチンに立つ私の指先は、少しだけ冷えている。
窓の外、サウス・ナポリの街並みはいつも通り、平和を演じる舞台装置のように整然としていた。けれど、キッチンの隅に置かれた小型の情報端末からは、その平和を内側から食い破るような不穏なノイズが漏れ出している。
「……ニュース、また更新されたわ。スウィート・ウォーターで大規模な集会。シャア・アズナブルが……あいつが、表舞台に出てきた」
背後で、エルが絞り出すような声で言った。
彼女の拳は、テーブルの上で白くなるほど握りしめられている。
シャングリラのジャンク屋から、命がけでネオ・ジオンの残党と戦い、ようやく手に入れた地球での平穏。それが今、かつてない規模の嵐に飲み込まれようとしている。
「ミリー、手を止めないで。……私たちは、私たちの戦い方をしなきゃ」
リィナが、エルの肩にそっと手を置いてから、私に言った。
彼女の瞳は、悲しみを湛えながらも、驚くほど冷静だ。
リィナとエルは、今日のシャトルで宇宙へ上がる。連邦政府とネオ・ジオンの緊張が極限に達する中、これが安全に民間人が移動できる最後のチャンスかもしれない。
「……分かっています、リィナさん。最高に『普通』の、朝ごはんを作ります」
私は、深く息を吸い込んだ。
今日、この五人で囲む最後の食卓。
華やかなご馳走なんていらない。
ルオ商会から届いた高級食材も、今日は使わない。
私が選んだのは、市場の片隅で手に入れた、どこにでもある食材たち。
まずは、炊飯器ではなく、あえて旧式のアナログな土鍋で米を炊く。
宇宙世紀において、本物の米を火で炊くのは、手間もコストもかかる贅沢だ。けれど、沸騰した瞬間に立ち上る、あの懐かしくて甘い蒸気の匂い。
一年戦争の時、ホワイトベースの片隅で、私たちが人間であることを繋ぎ止めていた、あの命の匂いが必要だった。
「……キッカさん、大根を切ってもらえますか? お味噌汁にします」
「うん。……任せて、ミリー」
部長であるキッカが、包丁を握る。
彼女の動作には、フラウお母さんから受け継いだ、家庭を守る者の迷いのなさが宿っていた。
トントントン、と規則正しい音が響く。
それは、これから始まる砲火の音を、あらかじめ拒絶するような静かなリズムだった。
私は、焼き網の上に、塩を振っただけの鯵の開きを並べた。
電磁調理器の熱ではなく、遠赤外線の熱源で、じっくりと皮目を焼いていく。
じゅわっ、と脂が落ちて、香ばしい煙が上がる。
合成タンパク質の「フィッシュ・ブロック」では決して出せない、生命を喰らうことの重みと悦び。
「……ステファニーさん、納豆を混ぜておいてください。百回、いえ、二百回くらい」
「ええ。……摩擦によるタンパク質の変容ね。私に任せて」
ステファニーが、ルオ商会の令嬢とは思えないほど真剣な顔で、小鉢をかき混ぜる。
彼女にとっても、この一年間は「データではない世界」を知る旅だった。
不揃いな野菜、焦げた魚の匂い、そして、いつ壊れるか分からない関係。
彼女は、それらすべてを「愛しい」と感じられるようになっていた。
テーブルに並べられたのは、炊きたての白米。
大根とわかめのお味噌汁。
こんがりと焼けた鯵。
そして、ステファニーが丹念に練り上げた納豆。
「……できた。……私たちの、最後のご飯」
私が呟いた瞬間、テレビの画面が緊急放送に切り替わった。
ノイズの向こう側に、一人の男の姿が浮かび上がる。
赤い軍服。金髪。そして、全人類を震撼させる、あの呪縛のような声。
『地球に住む人々は、自分たちだけがこの惑星を支配していると思い込んでいる。……私は、地球の重力に魂を縛られた人々を、粛正するために立ち上がった!』
シャア・アズナブル。
かつて一年戦争で世界を焼き、グリプスで共に戦い、そして今、再びアクシズを落とそうとしている男。
彼の宣戦布告は、サウス・ナポリの穏やかな空気を一瞬で凍りつかせた。
「……何を、今さら」
リィナが、画面を消した。
静寂が戻ったキッチンで、彼女は自分の席についた。
「シャア・アズナブルが何を言おうと、私たちの空腹は満たされないわ。……さあ、食べましょう。ミリーが心を込めて作ってくれた、このご飯を」
「……いただきます」
五人の声が重なる。
私は、お味噌汁を一口啜った。
大根の甘みが、出汁の旨味と共に身体の隅々に染み渡る。
鯵の身を解し、白いご飯の上にのせて、口に運ぶ。
噛み締めるたびに、命の感覚が蘇る。
「……美味しいね。……本当に、美味しい」
キッカが、ボロボロと涙をこぼしながら言った。
「……ミハルが言ってた。……死ぬ気で戦うのも、生きるために食べるのも、同じことだって。……私たちは、この味を覚えていれば、どこにいたって戦えるよ」
エルも、納豆を豪快にかき込みながら、真っ赤な目で笑った。
「そうだよ。シャアだか何だか知らないけど、あいつ、こんな美味いもん食ったことないんじゃないの? だったら負ける気がしないね!」
ステファニーは、黙って鯵の骨を避けていた。
その仕草の美しさが、彼女の覚悟を物語っていた。
「……リィナ。宇宙へ行っても、あなたはあなたでいて。ルオ商会の目は、常にあなたを追っているわ。……何かあったら、すぐに連絡して。……本物の食材を、いつでも送らせるから」
「ええ。ありがとう、ステファニー」
最後の朝ごはんは、淡々と、けれど劇的なまでの「日常」として過ぎていった。
私たちは、一言も「さよなら」とは言わなかった。
ただ、器を空にすることで、互いの無事を祈り、明日への活力を分かち合った。
食後。
荷物をまとめたリィナとエルが、部室のドアに手をかけた。
「ミリー。……あなたに会えて、本当によかった」
リィナが、私を強く抱きしめた。
彼女の体温は、先ほど食べたご飯のように温かかった。
「……その包丁を、決して手放さないで。……世界がどれだけ暗くなっても、火を灯し続けて。……それが、あなたの戦場だから」
「……はい。……いってらっしゃい、リィナさん。エルさん」
二人の背中が、光の中に消えていく。
サウス・ナポリの空には、連邦軍の巡洋艦が不穏な影を落とし始めていた。
学園都市の「偽りの平和」は終わり、真の冬が始まろうとしている。
キッカとステファニー、そして私の三人が残された部室で、私はシンクに向かった。
汚れた器を、一つ一つ洗っていく。
アナログな洗剤の泡が、指先を包み込む。
宣戦布告まで、あと一年。
アクシズが落ちるその日まで、私たちはここで、火を熾し続ける。
たとえ、世界がどれほど残酷な結末を迎えようとも。
今日のご飯が美味しかった。
その記憶だけが、明日も私を、台所へと向かわせるのだ。