機動戦士ガンダム 逆シャア前夜の子供食堂 ――キッカの家―― 〜宇宙世紀0092-0093、サイド1・ロンデニオン外縁区〜 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
宇宙世紀0093年2月27日。
この日から、第二次ネオ・ジオン抗争は日付を持つ現実になった。
ついに、その朝は来た。
リィナとエル、そして優先移送の子供たち数人を乗せる便が、昼前に発つ。
保税倉庫の空気は静かだった。慌ただしいはずなのに、皆、声を抑えている。大きな音を立てたら、この朝が壊れてしまうようで。
ミリーはいつもの朝食を作った。
今日は静かすぎた。
誰も、急かさなかった。
鯵の開き。
味噌汁。
少しの漬物。
納豆。
豪華ではない。けれど、これ以上ないほど“普通”の朝ごはんだった。
ミリーは一尾ずつ骨を外し、小さい子には身をほぐしてから渡した。味噌汁の具は少ないが、出汁は濃く取ってある。納豆を怖がる子には、少しだけ醤油を足して混ぜ方を見せた。出発の朝だからこそ、特別すぎるものではなく、また帰ってこられると思える味にしたかった。
「最後のごはんがこれって、逆に贅沢かもね」
キッカが微笑む。
「最後じゃありません」とミリーは即座に言う。
「うん。そうだね」
皆が席に着き、静かに箸を持つ。
子供たちは事情を完全には理解していない。ただ、今日は少し特別な日だという空気だけを感じ取っている。
そのとき、倉庫の古いテレビがノイズを吐いた。
画面の字幕には、宇宙世紀0093年2月27日と出ていた。生中継先はスウィートウォーター、番組の中で語るのはシャア・アズナブルだった。
赤い総帥服。
難民コロニーの演壇。
聞き覚えのある声。
それは、地球連邦政府に対する事実上の宣戦布告だった。
演説の言葉そのものよりも、画面の周囲に映る人々の顔がミリーには怖かった。怒り、期待、疲労、信仰にも似た熱。腹を空かせた人間が、誰かの大きな言葉にすがる時の顔を、彼女は知っている。キッカも同じものを見ていたのか、拳を膝の上で固く握っていた。
部屋の温度が、一気に下がった気がした。
誰も箸を動かせない。
子供たちだけが、不安そうに大人の顔を見る。
「始まった……」
キッカが呟く。
リィナは目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
「ええ。もう“前夜”じゃない」
テレビの音を、ミリーは途中で消した。
静寂が戻る。
「食べましょう」
皆が彼女を見る。
「今、食べないと、次にいつ食べられるか分からない。だから、今は食べましょう」
その言葉で、止まっていた時間が少しだけ動いた。
味噌汁を啜る。鯵をほぐす。ご飯を噛む。
日常は、劇的な崩壊と同時には消えない。最後までしぶとく残る。だからこそ守る価値がある。
箸の音が戻るまで、少し時間がかかった。けれど一人が味噌汁を啜ると、次の一人がご飯を口に運び、やがて小さな咀嚼音が部屋へ戻った。戦争の始まりを告げる声より、目の前の朝ごはんを選ぶ。その小さな選択が、ミリーには抵抗に見えた。
食後、リィナはミリーに小さな手帳を渡した。
避難先、協力者、連絡符号。全部が詰まっている。
「火を灯し続けて」
彼女は静かに言った。
「あなたならできる」
エルはミリーの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「次に会うとき、もっとすごい飯作ってよ」
「はい」
「あと泣くな」
「泣いてません」
もう泣いていた。
ステファニーは出発直前、キッカにだけ聞こえる声で言った。
「香港から、まだやれることをやりますわ」
「うん。待ってる」
そしてシャトル便へ向かう車が、倉庫を離れていく。
見送ることしかできない時間は、いつだって残酷だ。
テレビの画面はまだ、赤い演説の余韻を引きずっていた。その映像の端に、同じ赤い腕章が映った。
赤い腕章は、ヴァルターの私兵がスウィートウォーター周辺の物流警備にも食い込んでいる可能性を示していた。偶然かもしれない。だが、偶然として片づけるには、彼女たちはもう多くを見すぎていた。
だが倉庫の中に残ったのは、それよりずっと強いものだった。
炊き立てのご飯の匂い。
人が生きる側へ踏みとどまろうとした朝の匂いだ。
キッカはその朝のことを、後で短く書いた。『宣戦布告の日。味噌汁の湯気。鯵の小骨を取るミリーの手。泣かなかった子供たち』。歴史が大きな名前で呼ばれるほど、その端にいた人間の朝は消えやすい。だから書くのだと、彼女はもう決めていた。