機動戦士ガンダム0092 サウス・ナポリの「キッカの家」 ホワイトベースの少女とシャングリラの孤児たちが、放課後のキッチンで幸せを盛り付ける話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
リィナさんとエルさんが宇宙へ発ってから、一週間が過ぎた。
サウス・ナポリの駅へと続く坂道には、春の訪れを告げる柔らかな風が吹き抜けている。けれど、街のあちこちに設置された大型モニターが映し出すのは、スウィート・ウォーター周辺に集結するネオ・ジオン艦隊の威容と、それに対峙する地球連邦軍の軍備増強を伝える冷たいニュースばかりだ。
「……本当、騒がしい世界だね」
ククルス・アパートの部室。
窓の外を眺めながら、キッカさんが小さく息を吐いた。
彼女の視線の先には、青い空を突き抜けて宇宙へと伸びる軌道エレベーターの残光がある。あの光の向こう側に、今、リィナさんたちがいる。
「世界がどれだけ騒いでも、お腹は空きます。……それが、私たちが生きている証拠ですから」
私は、使い込まれた包丁を研ぎ終え、タオルで丁寧に水気を拭き取った。
一年前、キッカさんに強引にスカウトされた時、この部屋はただの埃っぽい廃屋だった。けれど今は違う。壁には五人で囲んだ食卓の写真が飾られ、棚にはステファニーさんが持ち込んだ高級な調味料と、私が市場で見つけてきた見切り品の乾物が、当たり前のように隣り合って並んでいる。
「そうだね、ミリー。……さあ、始めようか。最後の、部活動を」
キッカさんが振り返る。その瞳には、かつてホワイトベースの子供として戦火を見つめていた時の陰りはなく、今を生きる一人の女性としての強い光が宿っていた。
今日のメニューは、私たちの原点だ。
おにぎり。そして、具沢山の味噌汁。
私は、土鍋で炊き上がったばかりの白米を、大きな飯台に移した。
立ち上る白く甘い湯気が、視界を優しく遮る。
宇宙世紀において、この匂いは何よりも贅沢な、そして切実な生命の匂いだ。
「キッカさん、塩をお願いします」
「了解。……この塩、ベルファストの岩塩に近い成分なんだって。ステファニーが、ルオ商会のラボに特注させたらしいよ。あの子ったら、最後までやりすぎだよね」
キッカさんが笑いながら、雪のような白い粒を差し出した。
かつてミハル姉さんが、震える手で弟たちのために握っていたおにぎり。
ベルファストの寒空の下、生き延びるために口にした、あの塩の味。
私は今、その記憶を「悲しい過去」としてではなく、「今日を生きる力」として、温かいご飯の中に閉じ込めていく。
「……熱っ、ふふ、やっぱり炊きたては手強いですね」
私は掌に少しの水と塩をつけ、熱いご飯を包み込んだ。
力を入れすぎず、けれど形が崩れないように、優しく、三つの角を作っていく。
指先から伝わる熱量は、そのまま私の鼓動と同期するようだった。
その時、部室のドアが控えめにノックされた。
「……入ってもいいかしら。最後のご相伴にあずかりたいのだけれど」
現れたのは、ステファニーさんだった。
彼女は数日後、香港のルオ商会本部へと戻ることが決まっている。
手に持っているのは、彼女の家のプライベート・ファームで今朝収穫されたという、瑞々しいキュウリの浅漬けだった。
「ステファニーさん! ちょうどいいところに。おにぎり、もうすぐ握り上がります」
「……ありがとう、ミリー。……正直に言うと、私、宇宙に出るのが少し怖いの。ルオ商会の令嬢として、時代の奔流を見届けなければならない。……でも、この部屋の匂いを思い出すと、不思議と足がすくまなくなるのよ」
ステファニーさんは、いつもの冷徹な分析官のような口調ではなく、等身大の二十歳の少女として、寂しげに微笑んだ。
彼女は知ったのだ。
フード・コンポジターが弾き出す最適解よりも、誰かが自分のために熱い思いで握ったおにぎりの方が、遥かに心を強くすることを。
テーブルの上に、三角形のおにぎりが並ぶ。
キッカさんが作った、大根と揚げの味噌汁から、香ばしい出汁の香りが広がる。
「……リィナたちにも、食べさせたかったね」
キッカさんが、二人の座っていた空席を見つめて呟いた。
サイド1へ向かった彼女たち。
兄ジュドーを思い、シャングリラの仲間たちのために戦い続ける彼女たち。
今頃、艦内の保存食を口にしながら、この地上の匂いを思い出しているだろうか。
「……きっと、届いています。私たちは、同じ釜の飯を食った仲ですから。宇宙と地上に分かれても、この温かさは消えません」
私は確信を持って言った。
宇宙世紀。
人々がニュータイプという可能性に期待し、あるいは絶望し、戦火を広げ続ける時代。
けれど、私たちを繋いでいるのは、そんな高尚な理念ではない。
「今日のご飯が美味しい」という、泥臭くて、けれど何よりも尊い共感だ。
三人で、最後の一杯を囲む。
おにぎりを一口齧ると、米の一粒一粒が解け、塩気が甘みを引き立てる。
それは、十四年前にベルファストで感じた「生きていくための味」そのものだった。
「……美味しい」
ステファニーさんが、小さく零した。
「……ミリー、約束して。……もし、いつか本当にアクシズが落ちて、地上の緑が失われるような日が来ても。……あなたは、どこかでこの火を絶やさないで」
「……はい。……約束します」
私は、力強く頷いた。
窓の外では、ニュースキャスターの声が「新生ネオ・ジオン、総帥シャア・アズナブルの演説まであと数時間」と叫んでいる。
世界は加速していく。
破滅に向かって、あるいは新しい悲劇に向かって。
けれど、私たちの日常は、ここにある。
食卓を片付け、布巾を絞り、また明日の食材を考える。
それが、戦火を潜り抜けてきた私たちが選んだ、最も静かで、最も強靭な抵抗の形だ。
数時間後。
ステファニーさんを見送り、静かになった部室。
キッカさんと私は、新しい掲示板の準備をしていた。
三月が終わり、また新しい四月が来る。
リィナさんたちが去った穴を埋めるためではなく、この食卓を絶やさないために。
「ミリー。……これ、どうかな?」
キッカさんが差し出したのは、新しい部員募集のビラだった。
そこには、五人で餃子を包み、大笑いしながら食事をしている、あの日の写真が貼られていた。
そして、その下には、キッカさんの手書きで、一年前と同じ言葉が並んでいる。
食文化研究部、部員募集。
「温かいご飯を食べたい人、集まれ」
それだけの、あまりにも簡素な言葉。
けれど、宇宙世紀0092年という「嵐の前夜」において、これほど切実に響く言葉は他にないだろう。
「……最高です、部長」
私は、ビラを掲示板の真ん中にピンで留めた。
窓の外、サウス・ナポリの夕焼けが、かつて見たベルファストの空と同じ色に染まっていく。
シャア・アズナブルが宣戦布告をするまで、あと一年。
アクシズが地表を掠める、その瞬間まで。
私たちの笑い声と、味噌汁の匂いは、決して絶えることはない。
なぜなら、私たちは知っているからだ。
明日を戦うための勇気は、鋼鉄の機体の中にあるのではなく、今、目の前にある一杯の温かな食事の中にこそ宿っているのだということを。
「……さて、ミリー。……明日の朝ごはんは、何にする?」
キッカさんの問いかけに、私はエプロンを締め直して、最高の笑顔で答えた。
「そうですね。……とびきり美味しい、お味噌汁を作りましょう」
日々は過ぎれど。
私たちの食卓は、ここにある。