機動戦士ガンダム 逆シャア前夜の子供食堂 ――キッカの家―― 〜宇宙世紀0092-0093、サイド1・ロンデニオン外縁区〜 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
宇宙世紀0093年3月3日。
シャアの宣戦布告から数日。新生ネオ・ジオン艦隊が地球衛星軌道上の小惑星5thルナを占拠し、チベットのラサへ落下させたという報がロンデニオン外縁区にも届いた。
ロンデニオン外縁区は明らかに変わっていた。
検問はさらに増え、港の空気は張りつめ、大学からは何人もの学生が姿を消した。志願した者、逃げた者、巻き込まれた者。理由はそれぞれでも、誰もが時代の速度に置き去りにされつつあった。
それでも朝は来る。
ミリーは旧実習棟へ戻っていた。
ラサ消滅の断片的な報道と避難民の噂は、配給所の列を凍らせた。だがミリーたちにとって最優先の戦場は、今日の鍋と明日の寝床だった。
宇宙世紀0093年3月6日。ロンデニオンでは、地球連邦政府代表と新生ネオ・ジオンの和平交渉が極秘に行われているという噂が走った。ホテル・キャンベラの周辺では警備が増え、港湾区の検問も不自然に緩み、逆に未登録者の摘発だけが激しくなった。
その混乱の中、ヴァルター・クライスが旧実習棟へ現れた。彼は焦っていなかった。むしろ、戦争が正式な顔を得たことで、自分の論理が正当化されたとでも言いたげだった。
「私は子供を救っている」ヴァルターは言った。「登録し、選別し、労働に組み込む。戦時下では、管理されない命から死ぬ。君たちの食卓は優しいが、優しさは名簿を作らない。私は作る。番号を与え、用途を与え、生存率を上げる」
ミリーは鍋の火を弱めた。「番号では呼びません。名前で呼びます。用途ではなく、食べたいものを聞きます。それでも生き延びさせます」キッカはその言葉を、まるで証言を記録するように手帳へ書き留めた。
宇宙世紀0093年3月12日。ルナツー奇襲、アクシズ奪取、そして地球への落下作戦の情報が錯綜し、ロンデニオンの空気は完全に戦時へ変わった。ラジオは断片的な軍報を吐き、港では避難便と軍需便が衝突するように発着していた。
その日、キッカは最後の聞き取りをした。名前、年齢、どこから来たか、誰を待っているか、何を食べると安心するか。後に彼女が誰かの実像を追う取材者になるなら、その最初の訓練はこの食卓で始まっていた。
古いキッチンは、荒らされた形跡こそあれど、完全には壊れていなかった。
磨けば使える。コンロも、流しも、オーブンも。
「しぶといねえ」
キッカが笑いながら窓を開ける。
「私たちみたいですね」
「それ、いい意味?」
「はい」
二人だけになった部室は、広かった。
リィナの帳面も、エルの大雑把な道具箱も、ステファニーの整いすぎたメモも、今はない。
その不在が、逆に彼女たちの存在を濃くしていた。
ミリーは米を炊いた。
キッカは海苔を切った。
具は塩鮭と梅干し。
最初の出会いに戻るみたいに、おにぎりを握る。
「覚えてる?」とキッカ。
「はい」
「最初に君がくれた塩むすび」
「キッカさんが勝手に食べたんです」
「語弊があるなあ」
二人で少し笑う。
その笑いが出るなら、まだ大丈夫だとミリーは思った。
昼過ぎ、部室の前に小さな影が立った。
見覚えのない、痩せた少年だった。警戒した目をしている。腹だけが正直に鳴る。
キッカがしゃがみこんで、いつものように訊く。
「温かいご飯、食べたい?」
少年はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
ミリーは、握りたてのおにぎりをひとつ差し出す。
少年は両手で受け取り、恐る恐る口をつけた。
そして目を見開く。
それを見て、ミリーは確信した。
まだ終わっていない。
むしろ、ここからなのだ。
キッカは新しい紙を掲示板に貼った。
太い字で、短く。
温かいご飯を食べたい人、集まれ。
温かいご飯を食べたい人、集まれ。
食文化研究部――通称『キッカの家』
風が吹き、紙の端が小さく揺れる。
窓の外、ロンデニオン外縁区の夕焼けは、どこかベルファストの空に似ていた。
港の向こうへ出る便のリストに、見覚えのある物流符号がひとつ増えていた。それはステファニーが残した最後の抜け道であり、子供たちの名前を番号に変えずに外へ出すための細い道だった。
ミリーは、それに気づかないままおにぎりを握っていた。キッカだけがその符号を書き写し、余白に短く記した。――誰かの生きた跡は、消える前に書き残す。
残酷で、美しくて、どうしようもなく明日へ続いていく色だ。
「ミリー」
「はい」
「明日、何作る?」
彼女は少し考えてから答える。
「まずは、お味噌汁。それから……その子が食べたいものを聞きます」
それは、昔の自分にしてほしかったことだった。
キッカは満足そうに笑った。
「うん。それがいい」
世界はたぶん、これからもっとひどくなる。
人は離れ、戦いは広がり、守れないものも出てくるだろう。
それでも。
腹を空かせた誰かに、温かいものを差し出す。
名前を呼び、座る場所を作り、明日も来いと言う。
その小さな行為だけは、戦争に明け渡さない。
ミリーは、新しいおにぎりを握った。
手のひらの熱が、米へ移る。
それは兵器ではない。
けれど確かに、誰かを今日一日、生き延びさせるだけの力を持っている。
ミリーは小さく呟いた。「名前を呼べる子は、まだ消えていない」キッカは何も言わず、ただ頷いた。
ヴァルターの管理は、たしかに何人かを生かしたのかもしれない。だが、それは誰かを子供ではなく資源として扱う生存だった。ミリーたちの食卓は、効率では負ける。けれど、名前を呼ばれた子供は、自分が荷物ではないことを知る。
だからキッカは書くことにした。英雄のためではなく、名簿の外にいた子供たちのために。いつかアムロ・レイという一人の人間を書く時も、同じように、誰かを記号にしないために。
食卓の火は、まだ消えていない。
そしてたぶん、それが彼女たちの勝ち方だった。