機動戦士ガンダム 逆シャア前夜の子供食堂 ――キッカの家―― 〜宇宙世紀0092-0093、サイド1・ロンデニオン外縁区〜 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
宇宙世紀0093年3月13日。
前日、小惑星アクシズは地球への落下寸前で軌道を止めた。ロンド・ベルの艦隊がアクシズ内部へ突入し、シャア・アズナブルとアムロ・レイの機体が消息を絶った直後のことだったと、後に人々は語ることになる。ラジオはただ、「アクシズは止まった。地球は落ちない」とだけ繰り返した。
その報せが保税倉庫に届いたとき、ミリー・ラトキエは鍋の火を落とさなかった。
「止まったって」
キッカが端末を握りしめたまま呟く。声が震えていた。窓の外では検問の兵士たちが顔を見合わせ、誰かが小さく笑い、それから泣いていた。戦争が終わる瞬間は、宣言ではなく、こういう曖昧などよめきの形でやってくるのだと、ミリーは初めて知った。
「終わったんでしょうか」
「たぶん、まだ。でも――今日は、生きてる」
その一言で十分だった。ミリーは雑炊の鍋をかき混ぜる。米も出汁も乏しかったが、乏しいものから満ちた食卓を作る術だけは、この半年で誰よりも覚えていた。
3日後、ヴァルター・クライスの登録名簿が摘発された。「秩序」と彼が呼んでいた台帳は、未登録の子供たちを労働力として売買する記録そのものだった。戦時特例が失効すると同時に、彼の後ろ盾も消えた。連行される直前、彼はミリーに向かって言った。「君の食卓は、いくつ守れた」。ミリーは答えなかった。数えられるものより、数えられないもののほうが多いと、もう知っていたからだ。子供を番号で呼んでいた男は、最後まで名前を持たない人間として連行されていった。
北区のコンテナで消息を絶っていたサラの兄トーマは、押収された名簿の中に、一行の記号として残っていた。だがその日のうちに、ステファニーが香港から回した最後の物流符号――子供たちを荷として外へ逃がすための抜け道――を辿って保護された一団の中に、トーマの姿があった。サラは駆け寄り、兄の名を何度も呼んだ。番号ではなく、名前で。ミリーはその背中を見ながら、正月に交わした約束を思い出していた。今度は待たせない。ベルファストで言えなかった言葉を、彼女はようやく守ることができた。
4月、リィナとエルが宇宙から戻ってきた。痩せてはいたが、五体満足だった。
「言ったでしょ、飯うまいから帰るって」
エルは倉庫に入るなり、鍋の匂いを吸い込んで笑った。リィナは何も言わず、生き延びた子供たちの名前をひとりずつ帳面で確かめた。増えた名前もあれば、消えたままの名前もあった。2月の夜に消えた協力者は、ついに戻らなかった。キッカは彼が最後に口にしかけたチョコの包みを、手帳の最後のページに貼った。英雄にはしない。ただ、そこにいたことだけは消さない。それが彼女の決めた弔い方だった。
「私、書く仕事をしようと思う」
ある夜、キッカがぽつりと言った。
「名簿から漏れた人を、番号じゃなく名前で残す仕事。......いつか、アムロ・レイっていう一人の人間のことも、そんなふうに書けたらいいな。英雄としてじゃなくて、ちゃんと、そこにいた人として」
ミリーは黙って頷いた。あのスイカ割りの日、ニュータイプかと笑われて曖昧に答えたキッカの横顔を思い出す。特別な力ではない。ただ、誰よりも人を見てきただけだ。音と匂いと、震える声の奥にあるものを拾い集めてきただけだ。
「じゃあ、私はこのまま台所です」
「うん。それがいい」
キッカは笑って、手帳を閉じた。表紙にはもう長いこと消えない字で、こう書いてある。人を英雄にしすぎないこと。彼女はこれから先も、その約束を守るつもりだった。
ステファニーからは短い通信が届いた。
「わたくし、しばらく香港ですけれど、いずれ戻りますわ。次はわたくしが鍋を振る番ですの」
誰もが笑った。ヴァルターが最後に口にした「秩序」という言葉の冷たさを、誰も忘れてはいなかった。けれど今、この部屋にあるのは番号ではなく、湯気と、名前を呼ぶ声だけだった。
その晩、旧実習棟のキッチンに、かつての全員と、新しい子供たちが集まった。米は相変わらず心もとなく、出汁も贅沢ではない。それでもミリーは、初めて出会った日と同じ塩むすびを握った。
「これ、『生きるための味』がする」
キッカが同じ台詞を繰り返し、今度は皆で笑った。
窓の外、掲示板の紙がまだ揺れている。
温かいご飯を食べたい人、集まれ。食文化研究部――通称『キッカの家』。
サラはトーマの隣に座り、椀を両手で包んで、久しぶりに声を上げて笑った。エルはリィナに具の少なさを叱られ、口を尖らせながらも二杯目をよそった。ステファニーのいない席には、彼女がいつも座っていた場所を空けたまま、誰も座らせなかった。いずれ戻る人の椅子だからだ。
戦争は終わっても、腹は減る。奪われた食卓も、消えた名前も、すべてが元通りになったわけではない。それでも今夜、この部屋には湯気があり、笑い声があり、名前を呼ぶ声があった。だから、この家の火だけは消さない。
名前を呼べる子は、まだ消えていない。ミリーはその言葉を、もう祈りではなく、約束として口にした。