機動戦士ガンダム 逆シャア前夜の子供食堂 ――キッカの家―― 〜宇宙世紀0092-0093、サイド1・ロンデニオン外縁区〜 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
宇宙世紀0093年3月12日、夜。
ロンデニオン外縁区の人工照明は落ち、非常灯の緑がかった明かりだけが旧実習棟のキッチンを照らしていた。ラジオは「ルナツー奇襲」「アクシズ奪取」「地球降下軌道」の断片を吐き続け、港では避難便と軍需便が衝突するように発着している。
キッカとミリー、そして数日前に来た痩せた少年だけが残っていた。リィナとエルは宇宙へ、ステファニーは香港へ。五人で埋めていた部屋は、不在の分だけ広い。
ミリーは、リィナから託された小さな手帳を開いていた。避難先、協力者、連絡符号――そして冒頭に、あの日書きつけた37人の名前。半年前、まだ「食文化研究部」という名すらなかった頃に、彼女が最初に帳面へ記した数だ。
「37人でした」ミリーは呟いた。「最初に名前を書いた子は」
「今は、もっと増えたね」キッカが海苔を切りながら言う。塩鮭と梅干し。最初の出会いに戻るみたいな、おにぎりの具。
増えた名前もある。消えたままの名前もある。2月の夜に消えた協力者――食べかけのチョコを机に残し、〝避難先変更・緊急〞の符号を握って出ていった男は、まだ戻らない。だがその夜、裏口が3度、短く叩かれた。合図だった。
修理工場の主人が、油に汚れた手で立っていた。握っているのは、海辺のバーベキューの日に焼け跡から拾ったのと同じ、耐熱繊維混じりの赤い腕章。
「あの協力者、生きてた」工場主は息を切らす。「北港の保冷倉庫に、番号で登録されて売られる寸前だった。うちで匿ってる。……最後まで、あの符号を握ってやがった」
キッカの手が、手帳の上で止まった。番号にされかけても、名前のある人間として、彼は戻ってきた。
「サラの兄さんは」ミリーが訊いた。冷蔵倉庫で輸送タグを付けられていた、あのトーマ。名前のない、番号だけの荷物にされかけた子。
「押収されそうな名簿の中に、一行だけ残ってる。番号と、行き先と、重さの区分だけ。だが――ステファニーの嬢ちゃんが香港から回した符号、あれを辿れば、外へ出す一団に混ぜられる。名前を、番号のまま消させずに済む」
ミリーは、正月の朝にサラと交わした約束を思い出した。――今度は、待たせない。ベルファストの雨の中で、幼い自分自身に言ってやれなかった言葉。それを、ようやく別の子供のために守れる。
「探します」ミリーは言った。「番号を、名前に戻します」
そのとき――
非常灯の緑とは違う、もっと澄んだ緑の光が、観測ポートの向こう、地球のある方角から滲むように広がった。音も、振動もない。ただ街の影を一瞬だけ塗り替えて、消えていく。
少年が口を開けて見上げる。ミリーは息を止めた。
だがキッカだけが、違った。彼女は流し台に手をつき、崩れるように膝をついた。苦しんでいるのでも、泣いているのでもない。あまりに大きな何かが、彼女の中を通り抜けていく顔だった。
「キッカさん!?」
「……いる」
キッカの声が震える。
「聞こえるんじゃない。いるの。すごくいっぱい、人が。敵も、味方もなくて、ただ〝落ちるな〞〝生きろ〞って」
スイカ割りの日。目隠しのまま棒を振り下ろして子供を笑わせた勘。
「ニュータイプかよ」と茶化されて「違うよ、音と匂い」と流した、あの一瞬。キッカはずっと、拾ってきたのだ。音を、匂いを、震える声の奥にあるものを。誇りもせず、力とも呼ばず。その彼女が今、地球圏じゅうの人間の願いを、いっぺんに受け取っていた。
「一年戦争の頃も、海は綺麗だった」
――いつか海辺で漏らした言葉が、ミリーの耳に蘇る。人がいっぱい死んでも、海は綺麗だった。あのとき語らなかったホワイトベースの記憶も、タムラさんの何が入っているか分からないシチューも、飢えた子供を二度と見たくないという願いも、全部このひとりの少女の中にあった。だから彼女は、こんなにも大勢の「生きろ」を受け取れる。
緑の光が消えると、ラジオがまるで別の声を出した。
――アクシズは、止まった。地球は、落ちない。繰り返します。アクシズは止まった。地球は、落ちない――
少年が「よかった……?」と呟く。ミリーは頷こうとして、うまくできなかった。案の定、ラジオは続けた。
――ロンド・ベルのモビルスーツ隊隊長アムロ・レイ大尉、および新生ネオ・ジオン総帥シャア・アズナブルは、いずれも消息不明――
キッカの手から、鉛筆が落ちた。
「……アムロさん」
ミリーは初めて、キッカがその名を、そんなふうに呼ぶのを聞いた。彼女にとってアムロ・レイは、伝説でも英雄でもなく、同じ艦で同じ配給を食べた、ひとりの人だった。
「英雄になっちゃうんだろうな」キッカは鉛筆を拾い、あの手帳を開いた。表紙には、2月から書きつけてある一行。――人を英雄にしすぎないこと。「名前が大きくなりすぎて、あの人自身が消えちゃう。番号で消される子と、逆向きに、同じことだ」
彼女は顔を上げた。目はもう濡れていない。記録する者の目だった。
「決めた。私、書く。名簿の外にいた子も、英雄にされて消える人も、ちゃんと〝そこにいた人〞として書く。いつか、アムロ・レイっていう一人の人間のことも」
ミリーは、握りたてのおにぎりを彼女の前に置いた。塩鮭と梅干し。半年前の塩むすびと、同じ「生きるための味」。
「なら、書けるように、まず食べてください」
その言葉は、ステファニーに、リィナに、エルに、そして名前も知らない大勢の子に言ってきたのと同じ言葉だった。腹が満ちなければ、人は正しく考えられない。この半年で、彼女がいちばん深く知ったことだ。
少年はおにぎりを2つ平らげて眠った。緑の光が何だったのか、彼は一生知らない。けれど、光った夜に温かいものを食べて眠った記憶だけは、戦争の年表より先に、彼自身のものになる。
キッカは手帳に書いた。『3月12日。緑の光=人の心。地球は落ちなかった。アムロさん消息不明。おにぎりひとつ。――名前を呼べる子は、まだ消えていない。37、そしてそれ以上』
「明日から、取り返しに行きます」ミリーは火を落とした。「名前を、ひとつずつ」
キッカは頷いて、笑った。
「うん。それが、私たちの勝ち方だ」