機動戦士ガンダム 美味しんぼ ロンド・ベルの究極、ネオ・ジオンの至高 逆襲のシャア前夜、ロンド・ベル寄港中の補給食堂 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
3日間の活動停止命令が下された翌朝、旧実習棟の空気は重く沈んでいた。
調理器具に火を灯すことも許されず、静まり返った室内には、昨日取り外した配管のわずかな金属臭と、冷めきった湿気だけが残っている。
「……静かすぎるわね」
エルが大きな作業台の上に突っ伏しながら、ぽつりと呟いた。
「昨日までは、水が出ないだの、パイプが詰まっただのであんなに大騒ぎしていたのに。静かになると、なんだか余計にお腹が空いてくるよ」
「無駄口を叩いている暇があるなら、この一覧表の抜けを埋めてください」
リィナは机いっぱいに書類を広げ、カリカリと激しい音を立ててペンを走らせていた。
彼女が作成しているのは、ブライト艦長から要求された「利用者の記録」と「食材ルートの証明書」の雛形だ。
「責任者名……まだ空欄のままですわね」
リィナのペン先が、一番上の項目でピタリと止まる。
「誰か大人の名前を借りるわけにはいかないの? 連邦軍の伝票を回してくれたチェーンさんとか……」
エルが提案するが、リィナは即座に首を横に振った。
「ダメです。チェーンさんはラー・カイラムの補給物資を管理する正規の軍人です。彼女を責任者に立てれば、この旧実習棟は完全に『軍の管轄施設』として組み込まれてしまいます。そうなれば、正規の身分証を持たない『照合不能』の子どもたちは、最初から立ち入り禁止になってしまう……それでは意味がないのです」
「軍の制度に組み込まれず、かといって不法占拠でもない……そんな都合のいい『責任者』なんて、この殺伐とした港にいると思う?」
「……いなくても、作らなければならないのです」
リィナの言葉には、意地と焦りが混ざり合っていた。
私は2人のやり取りを少し離れた場所で聞きながら、手帳のページを捲っていた。
『制度の用意した巨大な皿からこぼれ落ちてしまう子』。
昨日、ファさんが言った言葉が頭から離れない。
書類を完璧に整えること。それは大人たちのルールに屈することではなく、あの『照合不能』の子どもたちが、誰にも怯えずに温かいスープを飲める「避難場所」を護るための戦いなのだ。
……そんな風に格好いい理由をつけて自分を納得させようとしている自分が、やっぱりちょっとだけ鼻につくけれど。
その時、廊下から静かな足音が近づいてきた。
ブライトさんのような重厚な歩調ではない。もっと柔らかく、けれど足元が確固とした、聞き覚えのある足音。
ドアが開くと、そこに立っていたのはファさんだった。
私服の上から、汚れてもいい厚手の作業用エプロンをしっかりと結んでいる。
「ファさん……? 今日は調理停止命令が出ているんじゃ……」
私が尋ねると、ファさんは手に持っていた大きな麻袋を作業台の上にドサリと置いた。
「調理はしないわ。でも……『準備』を止める命令は出ていないでしょう?」
「準備……?」
エルが体を起こして麻袋の中を覗き込む。
中に入っていたのは、無数の傷がついた不揃いな根菜類——泥のついた大根や、芽が出かけたジャガイモ、そして固い乾燥豆の袋だった。
「市場の廃棄枠から引き取ってきたの。売り物にはならないけれど、腐ってはいないわ」
ファさんは静かに袖をまくり上げた。
「乾燥豆は、水につけて戻すのに丸1日かかる。泥のついた根菜は、時間をかけて皮を剥き、アクを抜かなければ使えない。火を使わなくても……ううん、火を使えない今だからこそ、時間をかけてできる手仕事があるはずよ」
ファさんはボウルに水を汲み(昨日のうちに外の共用給水栓から汲んできておいた貴重な水だ)、大きな包丁を取り出した。
「3日後に許可が出るかどうかも分からないのに……無駄になっちゃうかもしれないよ?」
エルが心配そうに尋ねる。
「……無駄になる? ふふ、エルちゃん、あなた何も分かっていないわね!」
ファさんの目が突如として鋭い光を放った。
「無駄になったら私たちが食べれば済むだけの話よ! ですがね、3日後に奇跡的に許可が下りたとして、その時になってから『さあ準備を始めます』なんてぬるいことを言っていたらどうなると思うの!?」
「え、えぇ……?」
迫力に押されてエルがたじろぐ。
「お腹を空かせた子どもたちを、さらに丸1日待たせることになるのよ! 本物の料理人というものはね、いついかなる時、どんな注文が入ろうとも即座に最高の料理を提供できるよう、常に包丁を研ぎ澄まし、仕込みを終えて待つものなの! たとえ店が開く保証がどこにもなかったとしても、それが食を預かる者の絶対的な誇りであり、義務なのよ!!」
その凄まじい気迫と、一切の妥協を許さない食の哲学。
昨日ブライトさんに「一蹴」されたことに対する怨嗟や惨めさなど微塵もない。ただ目の前の食材と、いつか訪れる「その瞬間」だけを凝視している。
……『本物の料理人は、火を消されても包丁を置かない』。
またしても、手帳に金文字で刻みたくなるような素晴らしい姿。
だから私は手帳を開かず、そっと自分のポケットから小さな果物ナイフを取り出した。文字で記録する代わりに、ファさんの隣に並んで、泥のついたジャガイモの芽を無言でくり抜き始めた。
「ちょっとキッカ! 包丁の刃の入れ方が甘いわ! 芽の根元をえぐるように角度をつけないと、毒素を含んだ部分が残ってしまうでしょう! それに削り過ぎよ、素材への敬意が足りないわ!」
ファさんから容赦のない指導が飛ぶ。
「……はは、キッカったら速攻で怒られてる。……ふぅ、書類仕事で行き詰まっていたところですわ。指先を動かして頭を冷やすのも悪くありませんね」
リィナが眼鏡を押し上げながら手を洗いに行く。
「よーし! エルちゃんの『野生の皮むき』を見せてあげるよ!」
「不吉な名前をつけないでちょうだい。怪我をしますわよ」
気がつけば、静まり返っていた旧実習棟に、トントンと規則正しい包丁の音が響き始めていた。
火もない。湯気もない。匂いすらない。
けれど……ここには確かに、明日を迎えるための「熱」が存在していた。
昼過ぎ、皮を剥き終えた大量の根菜が、水を入れた樽の中にきれいに並べられた。アクが抜け、真っ白く澄んだ水の中で出番を待っている。
「……綺麗ね」
私が呟くと、ファさんがタオルの端で手を拭きながら頷いた。
「ええ。土の中に埋もれていた時は泥だらけだったけれど、丁寧に洗って磨けば、こんなに澄んだ顔をするの」
その時、建物の外からガタゴトと重い車輪の音が聞こえてきた。
窓から覗くと、手押しのリヤカーを引いた人影が見える。
補給物資のチェックを終えたチェーン・アギさんだった。リヤカーの上には、昨日よりさらに厳重にロープで縛られた木箱が積まれている。
「作業中失礼するわ。……ブライト艦長からの通達は聞いたわ」
チェーンさんは部屋に入ると、整然と並べられた水漬けの根菜類に目を留め、かすかに目を細めた。
「停止命令が出ているのに、準備だけは怠らないのね。……さすがだわ」
「チェーンさん、そのリヤカーは?」
リィナが尋ねる。
チェーンさんは伝票を挟んだバインダーを差し出した。
「ラー・カイラムから出た『資材廃棄予定品』の運搬よ。旧実習棟の敷地内を経由して、港の集積場へ運ぶ手続きになっているの」
「廃棄品……?」
「ええ。木箱の緩衝材として使われていた籾殻と、船倉の乾燥に使われていた大型の炭よ。軍の規程上は『使用済み廃棄物』として処理されるけれど……状態としては極めて良好よ」
チェーンさんは淡々と語るけれど、その瞳の奥には微かな企みが浮かんでいた。
「……待って。それって、もしかして……」
エルが声を弾ませる。
「籾殻は保温材として鍋の周囲を覆うのに使えるわ。炭があれば、万が一ガスが止められても七輪で火を起こせる……」
ファさんが即座にその価値を見抜いた。
「私はただ、『廃棄物を正規のルートに従って処理場へ運んでいる最中』よ」
チェーンさんは時計に目をやった。
「……ただ、今日はこれから港の第3ドックで緊急の検収作業が入ってしまってね。このリヤカーを一時的にここに『仮置き』せざるを得なくなったわ。回収に来られるのは……そうね、3日後の夕方になるかしら」
「チェーンさん……!」
リィナが息をのむ。
数値と規程を何よりも重んじる彼女が、規程の「隙間」を突いて、私たちに完璧な燃料と資材を「放置」していこうとしているのだ。
「勘違いしないで」
チェーンさんはクールに言い放った。
「これは不法投棄ではなく『過密スケジュールに伴う一時的な資材の仮置き』よ。書類上もそう処理してあるわ。……ただし、3日後に回収に来た時、もしその『廃棄物』が綺麗に消費されて消えていたとしても、私は『運搬途中の飛散事故』として処理するだけよ」
そう言って、チェーンさんは小さく微笑んだ。
「……大人たちの醜い責任逃れの伝票ばかりじゃないってこと、覚えておきなさい」
チェーンさんはそう残すと、颯爽と去っていった。
残されたリヤカーと、積み上げられた炭と籾殻。
「……チェーンさんってば、格好良すぎるでしょ……!」
エルが感動したように胸を押さえる。
「……まったくですわ。規程の裏をかくなんて、一番タチの悪いやり方です」
リィナは口ではそう言いながらも、その手元の書類に『燃料調達ルート:軍需廃棄物の有効利用(仮置き対応)』と素早く書き加えた。
その夜。
月明かりが旧実習棟の窓から差し込み、水の中に沈んだ根菜たちを静かに照らしていた。
火の消えた調理場は冷え込むけれど、昨日のような重苦しい惨めさはもうなかった。
私たちは、止められている。
火を点けることも、給食を出すことも許されていない。
けれど、配管の汚れを落とし、根菜の皮を剥き、炭と籾殻を確保し、書類の空欄を1つずつ埋めている。
『食べたことは、許可を意味しない。
止められたことは、終わりを意味しない。』
昨夜、自分が手帳に書いた生意気な言葉が、暗闇の中で小さな意味を持ち始めていた。
ふと見ると、ファさんが旧実習棟の入り口のドアを、ほんの少しだけ……指1本分だけ隙間を空けて鍵をかけているのが見えた。
完全に締め切ってしまえば、夜風を防げるのに。
「……ファさん、ドア、閉め切らないんですか?」
私が尋ねると、ファさんは優しく微笑んで、首を振った。
「締め切ってしまうとね……外から見て『誰もいない場所』になっちゃうでしょう? 鍵がかかっていても、ほんの少し隙間が開いていれば……『ここは、まだ諦めていない場所だ』ってことが、通りかかった子に伝わるかもしれないから」
ファさんはそっとドアの枠を撫でた。
「火は消えていても、温もりの気配だけは……残しておいてあげたいの」
私は無言で頷いた。
窓の外、暗い廊下の向こう側に、一瞬だけ小さな人影が揺れた気がした。
爪先立ちで、足音を立てずに歩く独特のシルエット。
影はドアの前に立ち止まり、その指1本分の隙間から漏れ出る、洗いたての根菜と澄んだ水の匂いを……じっと確かめるように佇んでいた。
中には入ってこない。声をかけてもこない。
けれど……引き返していくその背中は、昨日よりもほんの少しだけ、足取りが軽くなっているように見えた。
私は手帳を開かなかった。
月に照らされた澄んだ水と、指1本分だけ開かれたドアの隙間。
その美しさを言葉にして閉じ込めてしまうのは、やっぱりまだ、早すぎる気がしたから。