機動戦士ガンダム0092 サウス・ナポリの「キッカの家」 ホワイトベースの少女とシャングリラの孤児たちが、放課後のキッチンで幸せを盛り付ける話 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
宇宙世紀の「豊かさ」という言葉には、常にどこか空虚な響きがつきまとっている。
地球連邦政府が喧伝する人類の進歩。その象徴ともいえるフード・コンポジターは、望む限りの栄養と、それらしい風味をボタン一つで提供してくれる。けれど、その無機質な機械から吐き出されるペースト状の「食事」を口にするたび、私は自分の味覚が少しずつ削り取られていくような、薄ら寒い感覚に陥る。
そんな私の不安を余計にかき乱す存在が、今日、私たちの拠点――ククルス・アパートに現れた。
「……ここが、その『食文化研究部』の部室ですの?」
扉の向こうから響いたのは、この薄汚れた旧世代の廊下にはあまりにも不釣り合いな、鈴を転がすような高貴な声だった。
現れたのは、ステファニー・ルオ。
ルオ商会という、政財界を影から操る巨大組織の令嬢。リィナの後輩だという彼女は、絹のような金髪を揺らし、一点の曇りもない白いドレスの裾を気にしながら、私たちの雑多なキッチンを見渡した。
「ステファニー、あまりジロジロ見ないの。失礼でしょう」
副部長のリィナが窘めるが、ステファニーは気圧される様子もなく、手にした小さな保冷ケースをテーブルに置いた。
「いいえ。私はただ、キッカ様やリィナ様を虜にするという『本物の料理』とやらを、確かめに来ただけですわ。……これ、お近づきの印ですの。お使いになって?」
彼女がケースから取り出したのは、重厚な装飾が施された一つの缶詰だった。
ラベルには、地球の特権階級しか口にできないという最高級フォアグラの文字。宇宙世紀において、本物の家畜から採取された臓器は、モビルスーツのパーツよりも高値で取引されることがあると聞く。
「うわ、これ本物? ルオ商会の力ってすごいのね」
エルが物珍しそうに缶を覗き込む。キッカも「すごい、豪華な部活になりそう!」とはしゃいでいるけれど、私はその缶詰を見つめたまま、足元が冷えていくのを感じていた。
こんなもの、どう扱えばいいの?
ベルファストの泥の中で、カビたパンを分け合っていた私に、地球の贅を凝縮したような食材を調理する資格なんてあるんだろうか。
「どうしましたの、ミリーさん。あなたの腕を見せてくださるのでしょう?」
ステファニーの視線が、私の赤らんだ指先に突き刺さる。それは、値踏みするような、けれどどこか孤独を孕んだ瞳だった。
私は、深く息を吸った。
ここで逃げたら、キッカたちが作ってくれたこの場所が、ただの「お遊び」になってしまう。
「……ステファニーさん。その缶詰は、今日はお返しします」
「……え?」
「今日の献立は、もう決まっていますから」
私は彼女の差し出したフォアグラには目もくれず、冷蔵庫の隅に追いやられていた、特売の卵のパックを取り出した。
一個数クレジット。賞味期限が迫り、殻には少し汚れがついているような、この街のゴミ捨て場に転がっていてもおかしくない代物。
「……卵? そんな安価なタンパク源で、私を満足させようとおっしゃるの?」
ステファニーの眉が不快げに跳ねる。
私は答えず、アナログな加熱器に火を入れた。
フライパンが熱を帯びる音を聞きながら、ボウルに卵を割り入れる。
高級な食材が美味しいのは当たり前だ。でも、私が姉さんから教わったのは、失われゆく端切れのような命を、どうやって明日への活力に変えるかという知恵だった。
ボウルの中で、菜箸がリズミカルな音を立てる。
白身と黄身が混ざり合い、一つの鮮やかな黄金色に染まっていく。私はそこに、わずかなマヨネーズ代わりの油脂と、キッカが育てているプランターのハーブをちぎって加えた。
フライパンに油を引き、一気に卵液を流し込む。
ジューッ、という激しい音とともに、卵が膨らみ、柔らかな香りが部屋いっぱいに広がった。
「なっ……」
ステファニーが、絶句したようにフライパンを凝視する。
彼女が知っている料理は、きっと完成された状態で銀の皿に乗って運ばれてくるもの。食材が、熱というエネルギーを得て「変貌」する瞬間の、この荒々しい美しさを彼女は知らないのだ。
私はフライパンを小刻みに揺らし、余熱だけで卵をまとめ上げる。
中心はとろりと半熟、外側は絹のような滑らかさ。
お皿に滑り込ませたそれは、ルオ商会のフォアグラよりも、ずっと力強く輝いて見えた。
「……究極のオムレツです。食べてみてください」
私は、彼女の前に皿を置いた。
ステファニーは、戸惑いながらもフォークを手に取った。
震える手先で、黄金の膜を切り裂く。中から溢れ出したのは、温かな湯気と、濃厚な卵の香り。
彼女が一口、それを口に運んだ瞬間。
部屋の空気が、ふっと変わった。
ステファニーの瞳が大きく見開かれ、そして、ゆっくりと潤んでいく。
「……温かい。……信じられない。ただの卵が、どうしてこんなに、……胸の奥まで熱くなるのですの?」
彼女の声は、もう先ほどの高慢な令嬢のものではなかった。
それは、何不自由ない生活の中で、一度も「誰かの体温がこもった食事」を与えられなかった、一人の少女の告白だった。
「ステファニー、それがミリーの料理なのよ」
リィナが優しく微笑む。
「金で買える最高級品もいいけれど、私たちは、この『熱』を分かち合うために集まっているの」
キッカが彼女の肩に手を置く。
ステファニーは、何度も頷きながら、一心不乱にオムレツを口に運び続けた。
彼女が持ち込んだフォアグラの缶詰は、テーブルの端で、所在なさげに光を反射している。
宇宙世紀0092年。
世界を動かすのは、巨大な資本や、圧倒的な武力なのかもしれない。
けれど、この小さなキッチンで、令嬢の孤独を溶かしたのは、一個数クレジットの卵が持つ、確かな熱だった。
「……ミリーさん。……私、明日も来てよろしいかしら?」
食後、少し赤くなった目で私を見つめるステファニーに、私は戸惑いながらも、小さく頷いた。
「はい。……ジャガイモの皮剥きから、手伝ってもらいますけど」
「……ふふっ、望むところですわ」
彼女の初めての笑顔は、窓から差し込む夕陽よりも、ずっと綺麗だった。
宣戦布告まで、あと一年を切ろうとしている。
不穏なニュースは今日も端末を賑わせているけれど、私たちの食卓には、新しい椅子が一つ増えることになった。